秘密の高台と思い出のオカリナ

 シエルはハルカに連れられて郊外まで来ました。街から離れるほどに人の声は減っていきます。舗装されていない砂利道を越えると少しずつ緑の芝生が足裏を包むようになりました。


 そして、学校を出発してしばらく歩いた頃。


「わぁ……!」


 シエルの眼前には、茜色の海に沈んだココリク街が広がります。


「ここからは街を一望できるんだよ」


 夕刻の風に揺れる髪をおさえながら、ハルカは言いました。


 二人が訪れたのはココリクの街を見渡せる高台です。足元には鮮やかな芝生が広がっていて、辺りにあるのは石造りの東屋だけ。他には何もなく、自然の音だけが軽やかに流れています。


「ここはね、私だけの秘密の場所なんだ」

「そんな場所、わたしに教えてよかったの?」

「シエルだから教えたんだ。他の人には教えないよ」


 それを聞いてシエルは嬉しそうに口元を綻ばせます。


 あくまでも街が管理している一画なのですが、ハルカ以外にこの高台を訪れているところを彼女は見たことがありません。だから、まるで自分だけが知っている秘密の場所のように思っていたのです。


 二人は草原の上に腰を下ろして、地平線に沈んでいく太陽を見つめます。


「私ね、嫌なことがあるとよくここに来てたんだ」


 寂しい声色でした。人との接点を持つのが苦手で。社会的に地位のある人に囲まれ、時に庶民と蔑まれ。ハルカがどんな人生を歩んできたか、彼女の言葉に宿った色が如実に物語っていました。


 シエルは、彼方を見つめるハルカの横顔に耐えきれなくなってそっと視線を下へ外します。すると、彼女のカバンから何かがはみ出していることに気付きました。


「ハルカ、それは何?」

「ん? あぁ、これはね――」


 ハルカはそれをカバンから取り出すと、隣のシエルに見せます。いくつか穴が空いている赤褐色の楕円形の陶器です。


「オカリナだよ」

「オカリナ?」

「音楽を演奏するための道具だよ」

「音楽!」


 シエルはオカリナという楽器は知らないけど、音楽という言葉には食いつきが良いようでした。


「すごい! ハルカは演奏ができるんだね。聴きたいな」

「え、いや、私は下手だから……」

「それでもいいよ。聴きたいな、ハルカのオカリナ」

「んもう、ちょっとだけだよ」


 シエルの頼み事をハルカは拒否できません。「期待しないでね」と前置きして、ハルカは珊瑚色の唇を吹き口に当てました。


 そして――


 息を吹き込むと温かい音が生まれました。ひとつ、またひとつ。塞ぐ指穴を器用に変えることで音色の形は変わっていきます。音同士は連なって旋律になり、広々とした高台の空気に調和します。


 初めはハルカの吹く様子を横から眺めていたシエルも、途中からは目を閉じて耳を澄ませ、音色に集中していました。そして、あっという間に短い演奏会は終わります。


 オカリナから口を離すハルカの耳に、元気な拍手の音が届きます。


「はわぁ! すごいよ、ハルカ! とっても綺麗な演奏だね!」

「あ、ありがとう……」


 照れるハルカに、シエルは容赦のない憧景の眼差しを向けます。


「シエルも吹いてみる?」

「いいの!?」

「もちろん」

「はわぁ~~~」


 シエルはオカリナを受け取ると興味津々な様子で色々な角度から観察します。すると、背面にハルカの名前が刻まれているのを発見しました。


「これ、ハルカのだ!」

「誕生日プレゼントで両親からもらったの」

「素敵。思い出のオカリナなんだね」

「家計が苦しいから、プレゼントなんていいよって言ったんだけどね。変な遠慮はする必要ないってお父さんがくれたの」

「お母さんは?」

「娘の誕生日を祝うこと以上に、親の幸せは無いわよって。私は天からの授かりものなんだからって。大袈裟でしょ?」

「ううん、大袈裟じゃないよ。わたしも、そう思う」


 慈愛に似た穏やかな表情で、シエルはオカリナを撫でました。そして、突き出た吹き口に小さくて可愛い唇をつけました。


「ぁ……」

「ぼーひはの? ふぁるは?」

「う、ううん! なんでもない!」


 さっきまで自分が吹いていた吹き口にシエルの唇が触れるのを見て、ハルカの鼓動はトクンと速くなりました。シエルは小首を傾げながらも、息を吹き込んでみます。


 しかし、ピーッという耳奥を突く高い音が出るばかりで、ハルカのように優しい音色にはなりません。


「んむぅ~難しい……」

「最初はそんなものだよ。私だって、買ってもらったばかりの頃はろくに音鳴らなかったし」

「ハルカみたいに演奏したい!」

「じゃあ一緒に練習しようか」

「本当に!?」

「うん! ただし、今日はもう遅いから、本格的な練習は明日からね」

「やったぁ! ありがとうハルカ!」

「こちらこそ、ありがとうシエル」

「わたし、なにもしてないよ?」

「ううん、そんなことないよ」


 ハルカは過去を懐かしむように目を細めながら高台を見渡します。


「私は辛いことがあると、いつもここに来てオカリナを吹いてた」


 きっとこの高台は、ハルカにとって逃げ場所であり。オカリナは、苦しい気を紛らわすための道具だったのです。


「でも、それも今日でおしまい。だって、今の私にはシエルがいるから」

「じゃあ、今日からここは二人だけの『秘密の高台』だね」


 結局この日は、赤紫色の空が迎えに来るまでオカリナを吹き続けました。二人だけの、秘密の高台で。


 永遠なんて望まない。ただ、この幸せな日々が一日でも長く続いて欲しいと、少女は薄明の空に願います。


 しかし、現実は残酷なもので。自分たちが住む狭い世界と、地球という広い世界の流れは必ずしも一致しないということを、近い日に少女は知ることになるのです。

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