君の名前を呼んで

「ハルカだよ。ハ・ル・カ」

「ぁ……ぅ、ぁ」


 数日が経過したある日のこと。ハルカは口を大きく動かしながら自分の名前を教えていました。少女もなんとか言葉を発しようと懸命に努力します。


「あ……うあ」

「おしい! もう少しだよ、がんばって。私はハルカだよ」


 拙く口を動かす白髪の女の子。出会った頃と比べて少しずつ口から音を出せる頻度が増えてきたものの、満足に言葉を話せるようになるにはまだ時間が必要なようです。


 会話ができないのは記憶の障害と関係しているのでしょうか。しかし、少女の年齢はハルカと同じくらいに見えます。十代半ばくらいです。それを考えると、単に記憶の欠如という表現で一括にできない気もしました。


「そうだ、私ばっかり名前を言わせてたら不公平だよね。君の名前も考えなくちゃ」


 この子にも本当の名前があるのでしょう。しかし、言の葉が操れない以上、それを知る術はありません。これからの生活を考えると名前は必要です。だから、便宜的に名前を与えることにしました。ハルカは指を顎に当てて少女の顔を覗き込んで思案します。


「ん~……」


 ふと窓の外に視線を移します。二階から見下ろす世界には雪の絨毯が敷かれていて、年が明けたばかりの空は青く澄んでいました。


「……シエル」


 不思議と、その名前を口ずさんでいました。胸にすっと落ちるような、とてもしっくりくる名前に感じられたのです。


「今日からは君はシエルだよ。よろしくね、シエル」


 小首を傾げながらシエルはハルカを見つめます。


 ハルカとシエルの、一年間だけの生活が始まった瞬間でした。



「ほ~らぁシエル~。今日はどれで遊ぼうか?」

「ん……ぁ」


 ハルカはシエルの前に色んなおもちゃを出して興味を引こうとします。床に置かれた積み木や絵本を、シエルは碧眼をキョロキョロと動かしながら観察します。


(かわいいなぁ……っ!)


 あどけない仕草がハルカの心をくすぐります。


「積み木がいいの? じゃあそれで遊ぼうか」

「うぅ」


 ここ数日はこんな感じで二人は遊んでいます。失った記憶の件が心配です。シエルとちゃんと距離を縮められているのか不安です。ハルカの悩みの種は尽きません。けれど、負の感情を上書きするようにハルカは目の前の幸せに集中することにしたのです。シエルと遊んでいられる、この時間を。


「ほら、シエル。お家だよ」


 ハルカが積み木の家を作ってみせると、シエルも真似をして家造りに挑戦します。たどたどしい手付きで多彩な木材を積み上げていきます。ハルカも手伝って家が完成しました。


「できた!」


 多少ぐらつきは見受けられるものの、立派なシエルのお家です。


「すごい! シエルのお家だよ!」

「はぁわ~~~……!」


 上機嫌な様子で積み木の外観を眺め、曇りひとつない笑顔をハルカに向けます。最近は、こんな風に微笑んでくれることも多くなりました。


 すると、積み木の家が完成するのを見計らったように、部屋の扉がノックされました。ハルカの返事に続いて顔を覗かせたのは、ハルカのお父さんとお母さんです。


「シエルちゃんと遊んでたの? ハルちゃん」

「うん」


 開口一番に話かけてきたハルカのお母さんは、娘と同じ栗色の髪の毛と若葉色の落ち着いた瞳をしています。隣にいるお父さんも顔立ちがどこかハルカと似ています。


「おお、立派な家じゃないか。シエルちゃんが作ったのかい?」


 お父さんに褒められてシエルもニコっと微笑みます。


「あのね、お父さん、お母さん……」


 和やかな空気を改めるようにハルカは居住まいを正します。


「シエルのこと、ありがとうね」

「なぁに改まって?」

「私が勝手に連れてきたのに、シエルのこと大事にしてくれて」


 うちで預かりたいとお願いしたハルカに、両親は快く承諾してくれたのでした。


「放っておける訳ないじゃない。それに、シエルちゃんだってきっと大変だったんでしょ。お母さん達でなくても、きっと同じことをしていたわ」

「お母さん……」

「その通りだ。それに、シエルちゃんはもう僕たちの家族なんだから。変な遠慮とかは無しだぞ?」


 父の言葉に胸の内側が温かくなるのを感じました。二人の子どもに生まれてこれて本当に良かったと、ハルカは強く思ったのです。


「でもな、ハルカ。ハルカは明日からまた学校なんだから、そろそろ寝ないと駄目だぞ?」

「うーっ!」

「あらあら。シエルちゃんはまだハルちゃんと遊び足りないみたいよ?」


 家族みんなの笑い声が響きました。


 シエルが記憶を取り戻す日まで。故郷に帰って本当の家族に再会する日まで。この関係を大切にしていこうと、ハルカは心に決めたのでした。



 一月下旬。ハルカ達が住むココリク街には、まだ真冬の風が吹き抜けていました。今日は郊外の公園に遊びにきています。約一ヶ月前、シエルと出会った場所です。まだ雪は足首の高さまで積もっていますが、今日は清々しい青空が広がっています。


「シエル、なにして遊ぼうか? ブランコに乗る? それとも、すべり台で遊ぼうか?」

「んむぅ……」


 眼前に広がるのは白銀に染まった景色。シエルはしばらく沈黙を作った後、思いついたような表情でハルカの袖をぐいぐい引っ張りました。


「ハルカ……、シエル……んむぅ」


 『ハルカ』と『シエル』――それが、シエルが最初に覚えた言葉でした。言葉が話せないシエルは身振り手振りを交えて必死にハルカに何かを伝えようとします。

 シエルはまだ会話ができませんが、ハルカの言っていることは理解しているようです。それに応えたいという思いもあるようで、だからこそ、ハルカに意思を伝達できない自分に苛立つを覚えているようにも見えます。


「ゆっくりでいいよ、シエル。シエルは何して遊びたいのかな?」

「んん! むぅ!」


 身長も年齢も同じくらいなのに、どこか幼さを感じさせるシエルの様子が愛おしくて。ハルカは胸に響く甘い鼓動を無視できないのでした。


「雪? 雪で遊びたいの? シエル」

「う~!」


 シエルは地面に積もった雪を両手で掬い上げて勢いよく散らします。どうやら雪が気に入ったようです。


「ん~……雪で遊ぶって言ってもなぁ……。雪合戦は危ないし、他には……あっ!」


 指を顎につけながら考えると閃きました。


「雪だるま作ろうか、シエル!」

「あうあま?」

「雪だるまだよ。こんな風に作るの、見てて」


 ハルカは最初に手のひらサイズの雪玉を作ると、屈みながらその玉を雪の絨毯にのせてこねくり回します。雪を纏って大きくなった玉を、次は転がしてさらに大きくしていきます。ある程度の大きさになったら、同じ要領で一回り小さめの雪玉をもう一個作ります。


 二つの球体が出来上がっていく過程を、シエルは冬空に煌めく星のような瞳で見守っていました。最初に作った雪玉の上に二つ目を重ねて、拾ってきた木の枝やどんぐりで装飾。最後に自分の手袋と帽子を被せてあげれば――。


「できた!」


 膝の高さくらいの雪だるまの完成です。


「はうあ~~~っ!」


 隣でシエルは目を輝かせながらぴょんぴょん跳ねます。出会ってから一番良い表情かもしれません。


「ハルカ! シエル、んっん!」

「シエルも作りたい?」

「んっんっ!」


 シエルは力強く首を縦に振りました。


「じゃあ一緒に作ろうか」

「はわ~~~!」


 シエルと肩を並べて雪玉を転がします。一回目は上手くいかず、歪な形になってしまいました。でも、シエルは覚えが早いのか、二回目は綺麗な曲線美の雪だるまに仕上がりました。艶と光沢を放っていて、もしかしたらシエルは雪だるま作りの才能があるかもしれないとハルカは思いました。完成した雪だるまをシエルはハルカの雪だるまの隣に置きました。


「えへへ、シエルの方が上手だから、並べられるとなんだか恥ずかしいな」

「う~!」


 頬を掻くハルカに、シエルは首を横に振って応えます。そして、ハルカの袖をぐいっと引っ張って、改めて雪だるまを指差しました。


「もしかして、二人で作ったって言いたいの……シエル?」

「うー!」


 シエルは屈託のない笑顔を咲かせます。その天真爛漫な笑顔が、ハルカの体を芯から温かくさせるのでした。

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