パン屋の看板娘

「シエル……っと。はい、できた」

「わあ!」


 自習の時間。ハルカは紙の上に『シエル』と鉛筆で書いて、隣に座っている白髪の少女に見せます。シエルの碧い瞳が爛々と輝きます。


「シエル! これ、シエルの名前!?」

「そうだよ。シエルって綴りだとこういう風に書くんだよ」


 『シエル』はハルカが一時的に付けてあげた仮の名前です。シエルは初めて自分の名前を文字という媒体を通して認識したのです。仮の名前なのに、彼女はまるで本当の名であるかのように嬉しそうに微笑みます。


「じゃあシエルも書いてみようか」


 生来の碧眼を手元に置かれた紙に向けます。


「ああ、鉛筆はこう持つんだよ」


 力いっぱい鉛筆を鷲掴みにするシエルに、ハルカは握り方のお手本を見せます。


「んむぅ」


 初めて鉛筆に触れるシエルにとっては扱いが難しいようです。ハルカはぐっとシエルに体を寄せて、彼女の手に自身の手を重ねて鉛筆の握り方を指導します。


 小さくて可愛い手。柔らかい肌。一本一本が細くて綺麗な白髪からは控えめで清潔感のある匂いが漂ってきます。


 シエルは物覚えが早く、一度教えたらすぐに鉛筆の正しい持ち方を習得しました。冬に雪だるまを作ったことを思い出します。あの時もシエルは二回目で完璧な雪だるまを作ってみせました。


 先ほどハルカが書いた綴りに倣いながら、シエルは自分の名前を書いてみました。ミミズのような歪んだ線ですが、それはたしかに、シエルが初めて書いた自分の名前でした。


 鉛筆を置くと、両手で紙を持ち上げてハルカに見せます。眩しいばかりに笑うシエルと、その愛しい名前を、ハルカは穏やかな表情で見比べるのでした。



 街から聞こえる鐘の音が一日の終りを告げる頃、ハルカとシエルは家路を辿っていました。


「シエル、学校は楽しい?」

「うん! たのしいよ!」

「よかったぁ」


 シエルが学校に通い始めて二週間が経ちました。好奇心の塊であるシエルは、なんでも吸収するように意欲的に勉強します。その成長の早さは圧巻。出会った頃のシエルは記憶だけでなく、生活に必要な技能がすべて欠如していました。空白期間を感じさせないシエルの成長に、ハルカはただただ衝撃を受けるばかりでした。


 そして、同時に寂しくも感じます。シエルは地頭が良いので、教えたことはあっという間に自分のものにしてしまいます。他の生徒からも尊敬の念を集め、先生からの評価も上々です。近いうちに成績はハルカを追い抜くでしょう。巣立ちを見送る親鳥は、もしかしたらこんな気持ちなのかもしれません。


「お勉強もたのしいけど。ハルカといっしょだから、もっとたのしい!」


 混じり気のない笑顔が、ハルカの昏くなりかけた心をぽっと照らしてくれるのでした。


 街の一画に差し掛かった時、ふとシエルが足を止めました。


「いい匂い!」


 ハルカも歩みを止めて匂いのする方へ視線を向けると、一軒のパン屋さんがありました。シエルが行きたそうにそわそわしているので、寄ってみることに。

 お店の前まで来ると、焼きたてのパンの芳しい薫りが漂ってきます。おいしそうな匂いに恍惚としているとお店の扉が開いて、中から女の子が出てきました。


「いらっしゃいませ!」


 元気な声が耳朶を打ちます。現れたのは二人と同い年くらいの女の子。腰まで届く赤毛に、頭の上には白い三角巾をのせています。


「おひとつどうぞ」

「これなんですか?」


 ケーキのようなものが載った紙皿を差し出してくる赤毛の少女に、ハルカが訊ねます。


「ブルーベリーのカヌレだよ。今、試食販売してるんだ」


 こんがりと焼かれたカヌレの表面には紫色の水玉模様が浮かんでいて、頭には大粒のブルーベリーがちょこんと載せられています。


「食べていいの!?」


 隣でシエルが声を上げました。


「はい、どうぞ」

「はわぁ!」


 シエルは紙皿から一つを取ると、珊瑚色の唇を大きく開けてあむっと食べました。


「んむぅ~~~おいし~~~っ!」

「はい、あなたもどうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 続いてハルカも一口。焼き菓子の仄かな匂いが鼻から抜け、もちもちとした弾力のある食感の後に甘酸っぱさが追いかけてきて、口の中で調和します。


「本当だ! すごくおいしい! これ、あなたが作ったの?」

「ううん。売り物は全部お母さんが作ってて、あたしはまだ見習いなの」

「ってことは、いつかは自分のお店を?」

「うん! 今はお母さんの手伝いとか、こうやって販売を主にやってるけど、ちょっとずつ作り方を教えてもらってて。将来は自分の店を構えるのが夢なんだ」

「へえ~~~素敵だね!」


 活発な性格も相まって、ハルカには夢を追う少女がとても眩しく感じられました。


「二人は仕事帰り?」

「私たち学校に通ってるの」

「え!? すごいじゃん! もしかして貴族の出身?」

「そうじゃなくてね。お父さんとお母さんが頑張って働いてくれてるの」

「優しいご両親なんだ」


 ハルカと少女が話していると、横から素っ頓狂な声が上がります。


「もっと食べていい!?」


 シエルが指を口元に当てて涎を垂らしながら紙皿に残ったカヌレを見つめていました。


「ああ、駄目だよシエル。それは試食用なんだから、もうお終い」

「ええ、なんで?!」

「そういうものなの」


 不服気に頬を膨らませるシエルを見て、パン屋さんの少女は思わず噴き出して笑いました。すると、思い出したように「ちょっと待っててね」という言葉を残して、少女は長い赤毛をなびかせて体を反転させ、店の中へ消えていきました。数分後、紙袋を二つ携えて戻ってきました。


「これラスクなんだけど、よかったら」

「ええ?! 悪いよそんなの!」

「いいのいいの。これ、廃棄するパンの耳を再利用しただけだから」

「それでもれっきとした売り物でしょ?」

「大丈夫よ~パンの耳なんてたくさん廃棄されるんだから。ラスクの一つや二つ減ったってバレないって」


 自分の店を構えるのが夢だと豪語していた人間が、こんな気前の良さでいいのかとハルカは心の中で思いました。


「お連れの女の子はもう食べてるよ?」

「へ? あっ! シエル?!」


 ハルカが隣を見ると、シエルが頬をリスのようにもぐもぐさせていました。


「……っぷ! あははははは」

「あははははは」

「んぐんぐ……んむぅ?」


 お腹を抱えて笑うハルカと赤毛の少女を、シエルは不思議そうに見ているのでした。


 そして、夜の帷が迎えに来る頃。


「おいしかったよ!」

「ごめんね、ごちそうになったばかりで。本当は何か買って行けばいいんだけど、お金が……」

「あたしが好きでやってるからいいのよ。それに、お客さんの笑顔がなによりの代金なんだから」

「ありがとう」

「えへへ、またのご来店を」


 手を振ってパン屋さんを後にしようとすると、赤毛の少女は最後にもう一度だけ二人を呼び止めました。


「あのさ、よかったら名前……教えてくれないかな?」

 今までの活発さとは対照的に、若干の恥じらいを滲ませた声色でした。


「私はハルカ、で」

「シエルだよ!」

「ハルカとシエル……。うん、覚えた」


 両手を胸の前で重ねて優しい表情をしました。そして、さっきまでと同じように凛とした目と強気な語調で少女は言います。


「あたしはミラ。将来、世界に進出する名前なんだから覚えておいてね! ミラベーカリーをよろしく!」

「ふふ、またねミラ」


 ミラに見送られて、二人は再び家路に就きます。


「楽しかったね、ハルカ」

「うん」

「お友達もできてよかったね」

「友達?」

「ミラは友達でしょ?」


 予想していなかったシエルの言葉にハルカは意表を突かれました。ハルカは学校にも近所にも仲の良い友達はいませんでした。それが当たり前だと思っていました。だから、予告なく訪れた新しい出会いに戸惑いを見せてしまったのです。


「そっか……そうだよね。ミラは友達だよね」

「うん! シエルはハルカの友達で。ミラも友達! みんな友達!」


 きっとシエルがいなかったら、ミラとも知り合えていなかったでしょう。巡り巡った縁と先程までの余韻に浸りながら、ハルカは家を目指すのでした。

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