隣にはいつも君がいた

「ママ!」

「……シエルちゃん」


 家の扉を叩くとハルカのお母さんが帰っていました。


「ハルカは?」

「二階の部屋よ」


 お母さんはあてのない長旅から帰ってきたような酷くやつれた顔をしていました。シエルが帰宅する前、どんな会話が親子の間で交わされたのか、想像したくもありません。


 シエルはお礼を言うと階段を登ってハルカの部屋の前へ。走ってきて乱れた息を整えて軽く二回だけノックをしました。


「ハルカ……いる?」


 扉の向こうからの返事はありません。


「入るよ、ハルカ」


 そっと扉を開けます。部屋の中にはハルカがいました。窓辺の下で背中を壁に預け、顔を埋めて体育座りをしています。


「ハルカ……」


 学校を抜け出しからここに来るまで、ハルカにどんな言葉をかければいいか考えていました。結局、何も思い浮かばないまま辿り着いてしまい、ハルカの姿を見たら頭が真っ白になってしまいました。


 シエルは音を立てないように背中で扉を閉めます。意外にも先に口火を切ったのはハルカでした。


「少し前からね、お父さんからの返事……届いてなかったんだ」


 感情を宿さない声色でした。


 ハルカとお父さんは手紙のやり取りをしていました。徴兵された最初の頃はすぐに返信が届いていましたが、七月になって手紙の返事が遅れた時がありました。初の指令が下ったのです。後日送られてきた父の手紙には、小さい功績ながらも初めての任務に貢献した旨が書かれていました。父の嬉しさが文面から伝わってくるようでした。


「安心したし、現地で活躍してるお父さんを誇りに思った。お父さん頑張れって、心の中で応援してた」


 その想いを利き手に込めて筆を走らせました。


 しかし、それを受取人が読むことは永遠になかったのです。最後の手紙を出してすぐに、父は火薬の臭いが渦巻く戦場で命を落としました。娘の手紙が届くことはありませんでした。


 軍の関係者がここを訪れたのはしばらくしてからです。お母さんが対応して、訃報を受け取りました。娘を心配した母は父の死を秘密にしていたのですが、手紙の返事が遠いことから、ハルカは薄々と察していたのです。


 いえ、もしかしたら――お母さんもまた、ハルカはもう知っていると気付いていたのかもしれません。互いに言い出す機会を失ったまま今日まで来てしまい、そこに先ほどのマレゴとの一件です。ハルカとお母さんは初めて言葉を交わし、ハルカは真相を知りました。母親のやつれた表情には哀愁と罪悪感が刻まれていたのです。


「お父さんからの手紙はいつも、私たちを気にかける言葉で結ばれてたの。どんなに訓練で疲れてても、どんなに苦しくても、家族のことを心配してた。それはもちろん、シエルのこともね」


 シエルも父からの手紙は読んでいました。「ハルカと仲良くね」「悩みがあったら遠慮なくお父さんとお母さんを頼りなさい。必ず力になるから」……いつも温かい言葉に励まされてきました。


「でも……っ、もういない……。もう、手紙ももらえない。朝起きても、テーブルの向こうにお父さんは座っていない。勉強を頑張っても、褒めてくれない。お休みの日に遊んでもらえない」

「ハルカ……」


 依然として俯いたまま言葉を湿らす少女に、シエルは何も言えません。透き通った碧眼が儚げに揺れます。


「私の隣にはもう、……お父さんは……いない。大好きだった日々はもう、戻ってこない……ッ」

「わたしがハルカの側にいるよ。わたしはずっと、ハルカの隣にいるよ」

「ぐすん……っ。シエルだって……シエルだって、もう……」

「わたしがどうしたの?」


 ハルカは鼻をすすって続きを継ぎません。『シエルも』とはどういう意味でしょうか。


「あのね、ハルカ。わたし……」

「ごめん、シエル。少しだけ……ひとりにさせて」


 喉まで出かかった想いは言葉の形になりません。


 ハルカくらいの年で大人に混ざって労働している子はたくさんいます。しかし、いくら大人の世界に足を踏み入れようとも、まだ子どもなのです。幼さの面影を残す少女にとって、家族の死は重く、酷なものでした。


 シエルは何もできない無力さを痛感しながら、部屋を出て扉をそっと閉じるのでした。



「ハルカ、学校行こう?」


 翌朝。部屋の外からシエルが話しかけます。が、ハルカからの返事はありません。起きているのは分かっていますが、それ以上シエルは何も言いません。


「……行ってくるね、ハルカ」


 そう告げてシエルは家を後にしました。


 照りつける容赦のない日差しの中、学校を目指します。暦は八月に入っていて、内陸のココリク街はなんとも言えない蒸し暑さを感じさせます。いつもはハルカと一緒の通学路を一人で歩きます。隣に彼女がいない足取りは、まるで足首に鎖が付けられているように重く感じました。


「あらぁ、シエルさん、ごきげんよう。今日もお人形さんのように可愛らしいですわぁ」


 教室に入るなり不愉快な声が耳朶を打ちます。


 マレゴ・ウィークスピア。昨日のシエルとのいざこざなんてどこ吹く風で、涼しい目線をシエルに向けてきます。シエルは悠然と椅子に座る憎たらしい同級生を無視して、自分の席に着こうとします。


「つれないですわぁシエルさん。シエルさんのような麗人に無視されますと、いくらこのマレゴ・ウィークスピアといえど、心に深い傷を負ってしまいます……うふふ」


 背中に感じる卑しい視線を振り払って、シエルは授業の準備を始めます。


「シエルさん。学友に朝お会いしたら挨拶するのがよろしくてよ。挨拶は礼儀作法の基本ですわ。そんな簡単なこともできないのは下等種族です。まあシエルさんの場合、止まれぬ事情からあの下等種族と屋根の下の生活を共有しなければいけない訳ですから、きっと下衆の不作法が伝染してしまったのですわね。お可哀そうに。あら? そういえば、本日はその下等種族が見当たりませんわね。どうりで今朝の空気がおいしく感じられたわけですわぁ」

「く……っ!」


 シエルは奥歯を強く噛んで立ち上がり、背後に座っているマレゴを睨みつけました。


「やっとシエルさんの可憐なご尊顔を拝することができましたわ。もう少し表情を柔らかくして頂けると、尚わたくし好みなのですけれど……んふふ」

「ハルカを侮辱しないで」

「あらぁ! わたくし、一度もハルカさんのお名前なんて出してませんわぁ。それに、あんな子と比べられたら、下等種族の方々に失礼ですわ」


 怒りに任せたシエルの拳は小刻みに震えます。しかし、ここで目の前の少女と争ったところで何も解決しないと、賢いシエルはよく理解していました。だから言い返さず、怒りの拳は決して振りかざすことはありません。


「以前にシエルさんをわたくしの屋敷にお誘いしたのを覚えていらっしゃいます? 遊びにではなく、本当にウィークスピア家の一員になって頂いてもよろしくてよ。養子でも使用人でも歓迎いたしますわ。個人的には、わたくしのお人形さんになっていただくのが一番理想なのですけれど、うふふ」


 下品に口角を吊り上げて白髪の少女を見上げます。マレゴは今、膝の上にシエルをのせて、彼女の髪を手櫛で梳いている光景でも思い浮かべているのでしょう。


「夜のお相手だけでなく、教養や礼儀作法も丁寧にお教えしますよ。ええ、それはこのマレゴ・ウィークスピア直々にシエルさんを手取り足取り教育して差し上げますわぁ! どんな社交場に参加しても恥ずかしくないようにね。シエルさんにとっては必ずや有益な経験になるかと」

「……遠慮するわ」

「あら残念。でも、気が向いたらお話くださいね。わたくしはいつでもお待ちしておりますわ」



「ママ、ハルカは?」

「…………」

「そう……」


 シエルの問いに、ハルカのお母さんは静かに首を横に振りました。ダイニングには二人分の食器の音だけが寂しく響きます。四人で食卓を囲っていたのが、遠い昔のよう。


 ハルカが自室に籠もるようになって一週間が経とうとしていました。その間、シエルは一人で学校に行って、夜はお母さんと夕食を食べます。返事がないと分かっていながらも、シエルは毎日ハルカの部屋の前で「いってきます」と「おやすみなさい」を欠かさず言うのでした。お母さんも食事を昼と夜の二回、部屋の前に置いておくのですが、手つかずの冷え切った皿が残るばかり。


「……ごちそうさま」

「もういいの、シエルちゃん?」

「うん。余ったのは明日の朝食べるね」


 夕食を半分以上残して、シエルは椅子から立ち上がります。ハルカがいつも座っていた、隣の空席を見ながら。

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