別れは白雪に包まれて

 結婚式から三日が過ぎました。


 誓いを交わしたからといって、大きな変化が訪れるわけではありません。二人は今まで通りの生活を送りました。


 変化があったとするなら、ハルカの様態がいよいよ深刻になったことです。三日前までは手すりに捕まればなんとか自力で立てていましたが、今は車椅子の力を借りなければ日常生活を送ることすら叶いません。


 シエルはハルカの側に寄り添い続けました。天気が良い日は車椅子を引っ張りお散歩に出かけ、食欲がある日はご飯を食べさせ、夜はハルカが眠りにつくまでお話する。


 彩りなんて要らない。ただハルカが側にいてくれるだけでいい……シエルはそう思っていました。


 二人の生活は穏やかに流れますが、世界は目まぐるしい変化に直面していました。地球に亀裂を入れるかの如く、度重なる地震と異常気象が市民を襲います。


 新聞やラジオでは大戦の戦況よりも、自然災害や安否状況を伝える報道が多くなりました。


「ふぅ……」


 シエルは、今日も各地の災害情報を垂れ流すラジオのスイッチを切って、ベッドで寝ているハルカの側に寄ります。ちょうど、ハルカが目を覚ましました。


「おはよ、ハルカ」

「シエル……おはよ」


 もともと柔らかい肌色をしていたハルカの頬は今や蒼白になり果て、桜色だった唇は青紫に変色していました。


「いま……何時?」

「もうすぐ夜だよ。ずいぶんお寝坊さんだね、ハルカは」


 柔和に笑うシエルにつられて、ハルカも微笑みます。


「シエル……お願いが、あるの……」

「なあに?」

「おでかけ……したい」

「もう夜遅いよ。それに、ハルカは具合が悪いんだから、大人しく寝てよ? 元気になったら、またお出かけしよう、ね?」

「シエル……」


 ハルカは毛布から白い手を出すと、シエルの手を握りました。


「お願い……シエル」

「ハルカ……」


 シエルはもう、何も言いませんでした。


「わかったよ、ハルカ」


 シエルはハルカに温かい上着を着せ、マフラーを巻いて、車椅子に座らせます。


「行くよ、ハルカ」

「うん」


 手押しハンドルを握って、シエルは車椅子を押します。玄関に向かおうとした時、ハルカのお母さんに会いました。


「お出かけするの?」

「うん……。シエルと、お出かけ……してくる」

「そう……」


 時刻はもう夜の九時を回っています。お母さんはハルカとシエルを交互に見ました。


 難しい顔をしていました。が、すぐにいつもの優しい表情に戻りました。


「行ってらっしゃい、ハルちゃん」

「うん、行ってきます……」

「行ってくるね、ママ」

「シエルちゃん」


 家を出ようとしたシエルの背中に、お母さんが声をかけました。


「ハルちゃんのこと……お願いね」

「……うん」



「きれいだね~」


 光の粒がシエルの瞳に映ります。


「ハルカ、寒くない?」

「うん……へーき、だよ」


 骨に染みる風が肌を掠める十二月下旬。三日後はクリスマスです。並木道は橙色のイルミネーションで彩られています。光の回廊を、シエルは車椅子を押しながら歩きます。


 夜も深くなり、お店はほとんど閉店していて、人影もまばらです。


 言葉数は少なめに、光に包まれた冬の道をゆっくり辿ります。


 二人の足は自然と、あの大きなクリスマスツリーへと導かれました。ココリク街の中心部にある大きな針葉樹です。


「はわぁあ!!」


 シエルの眼前には、光り輝く巨大なクリスマスツリー。収穫祭の時には裸の状態でしたが、今はたくさんのオーナメントで飾り付けされています。その一つ一つが、街の人が祈りを込めて付けたものなのです。


「きれいだね! ハルカ」

「うん」


 願いの結晶に、言葉を飲みます。


「結局、わたし達はオーナメント用意できなかったね」

「仕方……ないよ。けっこんしきも、あったん……だから」


 すると、ハルカはある事に気が付きました。


「シエルの……それ」

「え?」


 ハルカの細い指はシエルの胸元に吊り下げてある例の『雪時計』へ。


「もしかして……これを飾るって言いたいの?」


 ハルカはコクリと小さく頷きました。


「でもこれ外せない――あれ? 外せた!?」


 今までびくともしなかった雪時計のアクセサリーがいとも簡単に取り外せたのです。


「どうして……?」


 誰よりもシエルが一番驚いていました。上の球体にあった雪は、もうほとんど下へと落下していました。


「こんなのでいいの?」

「うん……それがいい」


 シエルにとって、それは終末までの時間を知らせる厭忌のアクセサリーでした。でも、シエルとの思い出の品だと、前にハルカが言ってくれたことを思い出します。


 シエルは雪時計の木の枠を葉先に結びました。二人は目を閉じ、手を合わせ、祈りを捧げます。しばらく時間が経って、二人はほぼ同じタイミングで目を開けました。


「ハルカは何をお願いしたの?」

「きっと、シエルと同じ……だよ」

「そっか」


 不意に、頬に冷たさを感じました。上空に目を遣ると――。


「雪だよ! ハルカ」


 空から舞い降る雪が、二人の肌に落ちて溶けました。クリスマスツリーの灯りに照らされて、まるで桜吹雪のように見えました。


「シエル」

「なに? ハルカ」

「行きたい所があるの」


 シエルはその場所を訊きません。言わずとも、ハルカの求めている場所が分かるからです。シエルはハルカを乗せた車椅子を反転させると、歩き出しました。


 二人が過ごした――二人だけの秘密の高台へ。



 高台に到着すると、辺りは薄い雪化粧に染まっていました。東屋に入り、雪を凌ぎます。車椅子をテーブルに付けて、シエルも石造りの冷たいイスに座りました。


「なにしてるの? ハルカ」

「名前を……彫ってるの」


 ハルカは地面から拾った石で、同じ石材のテーブルにガリガリと跡をつけていきます。細くなってしまった腕に精一杯の力を込めて、一文字一文字刻んでいきます。


「できた」


 石材のテーブルには『シエル』と彫られています。


「一年前……こんな感じで、紙に鉛筆で『シエル』って書いて、名前を教えたよね」

「うん……覚えてるよ。ハルカがシエルって名付けてくれたから、わたしはシエルになれたんだよ。わたしの大切な名前……」


 シエルもハルカから石を受け取ると、同じ要領でテーブルに名前を彫っていきます。唯一無二の、大切な名前を……。


 雪が降ってきたからでしょうか、周りの気温が一気に下がった気がします。白い息を弾ませながら、シエルはポケットから赤褐色の楽器を取り出しました。ハルカがプレゼントしてくれたオカリナです。


「わたしね、ハルカのために曲を作ったんだ」

「シエルが……私のために?」


 結婚式前、シエルは用事と言って家を空けることが何度かありました。ハルカに贈る曲の練習をしていたのです。


「下手かもしれないけど……」

「そんなことない……。うれしい。聴かせて、シエルの演奏」


 吹き口に珊瑚色の唇を添わせて、シエルは奏で始めました。


 優しい音色は、見えない妖精を引き連れてふわっと夜空へ舞い上がるようでした。儚い音の連結ながらも、天へ捧げる祈りのような旋律。そんな演奏に、ハルカは瞳を閉じて耳を傾けていました。


 そして、短い演奏は終わりを告げます。


「すごい……。すごいよ、シエル……!」

「本当は結婚式で披露できればよかったんだけど、間に合わなかったの」

「ううん。曲を作れるだけでもすごいのに……、それに、こんなに綺麗な音色……」


 ハルカは恍惚の眼差しを隣の少女へ向けます。


「……シエル」

「ん?」

「楽しかったね……、この一年」

「…………」

「雪だるま作って、学校で勉強して、収穫祭で遊んで、この高台でオカリナ吹いて、そして……、同じ家で暮らせた……」

「うん……っ」


「そんなことしてたら、もう一年終わっちゃうね」

「そうだね。でも、来年はもっと楽しいことが待ってるよ、ハルカ」


「うん。年が明けたらまた雪で遊んで」

「バレンタインっていう行事があるんでしょ!? はわあ! チョコいっぱい!」


「イースターとか、今年は参加できなかったお祭りも行こうね」

「夏になったらちょっと遠出して、海行きたい!」


「シエルの水着姿、かわいいだろうなぁ……」

「秋になったら、美味しい物たっくさん!」

「そしてまた……冬が来る」


 二人が出会った、特別な季節が。


「ふふっ、やりたいこといっぱいだぁ」


 嬉しそうに未来を見るシエルの肩に、ハルカが寄りかかります。


「ふふっ。ハルカ、寝ちゃったのかな?」


 舞い降る雪は白さを増し、高台は銀世界に移ろいでいきます。


「ハルカ……こんなところで寝たら、風邪ひどくなっちゃうよ? だから……、起きてよ……ハルカ」


 粉雪が絡んだ栗色の髪の毛を撫でます。彼女の若葉色の瞳が開かれることは、もう二度とありませんでした。

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