天使だった冬

 昨年のクリスマスの日。


 足首まで積もってなお、しんしんと雪が降る夜。街の喧騒から逃げるように、ハルカは郊外の夜道を歩いていました。


 そんな時です。ハルカがシエルと出会ったのは。雪の中に埋もれていたシエルを、ハルカは見つけて自宅まで運びました。


「そうだよ! ハルカはわたしを助けてくれたんだよ」


 シエルには当時の記憶がありません。でも、ハルカが一人の少女の命を救ったことは事実で。


「この話には続きがあるの。ううん……、シエルには黙っていたことがあるの」

「わたしに黙っていたこと……?」


 ハルカはコクリと小さく頷くと、険しい表情で語りはじめました。


「私は雪の中からシエルを見つけた。でも、シエルは……

「今のわたしじゃない……?」


 雪の中からシエルの体を掘り起こそうとした時、ハルカは違和感を持ちました。雪の重さです。華奢な少女一人分にしては雪の質量が大きいのです。水分を吸った雪はずっしりと、シエルの体に乗っています。ハルカはかじかむ手も厭わず、体の雪を払っていきます。


 最初は宝探しのようなドキドキした気持ちでした。しかし、その姿が顕になるほど、ハルカの体を支配するのは畏怖の念でした。なぜなら、そこには――。


「シエルの背中にはね……、羽が生えていたの……」

「はね……?」


 辺りを埋め尽くす真っ白な雪にも見劣りしない純白の羽がシエルから生えていたのです。所々破れていますが、それは、この世のものではない神秘的な美しさを宿していました。


 シエルは、天使だったのです。


 童話や小説に出てくる天使に会えたらどんなに素敵だろうと、ハルカは夢見ていました。しかし、本当に遭遇してしまうと、興奮や憧れの感情は霧散し、恐怖だけが残りました。


 人間は、この世には存在しない輝きを目の当たりにすると、怖くなってしまうのです。ハルカはそれを、身を持って知りました。


 だからといって、意識のない少女をこのまま極寒の野外に放置しておくわけにもいきません。シエルを背負って自宅を目指します。赤ん坊が眠っているときに指や眉を反射的にピクピク動かすように、シエルの翼もまた意思を持ったようにふわふわと動いていました。


 家に着くと、急いでシエルをベッドへ寝かせます。羽がこれ以上痛まないように慎重に。ただでさえ極寒の地に、シエルは布のような薄い生地の衣類を一枚羽織っただけの格好で倒れていました。普通なら凍死しています。ハルカは毛布を何枚も持ってきてシエルの体の上にかけてあげました。


 両親は仕事で不在。頼れる大人はいません。ハルカにできることは何もなく、眠る少女の横で夜を明かすのでした。



 目を覚ますと朝食の香りが鼻腔をくすぐりました。ハルカよりも夜遅くに帰ってきたお母さんが、ハルカよりも先に起床して朝食を作っていました。一階から漂ってくる温かい匂いに脳が覚醒します。


 思い出したようにベッドに目を遣ります。シエルの綺麗なまつ毛は依然として閉じられたままでした。彼女の口元に耳を近づけると、微かですが呼吸の音がします。胸に顔をくっつけると生命の鼓動を感じます。シエルが生きていると分かった瞬間、どれほどハルカが安堵したか、それは彼女本人しか知りえません。


 日が昇りきると、ハルカはシエルの面倒を見たいと、両親にお願いしました。本能的に、シエルに羽があることはたとえ家族であっても喋ってはいけないことと思い、ハルカは羽のことを秘密にしました。


 優しい両親は快く承諾してくれて、同時に、医者に診てもらえるお金がないことを申し訳なく言っていました。診療費だけでハルカの家族三人が当面暮らせるほどの費用がかかります。それに、人間でない少女の治療を人間の医療機関に任せるわけにもいきません。他人の力に頼らず、自分がシエルの面倒を見るとハルカは誓ったのです。



 シエルの意識が戻らないまま、三日が過ぎました。胸が上下に動いて健康的な寝息が聞こえるようになりました。それは、回復の兆しなのかもしれません。


 しかし、それは人間の常識。。このまま、永遠に目を覚まさないかもしれない――そんな不安が込み上げます。


 目にかかった前髪をよけてあげます。すると、「んっ……」というかすかな呻きがシエルの口から零れました。


「……っ!?」


 ハルカは心臓が一瞬停まりかけて、すぐに爆弾のように脈打ちます。しかしながら、反応があったのはその一瞬だけで、再び深い眠りに落ちていくのでした。


 ――翌日。


 たらいに入ったお湯にタオルを浸して、ハルカはシエルの体を丁寧に拭いてあげます。細い腕、起伏のない胸、華奢な腰、柔らかな脚まで……。汗のかきやすい首周りや脇は念入りに。頭から足の爪先まで、丁寧に。絹のように滑からな白髪は何時間でも触っていたくなるほどで。純白の羽は扱いが分からなかったので、体を拭いたときと同じように、生ぬるいお湯で濡らしたタオルでぽんぽんと叩くよう拭いて、仕上げに手櫛で形を整えます。


 介助しているのに、お人形の手入れをしているような感覚にも陥りました。それほどシエルの容姿は造られたかのように端麗だったのです。ハルカの鼓動は自然と速くなります。


 一通り終えて、新しいパジャマに着替えさせてあげます。パジャマはハルカが昔使っていたものです。羽が休めるように、背中に穴を二つ切り開けました。羽をくぐらせてから、袖を通し、前のボタンをとめたら終わりです。すやすやと眠る少女に毛布をかけます。


「おやすみ」


 ぬるくなったお湯の入った盥を持って、部屋を出ました。



 明らかな変化があったのは、それから二日後です。今年もあと数時間で終わろうとしている頃、シエルの呻く回数が増えていたのです。


「ん……、んっ……」という、赤ん坊が起きる前のような反応を示すシエル。目覚めが近いと、ハルカは直感的に理解しました。


 柔らかく整った手に、自身の手を添わせます。すると、シエルはぎゅっとハルカの指を握りました。驚いて視線を移しますが、彼女はまだ深い眠りの中。ただの反射現象なのですが、夢の中とはいえ自分のことを受け入れてくれていると感じられて、ハルカは嬉しかったのです。


 自分とは異なる生命体の遭遇に最初は怯えました。その感情はすぐに、少女を案じるものに変わりました。ベッドの隣で見守る時間が長くなるにつれて、彼女の気持ちは大きくなっていきました。日を重ねるごとにシエルへの感情は特別なものへと変化していったのです。


 問題だったのは、その想いが純潔なものに留まらなかったことです。それは、ハルカ自身がよく知っていました。本当は抱いてはいけない、その黒い感情に。


「ハルカはずっと隣に居てくれてたんだね」

「シエルは当時のことは覚えてないんだよね?」

「うん……。何度か思い出そうとしたんだけど、ダメなの」


 そこまでハルカの話を聞いて、シエルはひとつの疑問を持ちます。正確には、ずっと燻っていたのに、口に出していいか躊躇っていたのです。心のどこかで、訊いてはいけないと強く牽制されていたのです。


「ねぇ、ハルカ。わたしの背中には羽が生えてたって言ったよね? でも、今のわたしには生えてない……」

「…………」

「どうして……かな? ハルカの話が本当なら、わたしの羽は……どこにいったの?」


 崩れそうな語調で訊ねるシエルに、ハルカは視線を逃して言います。


「――いたんだ……」

「え?」


「私が……、シエルの羽を抜いたんだ」

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