新しい生活
大地の雪化粧は溶け、ココリク街には鳥の軽やかな
春は変化の季節です。人も、街も、社会も……色々なものが移ろいでいきます。それは、ハルカの家庭も例外ではありませんでした。
「シエルちゃん、学校に行ってみないか?」
朝の食卓を囲いながらそう訊ねる父に、ハルカは驚きを隠せませんでした。
「でも、お父さん」
何かを言いかけてその先を途切れさせた娘の心中を、父と母はちゃんと察していました。
この国では多くの子どもは学校に通っていません。それは珍しいことではありません。低賃金、重労働が
教育は贅沢なのです。短い職業訓練を終えた子どもはすぐに現場に駆り出されて、大人に混ざって労働に勤しみます。
それに拍車をかけるのが戦争です。昨年の秋口から世界は各国を巻き込んだ大規模な大戦に舵を切りました。ココリク街は田舎町ですから、砲撃や侵略の対象にされることはありません。しかし、終わりの見えない醜い戦いの余波は着実に辺境の地に住む人々を蝕みます。
奴隷のような賃金で来る日も来る日も武器や支援物資を製造させられます。一週間後生きていられるかも分からないほど、どこの家庭も貧困しています。子どもを学校に通わせてあげられる経済的余裕は無いのです。
戦争は人々の命だけでなく、若き芽も摘むのです。
ハルカも十才になったら働くつもりでいました。けれど、娘にはしっかりと教育を受けさせてあげたいという両親の願いから、今学校に通うことができています。父親は町の鋼鉄工場で汗を流しています。潤沢とは言えない稼ぎを娘の将来のために使ってきたのです。
両親の苦労を誰よりも知っているからこそ、シエルの編入を持ち出した父に驚いたのです。
「大丈夫だ、ハルカ。お父さんだって多少の蓄えはあるんだ」
「でも……」
「シエルちゃんも学校に行きたいよな?」
「うん?」
スプーンをパクっと咥えたシエルが、その透き通った碧眼を父親に向けます。どうやらシエルは教育機関というものを知らないようです。
「学校っていうのはね、みんなでお勉強する所だよ」
「みんな?」
「そうだよ。他の子たちと同じ部屋で勉強するの。といっても、生徒は全部で十五人しかいないんだけどね」
「シエル……ハルカ、お勉強……してくれる」
ハルカはシエルに家で読み書きや計算のやり方などを教えていました。だから、わざわざ学校に行く必要はないと、シエルは感じたようです。
「シエルちゃん。学校には先生がいるから、もっとたくさんのことを教えてくれるのよ」
お母さんがそう言うと、突然シエルは隣に座っているハルカの腕をとりました。
「ハルカ、シエルのせんせ」
「あらあら、うふふ。シエルちゃんにとっては、ハルちゃんが先生なのね」
「え、ちょっと恥ずかしいよシエル……。私、頭良くないし。シエルに教えていることだって基礎的な部分ばかりだし……」
「ハルカ! シエルのせんせ!」
シエルがぷくっと頬を膨らませて頑固にハルカの腕にしがみつきます。シエルと出会って三ヶ月が経ちました。最近のシエルは片言ながらも会話ができるようになり、なにより感情表現が豊かになりました。
「たっはっは! ハルカはシエルちゃんに愛されてるな~」
冗談めかしに笑うお父さんの横で、優しく口を開いたのはお母さんでした。
「シエルちゃん。学校に行けば、ずっとハルちゃんと一緒に居られるのよ?」
「ハルカと、ずっといっしょ?」
「そうよ」
「はわぁ!」
シエルの顔に色が灯って、テーブルの下で足を嬉しそうにパタパタと泳がせます。きっとそれはシエルにとって魅力的な提案だったのでしょう。学校がある日は、出かけていくハルカの背中を、シエルは指を咥えながら見送っていましたから。
「シエルがっこういく!」
「でもね、シエル……」
本音を言えば、ハルカだってシエルと学校に通いたいのです。しかし、稼ぎ柱である父の負担がこれ以上増えてしまうことを懸念してしまいます。学費は安くありません。三人家族の生活費を余裕で越えます。それが二人分となれば、どんなに苦しくなるか計算できないほどハルカも愚かではありません。
「ハルカ……?」
シエルが心配そうにハルカの顔を下から覗き込みます。そんな沈んだ表情をする娘に、お父さんは諭すような口調で言いました。
「ハルカ。前にも言ったけど、シエルちゃんは家族なんだから。なら、ハルカと一緒に学校に行かなくちゃな」
「ハルちゃんは優しいから、気にしなくていい事まで心配しちゃうんだよ。でも、お金のことは心配しなくていいのよ」
「ハルカとシエルちゃんの将来の方がずっと大切だ。まぁ、しばらくはこれまで以上に倹約料理が並ぶことになるけどな! たっはっは」
「うふふ。お母さんも出稼ぎもっと頑張らなくちゃね!」
「お父さん、お母さん……」
言葉になりませんでした。ハルカは膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめます。一番辛い二人からこう言われては、もう何も言い返せません。だから、両親の心遣いを無下にするのではなく、素直に甘えることが、今自分がするべき事だとハルカは思ったのです。
「ありがとう。お父さん、お母さん……っ!」
ハルカはもう一度、両親に最大の感謝を伝えると、改めて隣に座るシエルに向き合いました。
「シエル! 一緒に学校行こう!」
「はわぁ!」
その日の朝食に並んだ薄味のスープは、人生で最も思い出深い味付けに変わりました。
*
「シエル……、こんにちは」
自己紹介をしてシエルがペコリと頭を下げると、教室からは歓迎の拍手が起こりました。
「シエルさんは少し事情があって、今はハルカさんと一緒に暮らしています。みんな、仲良くしてあげてね」
シエルがハルカの隣の席に着くと先生がそう補足しました。
シエルは興味津々な様子で教室の中を眺めます。彼女の碧い瞳には、この煉瓦の平屋がまるでお姫様が住むお城のように映っているのかもしれません。この学び舎には教室はひとつしかありません。シエルを含めた年齢がばらばらな生徒十六人が同じ教室で勉強します。
期待に胸を膨らませるシエル。それはハルカも同じ。
二人の新しい生活の始まりでした。
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