月夜の告白

「ん……」


 その日の夜中。物音が聞こえた気がして、シエルはふと目を覚まします。立て続けに玄関の方から音がしました。のそのそとベッドの上を移動して窓の外を見ると、


「ハルカ……?」


 こんな時間だというのに、ハルカはどこかへ出かけていきます。居ても立ってもいられずジエルも後を追います。


 ハルカの背中はすぐに捉えることができました。一定の距離を保ち、物陰に隠れながら、ハルカを尾行します。


(こんな夜にどこに行くんだろう……?)


 街の中心部とは反対の方へハルカは歩みを進めます。建物は消え、石畳の道は舗装されていない砂利道に。慣れた足取りでどんどん街の外れに向かっていきます。


 その景色はシエルにも覚えがありました。なぜならそこは、二人だけの特別な場所だったからです。



 ――秘密の高台


 昼間のうだるような暑さを忘れたように、夜の高台は肌寒い風が吹いていました。


 ハルカは高台の先で足を止めると、眼下に広がる夜の街を眺めます。シエルは彼女の後ろ姿を、東屋の陰から見守ります。しばらくして、ハルカはポケットから何かを取り出しました。遠目でよく見えませんが、あれは――。


 刹那、優しい音色がシエルの鼓膜を撫でます。ハルカが取り出したのはオカリナです。彼女の両親がハルカの誕生日に買ってあげた思い出の楽器。朧気な音色はオカリナの特徴ですが、今夜の旋律にはハルカの心情が投影されているようにも聞こえます。少なくとも、シエルが今までで聞いた中で一番哀しい音色です。


 ――辛いことがあると、いつもここに来てオカリナを吹いてた。


 ハルカは前にそう言っていました。楕円の陶器から生まれた音たちはシャボン玉のように夜空へ消えていきます。昔のハルカは、こんな風に孤独の時間を過ごしていたのでしょうか。それを考えると夏に似つかわしくない冷たい隙間風が、シエルの心を通り抜けるようでした。


 そして、一通り吹き終えた後、ハルカはオカリナの吹き口から名残惜しそうに唇を離しました。そこに、拍手をしながらシエルが歩み寄ります。


「……シエル」

「やっぱりハルカの演奏は素敵だよ」


 およそ一週間ぶりの対面です。


「ハルカ、少し痩せたね。……大丈夫?」

「平気だよ」

「うそ。ご飯だって全然食べてないじゃん」


 “痩せた”というよりは“やつれた”様子で。頬は痩せこけて健康的な血色は失われています。


「シエルはちゃんと学校に行ってる?」

「うん」

「どう、最近?」

「楽しく……ないよ。ハルカがいない学校なんて、楽しく……ない」


 唇をきゅっと結んでシエルが悔しさを露わにします。


「あれからマレゴは何か言ってきてる?」


 力のない平坦な口調でハルカは訊ねます。


「マレゴのお屋敷で働かないかって言われてる」


 あの日以来、顔を合わせる度に勧誘してくるマレゴに、シエルは辟易していました。


「シエルはマレゴから気に入られてるもんね」

「なんにも嬉しくないけどね」


 シエルは呆れ混じりにため息をつきます。


「わたしがマレゴの家の人間になれば、ハルカの家に金銭的な援助をするって。冗談じゃないよね。馬鹿にするのもいい加減にしてって話だよね」

「マレゴがそう言ったの?」

「……うん」

「シエルはなんて答えたの?」

「もちろん断ったよ」


 あの憎たらしい女の提案を毅然と断れば、ハルカは喜んでくれると思っていました。けれど、ハルカの表情は晴れないどころか、次にシエルの耳に届いたのは信じられない発言でした。


「行ってもいいんだよ……シエル」


 一瞬、何を言われたか理解が及ばず、シエルは目を白黒させます。


「ハルカ……、今……なんて」

「シエルがマレゴの……ううん、マレゴの所じゃなくてもいいけど。他の家がいいなら、行ってもいい。そう言ったんだよ」

「なんで……。なんでそんなこと言うの……ハルカ」


 シエルが唇を震わせながら訊きます。


「学校の生徒はみんな上流階級の末裔。シエルくらい優秀な子なら、お願いすればどこでも引き取ってくれるよ。もう質素な食事をして周りから馬鹿にされることもないし、軋むベッドで寝る必要もない。シエルにとって一番良い選択だと思う」

「マレゴに言われたことを気にしてるの? それとも、お金がないから……? だったら、わたし学校辞めるよ? そしたら、ハルカのママと一緒に働くよ! だからハルカは――」

「そういうことじゃないのッ!!!」


 突然張り上げられた声にシエルの言葉は途切れました。


「そういうことじゃ……ないんだよ……、シエル」


 振り絞るように声でハルカは言葉を紡ぎます。


「お父さんが死んだのも、シエルが苦しんでるのも、ぜんぶ……私のせいなんだ」

「パパが亡くなったのは誰が悪いわけでもないよ。戦争がいけないんだ。わたしだってハルカが居てくれれば辛くなんかないよ」


「私は、シエルと一緒にいる資格なんてないんだよ」

「なんで!? わたしはハルカが好きで、ハルカとずっと一緒にいたいって、そう思ってる」


「私だって……っ! 私だって、あなたが好き! シエルの声も、碧い瞳も、無邪気に笑う姿も、こんな空っぽの私の側にいてくれることも。シエルの全部が好き! でも……、だめなんだよ。私は……シエルの側に居られない」

「ハルカ……」


 ハルカは父の死を嘆き、マレゴに言われたことを気にして自分を追い詰めていると、シエルは思っていました。しかし、言葉の端々にはそれ以上のものを感じますが、シエルにはその正体が分かりません。


「教えて……ハルカ。ハルカは何を隠しているの?」


 ハルカは答えません。言ってしまったら、本当にシエルとは離れ離れになってしまうと思ったからです。


「ハルカはわたしのことを好きって言ってくれた。嫌いになんかならないよ。わたしは、ずっとハルカの側にいる。だから教えて。ハルカは何を知っているの?」


 空に浮かぶ丸い月が、街灯がひとつもない高台を青白く照らします。まるで淡く透き通った海に沈んだかのように辺りは神秘的な光に包まれ、時間の流れまでもがゆっくりになったようで。


 ハルカは寝静まった街に視線を投げると、意を決して語り出すのでした。


 雪が降っていたあの日のことを。そして、犯した過ちについて――話してしまったら今までの関係にはもう戻れない、あの日の過ちについて。


「私は……シエル、あなたを殺したんだよ」

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