遥か空の下で

 土の香りがした。どうやら眠ってしまっていたらしい。体にのしかかった乾いた土を払って体を起こそうとする。


 胴体は鉛のように重く、手足もうまく動かせない。


「……っ」


 頭に鈍い痛みが走る。わたしはなんとか仰向けの状態から体を反転させ、這い出した。


「はぁ……っ、……っ」


 手の平にくすぐったい感触が伝わった。土の匂いもどんどん濃くなってくる。


 意識を失ってしまいそうな目眩が絶えず押し寄せる。重い目蓋まぶたを開いて、前を見た。


 ――届いたのは、網膜を焦がすほどの眩しさ。思わず目を細める。


 豊かな緑が広がっていた。蝶が花に群がり、遠くからは鳥のさえずりが聞こえてくる。


 ここは……どこ?

 わたし、なにしてたんだっけ……?


 ――それより。


 わたしは……、誰?


 思い出せない。頭に霧がかかり、酷い頭痛が思考を邪魔する。わたしは何者で、どうしてこんな場所にいて、いつから眠っていたのか。


 泉のように湧き出す疑問に、誰も答えてくれない。


「はぁ……はぁ……っ」


 匍匐ほふく前進の要領で前に進む。体の筋肉が言うことを聞かず、呼吸もままならない。


 少し進むと緑の芝生は途切れた。わたしは全身の力を振り絞って立ち上がる。目の前は崖になっていた。


 どうやらここは高台らしい。高台には色とりどりの草花が咲き誇り、虫や鳥類が春を謳歌している。


 震える脚に力を込めて前を見る。崖の下には――わたしの眼下には、


「街……?」


 街があった。なんだろう。言葉にならない感情が次々に生まれてくる。


 何かに突き動かされるように、わたしはその街を目指して歩き出した。



 街の入り口にたどり着く頃には、なんとか千鳥足で歩けるようになっていた。


 街には人がいた。商売をしたり、道端で雑談をしたりしている。当たり前だ、街なんだから。


 広場と思われる場所に来た。大きな木が生えていて、噴水の周りで子どもたちが遊んでいる。


 ふと、体格のいい男の人達が重そうな荷物を運んでるのが目に入った。近づいてみることに。


「あの……」

「あ?」


 男の一人に話しかけた。寝起きで言葉が出づらいのか、うまくしゃべれなかった。わたしは彼らが運んでいる物に視線を向ける。


「これ……」

「おお、立派な銅像だろう! 俺が作ったんだぜぃ!」


 どうやら大工さんのようだ。太い腕を見せて、誇らしげな笑みを浮かべる。


「あの……これ……」

「ああ? あんたまさか、リュカ・ウィークスピアを知らねえってことはねえよなぁ!?」

「えっと……」


 誰だっけ? 銅像を建てられるくらいなんだから、きっと偉い人なんだろうけど。


「国の英雄よぉ! あの人がいなかったら、俺達はまだつまんねえ戦争なんかしてたんだろうなぁ。休戦まで持ち込んでくれて平和の道を示してくれた……ホント感謝しかねえわ。後世に語り継がれる英雄ってのぁ、ああいう人を言うんだろうなぁ」


 頭領が腕を組みながらうんうんと話す。


「嬢ちゃん、ウィークスピアの旦那を知らねってこったぁ、移民か? 旅行客か? どっちでも歓迎するぜぇ! 戦争も終わったこったしなぁ! だっははは!」

「あ、あの……わたしは……」

「んん? 嬢ちゃん、服ボロボロじゃねえか!? 大工の俺達でも、もっとマシな格好してるぜ、ガッハハハハハ」


 豪快に笑う頭領に会釈して、わたしはその場を後にした。



 少し歩くとおいしそうな匂いがした。目線の先には一軒のお店。明るい声がして、それがわたしに向けられたものだと分かった。


「そこの人!」


 手招きするお店の店員は、腰まで届きそうな赤毛をなびかせている女の子だ。


「おひとついかがですか」

「これ、なんですか?」


 時間が経つにつれて喉の調子もよくなってきたみたいだ。もう普通に話せるようになっていた。


「ケバブよ! うちのケバブは世界一なんだから!」


 看板娘の手元には、瑞々しい野菜とこんがり焼かれたお肉を挟んだケバブが盛られている。


「いただきます」

「へ?」


 わたしは奪うように彼女からケバブを取ると両手でむしゃむしゃと頬張りはじめた。片方の手が空いたら別のケバブを……おそらく一分もかけずに皿に載っていたケバブをすべて平らげてしまった。


 わたしは正気に戻った。女の子としての恥じらいを思い出したのだ。そしてもう一つ思い出したのだ。自分がお金を一銭も持ち合わせていないことに。


「ごめんさない。お金持ってなかった」


 赤毛の女の子はポカンと口を開いたまま、口の周りをソースで汚すわたしを見つめていた。当たり前だ。獣のように店の商品を食い尽くした挙げ句、一文無しというんだから。


 通報される……。仕方ない。そう覚悟した時、


「あっははははははは」


 赤毛の女の子は大きな笑い声を立てた。目尻に溜まった涙をさっと拭いて、もう一度わたしを見た。


「これだけ豪快に食べて無銭飲食とはね~! いや~面白いもの見せてもらったよ!」


 叱られ、通報されると思っていただけに、彼女の反応は予想外のものだった。


「よほどお腹が空いてたんだね~」

「本当にごめんなさい! 今すぐにお金は用意できないけど、でもそのうち……」

「いいよいいよ。今日はあたしの奢りってことで」

「え? そんなのダメだよ。こんなに食べちゃったのに」

「お客さんの幸せそうな顔が一番の代金だからね。豪快な食べっぷりを見せてくれたお礼ってことで」


 なんて気前の良い少女だろう。そんなやり取りを、いつかどこかでした気がした。


 いつ? どこで? ……思い出せない。寝起きで頭がぼーっとしてるのだと思ったけど、どこか変だ。寝ている間に記憶力も知能も下がってしまったのだろうか。


「じゃあ、お言葉に甘えて。今度はちゃんとお金を払って食べに来るからね」

「うん! うちは世界一のケバブ屋を目指してるから、宣伝もよろしくね!」

「あなたなら、パン屋でもうまくやれてたと思うな」

「パン屋?」


 不思議と、そんなことを口走っていた。なぜ自分がそんなことを言ったのか、分からなかった。たぶん直感だ。なんとなく、そう思っただけだ。


「たしかに小さい頃は、将来はパン屋さんになりたいって思ったこともあるけど。あたしはやっぱり、ケバブっていうこの街のソウルフードで勝負することにしたよ! こっちの方が燃えるっていうか、あたしの性分に合ってる気がしてさ」

「そっか」


 夢を追う少女はとても眩しく映った。


「また来てね」

「うん」


 ケバブ屋の看板娘に別れを告げて、再び歩き出した。



 足取りは自然と速くなる。たどり着いたのは郊外付近にある住宅街。華やかな中心部とは違って、老朽化した木造家屋が連なっている。


 自分がどうして、何をしにここへ来たのかも、分からない。見えない糸に引かれるように自然と体がここを求めたのだ。


 一軒の家から話し声が聞こえた。迂回して近づくと、若い夫婦が自宅の畑で話をしている。とても幸せそうな表情をしている。


 その光景に、なんだか懐かしさを覚えた。同時に、何かが足りない気がした。でも、それは何? 裕福な住まいではないが、愛し合う二人にとって、きっと今が幸せの絶頂だろう。


 でも、何かが欠けている気がした。その正体が分からない。


 奥さんの方が遠くにいるわたしを見た。わたしはそれに気付かず、閑静な住宅街を後にした。



「ここは……学校?」


 平屋の校舎を発見した。時刻はお昼頃で、学びを終えた生徒が次々と門をくぐって家路に就いていく。どうやら今日の授業はお昼までのようだ。


 ふと思う。


「なんでわたし、学校なんて知ってるんだろう……? 通ったこともないのに……」


 まただ。またわたしは、言葉にならない違和感を覚える。けれど、その違和感は不思議と悪いものじゃないように感じられた。


 校舎の裏手に回るとグラウンドがあった。放課になった広々とした空間に生徒の姿は見受けられない。柵をくぐって中に入ってみることにした。


 すると――


「ちょっと、そこのあなた」


 びっくりした。学校の生徒と思われる女の子から声をかけられた。腕を優雅に組み、綺麗な黒髪をなびかせている。


「見ない顔ですわね。ここは学校の関係者以外、立入禁止ですわ」

「ご、ごめんなさい……」


「あら? あらあらまあまあ!! あなた、よく拝見すればとても可愛らしいじゃありませんの! お人形さんのように可愛いのに、どうしてそんな土まみれですの?!」

「それは……いろいろと事情があって……」


「ええ、ええ、分かりますわ! こんないたいけな少女がこんな格好で昼間の街を彷徨いているんですもの。ただ事ではありませんわ!」

「いえ……そういう訳では……」


「もう心配いりませんわ! わたくしの屋敷で面倒を見て差し上げます。わたくしのお父様は、この街では名の知れた士官でして。歓迎いたしますわ。あなたにぴったりの可愛いお洋服も繕って差し上げます。ああ、お風呂が先ですわね。なんでしたら、わたくしと一緒に入りましょう! ええそれがいいでわ、んふふ。さあさあ、今からわたくしの屋敷に参られたし」

「いや、ちょっと……」


 その時。


「何してるの?」

「ぁ……」


 懐かしい声が、鼓膜を撫でた。


 形を持たない声にも、たしかに宿る温かさ。声の方向に目を遣ると、一人の女の子がこちらに近づいてくる。彼女はわたし達の所まで来ると、歩みを止めた。


 わたしは、泣いていた。その涙の理由を、知っている。覚えている。すべてを、思い出した。


「ぁ……ぁぁ……」


 声は湿って、言葉にならない。若葉色の瞳をした女の子は、黒髪のお嬢様を軽蔑の眼差しで見つめる。


「この子に何したの」

「心外ですわぁ! わたくしはただ、何か事情を抱えていそうな彼女を保護しようとしていただけですわ」

「……怯えてるよ?」

「距離を感じるのは最初だけですわ! 同じ釜の飯を食べて、同じベッドで寝れば、すぐ打ち解けられます。ささっ! 早く屋敷に――」


 わたしは彼女の手を拒絶して、若葉色の女の子の懐に抱きついた。


「んな!?!?」


 ショックを受けたのはお嬢様だ。若葉色の女の子がわたしの頭を撫でる。


「ごめんね、怖かったよね。あの子、可愛い女の子を見ると我を忘れるの。嫌な人じゃないから許してあげて?」

「……うん」

「ぐぬぬ……あら? あなた、それは?」


 わたしのポケットからはみ出している物に、お嬢様が気付く。


「ずいぶんと古い……オカリナ……ですわね?」


 若葉色の瞳をした女の子が、優しく訊ねる。


「ずいぶん大切にしてるんだね」

「うん……っ、うん……っ! 大切な人から……もらったの……っ」


 碧眼から零れ落ちた涙はくすんだ茶色の楽器を濡らす。


「私もね、同じの持ってるんだよ」


 そう言って彼女は赤褐色のオカリナを見せてくれた。


「お父さんとお母さんが誕生日プレゼントでくれたの」

「まぁ、あなた……勉強の成績はまだまだ伸びしろがありますけど、演奏は今から貴族の社交場で披露しても問題ない腕前ですからね」と黒髪のお嬢様が横槍を入れた。


「よかったら、これから一緒に演奏しない?」


 若葉色の瞳が優しく誘う。差し出された手を、わたしは握った。しっかりと、放さないように。


「ちょっと! 先に目を付けたのはわたくしですわ~っ!」


 納得のいかないお嬢様を尻目に、わたし達は駆け出す。


 長い冬を越えた街は春の陽気に照らされて。土と緑の香りが舞う中、少女二人は走っていく。


 辛いことがあった。悲しいこともあった。けれど、それらは全部、夢だったのかもしれない。


 わたしはあの高台で寝ちゃってただけで、嫌な夢を見ていただけなのかもしれない。


 春の風が吹いた。わたしの手を引いて走る少女の背中に、心の中で語りかける。


――ねえ、聞こえてる? わたしの願い……叶ったよ。


 遠い、遠い、遥か空の下で。


Fin.

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遥か空の小夜曲 礫奈ゆき @rekina_yuki

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