もうひとりの天使
二人の間に降りた沈黙は、やがて質量を伴って部屋の中を支配します。シエルとオレリアは見開いた瞳を互いに向けたままで、乾いた口から言葉は生まれませんでした。
呼吸することすら忘れそうになったその時――再び店の扉が開く音がしました。
「お待たせ~シエル」
オレリアへのお土産を携えたハルカがお店に戻ってきました。
「いい子で待ってた、シエル? あっ、オレリアさんお久しぶりです。先日はありがとうございました」
「「ハルカ……」」
シエルとオレリアは同時にハルカの顔を見ました。
「シエル……?」
さらりと揺れる白髪に碧い瞳の少女――ハルカとオレリアの間に立っている彼女を、ハルカはさっきシエルと呼びました。その名前をオレリアは小声で復唱します。
「二人は知り合い?」オレリアが訊ねます。
「はい。シエルは友達で、今は一緒に暮らしているんです」
「そう……なんだ」
「?」
歯切れの悪いオレリアと、俯くシエル。妙な空気の中、ハルカは不思議そうな面持ちで二人を見ます。すると、オレリアは何かに気付いて顔を上げます。店のカウンターから飛び出してシエルに駆け寄り、片腕を取りました。
「……っ!」
「オレリアさん! なにを!?」
焦燥に駆られるような、不安を殺すような、そんな表情でした。この前ハルカが会った時の大人の余裕は、今のオレリアからは感じられません。乱暴にシエルの服を後ろからめくり上げると、シエルの白い背中が露わになりました。
「あんた……羽はどうしたの?」
「え……?」
予想だにしない言葉がオレリアの口から漏れます。その声は震えていました。
(今、オレリアさん……『羽』って言った……?)
きっと聞き間違いです。だって、シエルの正体を知っているのはハルカだけで、それは二人だけの秘密なのですから。だから、淡い祈りを込めてハルカは聞き返すのです。
「オレリアさん、今なんて……」
「ハルカは黙ってて。私はこの子に訊いてるの」
鋭く、体の芯を冷やすような声色です。本能的に怖いと思ってしまいました。目の前の女性は、本当にあの時に自分を助けてくれた優しいお姉さんなのかと、疑ってしまうくらいに。
「羽はどうしたの?」
もう一度、オレリアはシエルに訊ねます。シエルは唇を一文字に結んで、目を合わせようとしません。言葉にならない焦燥がオレリアの中に募っていきます。オレリアはシエルの服を一気に首元までめくりました。シエルの背中が全面、外気にさらされます。
「ぁ……あぁ……」
砂漠を何日も放浪したような声が、オレリアの口から漏れます。シエルの
ハルカは反射的に床を蹴りました。オレリアの手を払って、シエルを守るように抱きかかえます。オレリアに向けられた視線は威嚇に満ちていました。呆気にとられたオレリアですが、二人の表情を見て会得します。
「……そういうこと」
何かを悟ったような、何かを諦めたような、オレリアの声でした。
「――っ!」
「シエル!」
ハルカの腕を解いて、シエルは逃げるように店から出ていきました。がらんとした店内にはハルカとオレリアだけが残されました。
「場所、変えようか」
オレリアは外に出て、閉店の札を扉にかけるのでした。
*
ハルカはオレリアに連れられて、街の郊外までやって来ました。たどり着いたのは小さな公園――奇しくも、ハルカがシエルと出会った場所です。街の果ては昼間だというのに誰もいません。
それは、二人にとって好都合でした。人に聞かれたくない話をするからです。邪魔者が入ったら困るからです。
二人はベンチに座りました。ハルカも警戒心を解いていませんが、さっきまでとは違い、冷静な物腰でオレリアの横顔を窺います。
「お店、開けてきてよかったんですか?」
「今日は店主も隣町に行ってて不在だからね。問題ないよ」
綺麗な金色の髪をさらりと流して口元を緩める仕草は、大人の風格を漂わせる女性そのものです。
しかし、彼女は人ではありません。
「オレリアさんは……いえ、オレリアさんも……天使なんですよね?」
オレリアは軽く息を吐きました。
「な、なにしてるんですか!?」
彼女は腕を交差させて上着の裾に手をかけると、そのまま着ていた服を脱ぎ始めました。
「見たほうが早いでしょ?」
形のいい胸部とくびれた腰。女性なら誰もが羨むような体型がさらけ出されます。ただ一点……彼女の背中を除いては。
彼女の背中には、純白の羽が息をしていました。
次の瞬間――湖の水を逆立てる白鳥の如く、羽が大きく広げられます。
その光景にハルカは見覚えがありました。一年前です。一年前、これと同じものがシエルの背中からも生えていました。シエルのものとは大きさも細部の形状も異なりますが、ハルカはよく覚えています。この世のものではない、神秘的な羽衣を。
やがて、神々しい羽はふわふわと息をするように落ち着きました。本当に、体の一部なんだとハルカは感じました。
「けっこうコンパクトに折り畳めるのよ、これ。少し窮屈だけどね」
茶目っ気を滲ませてオレリアが言います。
「人間に天使だってバレないようにですか?」
「あの子に聞いたの?」
「はい」
天使は時折、地上に舞い降りる。その存在を人類に知られてはいけない……以前にシエルから聞いた話です。
「私たち天使は、天界に住む者。その中からたまに人間界に送り込まれる。その頻度は何百年に一度か、何万年に一度か、それは決まっていない。今回は、あの子の番だった。あの子が今回の『使い』だった」
「どうして天使は人間界に来るんですか?」
「わたしにも分からないわ。ずっとそうしてきたの。人間を観察して、世界の様子を記録して、その史実を天界に持ち帰る。それが『使い』のお役目」
それはシエルから聞いた内容と同じでした。
「地上に派遣される使いは一人だけ。それが決まり。でも、あの子が地上に放たれてから消息が分からなくなった。そこで、私があの子を探しに来たの」
「オレリアさんの尋ね人って、シエルだったんですね……」
きっと自分が探している天使がハルカと一緒に暮らしているなんて、オレリアも想像していなかったのでしょう。
「ハルカはあの子のことをシエルって呼ぶのね」
「私が名付けました。生活する上で不便だと思って。やっぱりシエルには本当の名前があるんですよね? 天界にいたときの、天使の名前があるんですよね?」
「ないわ」
きっぱりとオレリアは切り捨てます。
「天使は名前を持たないの。私のオレリアっていう名前だって、この街で生活するために作った仮の名前だしね」
そういえばシエルも以前に、天使にはもともと名前が無いと言っていました。
「もとより、天界には言語というものが存在しないの」
「言葉が無いって……。それじゃあ、どうやって意思の疎通を図るんですか?」
「う~ん……。それこそ言葉で説明するのが難しいんだけどね、あえて言うなら心で会話する感じね」
「心で会話……」
テレパシーみたいなものをハルカは想像しました。きっと、人類には一生かかっても理解できない人智を超えた能力なのです。
「そもそも、私達には会話の必要性がないのよ。人は労働して、学習をする。そこには必ず言葉を通わす。他人と言葉を交わすのが娯楽と捉えている人もいるでしょう? でも、天使は違う。天界には決められた仕事はないから言葉を交わす必要もない。雑談する感覚でたまに心を通わす……それで十分なのよ」
ハルカはシエルと喋るのが好きです。父と母と食卓を囲んで今日一日の話を聞かせてあげるのが好きでした。けれど、天界にはそういう文化がないようです。それが人間のハルカにとってはどこまでも不思議で、どこまでも寂しく感じられました。
「天使は互いに心を通わすことができる。だから、他の天使が近くにいれば分かるの。でも、あの子が――ハルカがシエルと呼ぶあの子が店に来た時、私は何も感じなかった……」
きっとシエルに羽があれば、オレリアはすぐにシエルを発見できたのです。天使の象徴を奪ってしまったことで、シエルは天使でなくなってしまった。だから、心の連絡が取れず、オレリアの天使探しは難航したのです。
そしてもう一つ氷解した事実がありました。ハルカがシエルと出会った時、シエルは記憶の全てを失っていました。ハルカはそれを、自分が羽を奪ってしまったせいだと考えていました。
たしかに、シエルが自分の正体と『使い』の役目を忘れてしまったのは羽の消失が原因です。しかし、名前を持たず、言葉を操れなかったのは関係ありません。天界にはもともと言語が存在しないのですから。
空気が変わった気がしました。それまで穏やかな声で言葉を紡いでいたオレリアのトーンが低くなります。落ち葉を舞い散らせていた秋風も凪ぎます。
オレリアは真剣な眼差しをハルカに向けて、問いました。
「ハルカが、あの子の羽を取ったの?」
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