白銀の世界、少女の旋律

 冷たくなったハルカの体を、雪の中に埋めてあげた。ポロポロと頬を伝う雫が、雪の絨毯にまだら模様を作っていく。


 死者を埋葬するのが人間界の風習らしい。遠い国では、故人を火葬する文化もあるみたい。でも、わたしはどっちも嫌だった。


 雪に埋葬して、春が来たら、ひょっこりハルカが顔をのぞかせるかもしれない……そんな風に考えたのかもしれない。


 今までのは全部悪い夢で。雪の中で眠るハルカを、わたしが見つけてあげられる……一年前の冬、ハルカがわたしを見つけてくれたように。


 そうだったら、どんなによかっただろう。


 空席になった車椅子を押して、わたしは高台を後にした。



 その日からは、時の流れが早くなったかのように世界の様相は変わっていった。


 建物が全壊するような大地震が毎日のように起き、ハルカと同じような症状を訴える患者が跡を絶たなくなった。

 病床はどこも満員で、道端で力尽きる者、親を亡くし炎の中で泣き叫ぶ子どもで街は溢れかえった。


 まるで、ハルカの死が引き金になったかのように世界は崩れていく。


 ミラのパン屋さんからは明かりが消えた。ミラとお母さんはどうなったんだろう。答えなんて決まっている。地球の住人である限り、誰も助からない。


「シエルちゃんっ!」


 ママが――ハルカのお母さんが、わたしを強く抱きしめる。


「大丈夫だからね。お母さんがシエルちゃんを守るからね」

「ママ……」


 夫と娘を亡くし、終末が近づいてくる。ママの心境なんて、きっと誰にも想像できない。


 でも、わたしには分かる。ママはわたしを守ることで、最後の意識を保っているんだ。守れなかった家族の姿を、わたしに重ねて。


 その哀愁が伝わってくる。ママはまだ若い。本当なら、家族三人で幸せな未来が待っていたはずなんだ。それを……わたしが奪ったんだ。


 わたしが失敗しちゃったから。

 わたしが無力だったから。

 わたしが天使だったから。


「シエルちゃんは大切な家族よ! シエルちゃんだけでも、お母さんの命に代えて絶対に守るわ!」


 ああ……。こんな残酷な仕打ちをしたわたしを、家族と言ってくれる。


 何の恩返しもできない。寝床を用意してくれて、毎日おいしいご飯を作ってくれたママに、わたしは何もしてあげられない。それが悔しい。


 腕の中でわたしは、ママに聞こえるか聞こえないかの声量で呟いた。


――ごめんなさい。今までありがとう。



 最後までわたしを守ってくれたママも、数日後に病気で命を落とした。原因不明の病だった。きっと、ハルカと同じような症状だったと思う。


 穏やかだったココリク街はもう存在しない。地獄だ。他の街は、遠くの国はどうなっているんだろう。安全地帯なんて無い。待っているのはここと同じくらいの地獄か、さらなる地獄だ。


 みんな……死んでいく。途中から死者を数えることも、死を嘆くこともしなくなった。


 “災害ユートピア”という言葉があるらしい。人は、第三の脅威が迫った時にはじめて対立関係を解き、協力して平和の道を歩みはじめるという考えだ。

 皮肉にも、未曾有の災害に見舞われてようやく、各国は戦争を止め、停戦協定を結んだ。生き残った人々でこの困難を乗り越えるんだと。


 しかし、何もかもが遅すぎた。というより、最初からどうにもならなかった。


 ラジオから漏れてくる情報にもはや価値はない。疫病と災害によって、十分単位で新たな被害が報告される。数万人という単位で死者が累積されていく。だからといって驚きもしない、悲しくもない。もう、感情が死んでいた。


「……雪……」


 窓の外に目をやる。雪だ。大雪なんてものじゃない。視界を奪うような雪の滝が地上に降り注いでいる。


 最後にハルカと過ごした日――あの日から降り出した雪は、一向に止む気配がない。積雪を増し、都市のインフラは機能を失った。地球上で描かれたすべてのものを白紙に戻すように、雪が積もっていく。


 かつて冬の風物詩だった雪は、世界を無力化するのに充分な威力だった。


 都市は壊滅し、人と人の繋がりは絶たれた。


 そして迎えた十二月二十四日。


 広場にあった時計台が時を刻むことはもうない。街の中心部にあった巨大なクリスマスツリーを覆うほどの高さの雪が、地球を埋め尽くした。


 ココリク街で生き残っているのは、もうわたしだけだ。ラジオの向こうからは人の声が消えた。新聞ももう配達されない。


 目の前に広がるのは一面の銀世界。まっ白なキャンバスのおかげで死体や壊れた建物を見ずに済むのは皮肉なことか。


「……そういえば言ってなかったね」


 白い吐息が曇天に昇っていく。


「メリークリスマス……ハルカ」


 人類が歩んできた歴史が、文明が……今日、ここで終わった。



 滅びた世界は、どんな芸術品にも劣らない美しさを秘めていた。


 全壊した建物はもうない。死体の腐敗臭も、もうしない。すべてを覆い尽くすように、あるいは浄化するように、雪が積もっていく。


 どれくらいの時間が経っただろう。……分からない。世界の時計が止まってしまった今、時を計る術はない。ひとつだけ分かるとすれば、冬はとっくに終わったはずだということ。なのに、地球は狂ったように、雪を降らせ続ける。


 今は春か、夏か……。


 そもそも、時間も季節の概念すらも無い。死の星になった地上に、ただしんしんと雪が募っていく。


 これが、天使の羽を奪った代償。ハルカは知らなかった。滅ぶと知っていたら、わたしの羽を取るなんて真似しなかった。ハルカはただ、わたしと一緒に居たかっただけだ。その結果が、これ。


 たった一人の少女の、たった一つの願いさえ叶える力を、この星は持たない。あまつさえ、”代償”というレッテルを貼って尊い命を奪っていく。


 ……あんまりじゃないか。



 また時が流れた。もう何年、人と話してないだろう。


 ……何年? もしかしたら、もう何百年も経過したかもしれない。


――お腹……空いたなぁ……。


 すべての生態系は活動を停止した。それは動植物も同じ。木の実を採集することも、野生動物を捕獲するこもできない。白銀の惑星にわたしの胃袋を満たしてくれるものはない。


――あぁ……ダメだ。お腹、空いた……。わたし……ここで、死のぬかな……。


 死ぬ? わたし、死ねるの? 楽になれるの? 楽になって、いいの?


 いいや、ない。わたしは死ねない。飢餓になっても、どんなに外傷を負っても、命の灯火は消えない。不老不死だから。それが、わたしが背負った運命だから。


 いっそ死んだらどんなに楽だろう。でも、許されない。死にたいのに、死ねない。まるで拷問じゃないか。


 死後の世界に行けば、あの子と会えるかもしれないのに。


 あの子って……だれ、だっけ?


 地面の雪を掬って食べる。薄い水の味がして、すぐに溶けていった。後味の悪い水気だけが口の中に残った。



 意識を保つことさえ何度も忘れそうになった。人類が絶滅し、土に還ってから幾星霜。


 多くの血を見た。多くの叫び声を聞いた。それらは確かに経験したはずなのに、すでに歴史の教科書を読んでいるような過去の知識に成り果てた。


 辛かったのは最後だけだ。それ以前は、楽しいことも、嬉しかったことも、たくさんあった……。


 あった……よね? なんだっけ? うまく思い出せない……。



 今日は雪も穏やかだ。久しぶりに散歩でもしてみる。ずっしりと体に積もった雪を払い除けて、立ち上がる。


 人の営みが消え、音の消えた世界に、ぎゅ……ぎゅ……と雪を踏みしめる音が届く。

 

 わたしの足は、に向けられた。たどり着いた時、なんだか懐かしい感覚を覚えた。なんで? 辺りは一面まっ白で、どこに行っても白銀の世界が広がっているだけなのに。どうしてここが特別な場所だって分かるの?


――いたっ。


 足元に転がっている何かにつまづいた。屈んで雪を払うと堅い感触が手に伝わってくる。

 石のオブジェのようだ。砕かれていて原形は留めていない。


 もともとはテーブルか何かだったのかな。材質や大きさを見るに、そう思った。


 やがて、わたしの視線はその石の破片に固定された。残った雪を綺麗に払うと、石の表面に刻まれた文字が浮かび上がった。


『ハルカ シエル』


 仲良く肩を並べるように刻まれた名前を見て、目から一滴の雫がこぼれ落ちた。雫は大粒の雨になって、石の名前を濡らす。


――そうだ……。なんで、忘れていたんだろう……。 


 『ハルカ』と『シエル』


 一番大切な人の名前で。一番大切な人が付けてくれた名前じゃないか。


 その名前が胸の中で染み渡る。そうだ、ここはあの高台だ。二人だけの秘密の高台。昔はここから眼下に広がる街を一望できたんだ。


 その街はもうないけど。でも、わたし達はたしかにここにいた。一緒に最後の一年を過ごした。

 

 わたしはポケットから赤褐色の楽器を取り出す。ハルカ――あなたからもらったオカリナだよ。わたしの一番の宝物。


 楽器に手をかざすと、柔らかい光が生まれて包み込み、そして吸収されていった。


 あの日、あなたと過ごした夜を思い出す。わたしの演奏を、楽しそうに聴いてくれたよね。


 前に話したこと覚えてる? 不老不死の力は呪いなんかじゃなくて、再会するための奇跡の力だって。


 また、あなたがこの世に生を受けるって、わたしは信じてる。そのための力だよ。


 何億年という時を経て、地球は再生していく。微生物から哺乳類に進化し、人が現れ、また文明を始める。


 次に人に会えるのはどれくらい先だろう――分からない。次に文明が築かれるのはどれくらい未来だろう――想像もつかない。


 でも、わたしはここで待ち続ける。寂しくても平気だ。再会の約束をしたのだから。


 オカリナの吹き口に唇を付けると、あなたの温もりが感じられる気がした。


 長い旅になる。それでも、約束したから。


――だから、わたしは奏で続ける……。


――あなたが好きだと言ってくれた、この曲を。

――あなたと過ごした、この場所で。

――あなたのことを、想いながら……。


End

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