戦火に散る

「お父さん……ッ! 行っちゃ嫌だぁ!」


 その日の朝は穏やかではありませんでした。大きな荷物を肩に担いで家を出ていこうとする父の背中に、ハルカは泣きながら縋り付きます。


「ハルちゃん。わがままを言って、お父さんを困らせちゃダメよ」

「でも、お母さん! お母さんはいいの!? お父さんが……ッ」

「帰ってこないって決まったわけじゃないでしょ。それに、辛いのはお父さんだけじゃないのよ」

「でも……っ!」


 服の裾をぎゅっと掴んで放さない娘に、父は語りかけます。


「工場で働いていた時よりもたくさん賃金がもらえるんだ。そうすれば、ハルカとシエルにもっとおいしいもの食べさせてあげられるし、プレゼントだって買ってあげられるんだぞ?」

「いらない……いらないよ、そんなの……」


 最愛の妻子を残して戦地に赴く兵隊の心情など、誰が想像できるでしょうか。全身の骨を砕かれるような痛みが走ります。お父さんはあらゆる感情を押し殺して、なるべく穏やかな口調になるように努めて口を開きました。


「ハルカは大人になったら、何になりたい?」

「……そんな遠い未来のこと、分からないよ……」

「そうだな。お父さんもそうだった。お父さんも若い頃は人に語れるような夢なんてなかった。大人になったら、その時になったら考えればいいって、そう思ってた。そして、ずっと先の話だと思ってた未来は、あっという間に訪れた」


 過ぎ去った日々を愛でるように父は言葉を紡ぎます。


「お父さんは未来のために戦うよ」

「そんなのお父さんじゃなくてもいいじゃないっ! どうして、お父さんが……ッ」

「ハルカ、お父さんは国のためとか、顔も知らない人のために命を捧げられるほど立派な人間じゃないよ。こんなひょろひょろの体じゃ、せいぜい家族に尽くすのがやっとだ。お父さんは、ハルカとお母さんのために戦うんだ」


 優しい父親像を崩さず、ハルカと妻を見つめます。


「夢を持ちなさい、ハルカ。そして、ハルカが大人になったとき、ハルカの夢が叶えられないような社会になっていては、お父さんは悲しい。だから、元気をおくれ。お父さんが頑張れるように」


 そう言ってハルカの栗色の髪の毛を撫でました。長年工場で働いてきた父の手は黒ずんでいて深い皺が刻まれています。けれど、細身の体型とは反対に父の手は大きくて、温かくて……それは紛れもなく、世界で一人だけの、父親の手でした。


 駄々をこねても決定は覆せない。そんなことはハルカも理解していました。だから、血の涙を流すような思いで父に告げるのです。


「お父さん、手紙送るからね。いっぱい……送るからね。そして……、帰ってきたら、また遊ぼうね」

「約束だ」


 父は力強く言うと、膝を少し折って娘の体を抱きしめました。


「大きくなったな、ハルカ」

「うん……、うん……ッ」


 お父さんはその後ハルカにしたのと同じようにお母さんを抱きしめました。短い時間でしたが、全てを伝えるような抱擁でした。ハルカが生まれる前、二人がどんな風に過ごしていたのか――その一端を垣間見た気がしたのです。


 お父さんは重そうな荷物を担ぐと、そのまま家を出ていきました。


 ハルカは最後まで目元を腫らし、お母さんは最後まで覚悟を決めた表情で、大切な人の背中を見送りました。玄関の扉が閉まった家には、ハルカと母親、遠目から見ていたシエルだけが残されました。


「あなた達も、学校に行きなさい……」


 お母さんはそう残すと、自分も仕事に出かける支度をはじめました。お母さんはどれだけ断腸の思いだったことでしょう。どれだけの時間をかけて身を削る覚悟を固めたのでしょう。ハルカと同じ若葉色の瞳は切なく揺れていました。


 まだ心の整理がつかないハルカの元へ駆け寄ってきたのはシエルです。シエルは難しい顔をして訊ねました。


「ハルカのお父さん、戦争に行ったの?」

「うん……、徴兵がかかってね。いつ帰ってくるか分からないんだって」

「そう……」


 シエルの声は寂しく沈みました。


「ハルカ、学校に行こ?」

「……うん」


 シエルに促されてハルカも渋々と登校の準備をするのでした。



 父が家を去ってから、ハルカは気丈に振る舞うようになりました。今まで通りに学校に行って、今まで通りにシエルと遊んで、今まで通りにお母さんを含めた三人で食事をする。違うのはお父さんがいないことだけ。今まで通り……。そう思わないと、本当にこの日常が崩れてしまうんじゃないかと不安になってしまうからです。


 そんな中、父から不定期に送られてくる手紙が、ハルカの心の支えになっていました。手紙には訓練の様子や、自分が工場で作った武器の部品が実践で使われていて誇りに思ったこと、同僚と夜な夜な馬鹿騒ぎしたことなどが記してありました。文面からその光景が目に浮かぶようで。ハルカは手紙を書いて送り、返信がきたら隅々まで読んで、大事に机の中にしまっていたのです。


 ラジオや新聞からは母国の勝利と栄光を称える報せが飛び交います。しかし、ハルカには実感がわきませんでした。戦争が収束に向かっているのなら、なぜ民間人に兵役を課すのでしょう。なぜ、配給される物資は日に日に貧しくなっていくのでしょう。なぜ帰還してくる兵隊さんは、今なお地獄を見ているような顔をしているのでしょう。新聞の活字の世界と、現実の世界は全く違うように感じられました。


 上空では戦闘機が重苦しい音を轟かせながら彼方へ消えていくのに、街の暮らしは昨日までと何も変わらず、自分はいつもと同じように学校に通っている。日常の色と、非日常の色が混在して、頭がおかしくなりそうでした。


 そうして、父が去ってから三ヶ月が経ちました。


「あらぁ、シエルさんにハルカさん。ごきげんよう」


 学校の廊下でマレゴに話しかけられました。


「何か用?」


 シエルがすぐさまハルカを庇うように、一歩前に出て敵意を露わにします。


「そんな邪険にしないでください、シエルさん。わたくしはただ、大切なご学友であるハルカさんが、最近お元気がないみたいですから、案じているのですよ」

「ハルカにはわたしが付いてるから大丈夫だよ」

「あら! お熱いこと! んふふ」


 マレゴは上品な所作で口元に手を遣ってほくそ笑みます。


「行こう、ハルカ」

「お待ちになって」


 ハルカの手を引いて立ち去ろうとするシエルに、マレゴは言葉を挿しました。


「わたくしが言うのもお門違いかもしれませんが、お父上様の件はお気の毒でした。すぐに……というのは難しいでしょうが、どうぞお気持ちを強くお持ちになりまして」

「なにを……言ってるの?」


 それはシエルの言葉でしたが、俯くハルカの代弁のようにも聞こえました。


「あら? シエルさんはご存知でなかったのね? ダメですよ、ハルカさん。お辛いのは分かりますが、シエルさんは曲がりなりにもご家族でしょう? ちゃんとお伝えしなきゃ。ハルカさんのお父上様が、先の戦いで戦死したと……んふふ」

「そん……な……」


 シエルは定まらない焦点でハルカに視線を移します。ハルカは一瞬だけ瞳を大きく見開いた後、何も言わず顔を伏せました。


「あら? もしかして……、ハルカさんも初耳……なんてことはありませんよねぇ? 大事なご家族ですもんねぇ。陸上作戦で特攻任務を任されたのに、ひとつの戦果も上げられずに、無様に死んでいったことくらい……最愛のパパの娘なら、当然知ってますよね~ハルカさん。んふふ」

「マレゴ……っ!」


 卑しく言葉を並べる同級生を、睨み殺すような目つきでシエルが見つめます。


「…………っ!」

「ハルカ!」


 ハルカはシエルの手を振りほどいて、逃げるように去りました。前髪が垂れていて表情はちゃんと見えませんでしたが、彼女の目元から雫が舞い散るのを、シエルは見逃しませんでした。


「あ~あ。子は現実逃避、親は屍の役立たず。親が親なら、子も子ですわね」

「くっ……!」

「ですから、そんな怖い顔、シエルさんにはお似合いでなくてよ」

「なんであんな酷いこと言うの」

「心外ですわ。ハルカさんが事実をお知りでないなら、あまりにも気の毒と思っただけです」


 全く芯がない言葉に、シエルは唇を強く噛みます。


「そんなに、ハルカが嫌い?」

「嫌いよ」


 今までのようなわざとらしさを伴わない、非常に冷たい声色でした。


 マレゴは、庶民の分際で教育を受けているハルカを嫌悪しています。


「たしかに、マレゴに比べれば、ハルカの家は裕福じゃない。けれど、それはハルカのせいじゃない! もちろん、ハルカのお父さんとお母さんの責任でもない!」

「努力を惜しまなければ境遇は改善するのよ。なのに、あの子の父親はどうですの? ずっと小汚い工場で油臭い工作ばかりして」

「ハルカのお父さんみたいな人が陰で頑張ってるから、軍人さんが堂々と戦えるんでしょ! マレゴのお父さんだって、ハルカのお父さんの恩恵を受けている一人なんだよ?!」

「笑わせないで。チェスのポーンの仕事もできなかった廃棄物に、わたくしのお父様が恩恵を受けている!? 愚弄もいいところよ」


 シエルの強く噛みしめられた唇からは鮮血が流れ出していて、両手の拳は爪が食い込むほどにぎゅっと握られていました。


木偶でくの坊を割ったとろこで生まれてくるのは、やっぱり木偶の坊ですわ。ハルカさんという人間が、それを証明しているじゃない」

「お前がハルカを……、ハルカの両親を語るなあああッ!」


 シエルの怒声が廊下に響き渡ります。


「あの子は空っぽなのよ。特筆した才能がある訳でもない。家柄が良い訳でもない。そんな子、この学校に居る価値あると思う? わたくしと同じ空間に居て、同じ空気を吸う権利があると思う!? 虫唾が走る!」

「ハルカは頑張ってるよ!」


「じゃあどうして後から入ってきたシエルさんに追い抜かれるのかしらね~。最初は満足に言葉も話せなかったシエルさんに、今じゃ成績も追い抜かれて。惰性に生きている証拠じゃない」

「そんなの……関係ない」


「関係あるわ。彼女には甘えがあるのよ。今のままでいい、戦争が終わったらきっと世界は幸せになる。そんな漫然とした幻想に身を委ねて、未来を見ていない。だから何も変わらないし、大切な人だって守れない」


 反論の言葉を頭の中で練りながらも、シエルは理解しました。これは、マレゴの言葉であり、マレゴの父親の価値観なのだと。幼い頃から軍の士官である父親から様々な哲学や愛国主義を叩き込まれ、それが今のマレゴの人格を形成しているのです。


「ちょ、ちょっとあなた達! 一体何の騒ぎですか!?」


 遠くから騒ぎを聞きつけた先生がこちらに向かってきます。


「邪魔が入ったわね。ほら、ハルカさんを追いかけなさいな。あなたの愛しい愛しい廃棄物のところへね」


 捨てるように吐くと、マレゴはスカートを翻して去っていきました。

 その不愉快な後ろ姿を一瞥して、シエルも学校を後にするのでした。

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