夏の終わり、少女の船出

 家に帰ったハルカは、その足でシエルの部屋に向かいます。扉の前で深呼吸をしてノックを二回します。


「シエル……いるんだよね」


 返事はありません。ついこの間までは立場が逆でした。引きこもるハルカに、シエルはこんなに寂しい思いで声をかけていたのです。


「入るよ、シエル」


 ドアノブに手をかけてゆっくりと回します。木が軋む音とともに扉が開かれました。シエルは中にいて、窓の外を見ていました。ガラス細工の瞳は、茜色の空に向けられています。夕刻の空は、一日の終りだけでなく、夏の暮れさえも告げているように感じられました。


「少しだけシエルと話しがしたい」

「……うん」


 白のワンピースを着たシエルは後ろで手を組んで、ハルカに向き直ります。


「最初に謝らせてほしい。私はシエルに取り返しのつかないことをした。許してもらおうなんて思ってないし、許されるべきでもない。でも、私は謝り続けないといけない。本当に……ごめんなさいっ」


 心からの謝罪を口にするハルカに、シエルは視線を切って、探るような口調で言います。


「わたし……分からないの。たしかにハルカのしたことは、天界の禁忌を犯すもの。許されることじゃない。でも、わたしはハルカに命を救われた。ハルカと過ごした時間はかけがえのないものだった。ハルカは大切な人。だから……、どうしていいか……分からないの」


 それは、シエルの本心なのでしょう。


 ワンピースの裾をぎゅっと握って言葉を紡ぎます。気持ちの折り合いがつかないのはシエルも同じでした。ハルカのことを大事に想っているからこそ、シエルは苦しいのです。


「昨日も言ったけど、シエルが私を嫌いになったのなら、他の家に行ってもいいんだよ」

「どうして……、どうしてそんな寂しいこと言うの……ハルカ」

「シエルの隣にいる資格がないからだよ。シエルが望むなら、私はちゃんと見送ってあげられる気がする」


 “付き合う友達は選んだほうがいい”と以前にマレゴが言っていたことを思い出します。


 シエルはもう故郷に還ることはできず、安息の眠りにつくこともありません。ハルカがシエルにしてあげられること――それは彼女の幸せを願うことであり、これからの生き方を尊重すること。それがハルカの固めた決意であり、導き出した答えでした。


「ずるいよ……ハルカは……。なんで、ひとりで決めちゃうの……? なんで、わたしの気持ちを置き去りにするの……?」

「私は、シエルのことを考えて――」

「ちっとも考えてないよ! ハルカはちっとも、考えてくれてない……っ」


 碧い瞳が揺らぎます。


「私じゃシエルに何も与えられない。私なんかじゃ……シエルを幸せにしてあげられない……ッ。だったら、他の家に引き取ってもらって、そこで新しい生活を始めた方が、シエルにとって幸せなんだよっ!」

「……ハルカ」


 ハルカの若葉色の瞳が儚く揺れます。彼女が自己欺瞞で語っているのが痛いくらいに分かるからこそ、シエルも語調を強くできません。


 だから、ハルカの鼓膜を撫でるような優しい声で想いを伝えます。


「ハルカはもう十分、与えてくれたじゃない」


 碧く澄んだ瞳がハルカを見つめます。


「ハルカが助けてくれなかったら、わたし死んでたと思う。そしたら、ハルカと学校に行くこともできなかった。次の朝が辛くなるくらい、夜遅くまで遊んだりお喋りしたりすることもできなかった。ハルカと……一緒に暮らすこともできなかった。だから、わたしはハルカに『ありがとう』って言いたい」

「シエル……」


「ハルカは、天使のわたしを殺したって言ったよね。たしかに、天使だったわたしは、もういない。でも、今ここで生きていられるのはハルカのおかげなんだよ。そして、この幸せはこれからも続く。この幸せはハルカと一緒じゃなきゃ続かないんだよ」

「でも、そんなの……」


「ハルカ。わたしの名前は何?」


 シエルがハルカを真っ直ぐ見つめて訊ねます。


「ハルカが助けてくれたとき、わたしには名前がなかった。使。ハルカがシエルって名付けてくれたから、わたしはシエルになれたんだよ」


 シエルは胸に両手を重ねて穏やかな面持ちをしました。


「ハルカがわたしに名前を与えてくれた。居場所を与えてくれた。だから……自分には何も無いなんて言わないで」

「…………っ」


 大粒の涙がハルカの目から零れます。


「私が天使だって知った時、ハルカはわたしのこと嫌いになった?」

「そんなわけない……。私はずっとシエルが大切で……」

「わたしも同じだよ。ハルカが禁忌を犯しても、わたしの気持ちは変わらない。これからもハルカの隣にいたいって思ってる」


 刹那――ハルカはシエルの胸に顔を埋めて慟哭します。


 自らのエゴによって一人の少女の運命を狂わせてしまいました。しかし、それでも少女は自分を選んでくれたのです。ハルカにとって言葉にならない想いがこみ上げてきます。シエルは、止めどなく涙を流すハルカの背中に手を回して、優しく体を抱きました。


「ごめんね……ハルカ」


 その謝罪は、何に対して為されたものだったのでしょうか。天使の呟きは、悲痛な声にかき消されました。


 ハルカが泣き止むまで、シエルはずっと体を抱擁していてくれました。落ち着きを取り戻したハルカは目元を拭うと、改めてシエルと対面します。


「私、シエルとはもう元の関係に戻れないって思ってた。そして、決心がついた。やっぱり今まで通りにはいかないって」

「……ハルカ」

「元の関係に戻るんじゃなくて、新しい関係を築いていこう。新しい幸せの形を探しに行こう。どうかな、シエル」


 シエルの笑顔がぱぁっと咲きます。


「良いに決まってるよ! ハルカ!」

「じゃあ、今日からまた……よろしくお願いします?」

「よろしくお願いします!」


 窓から差す夕日が一際輝きます。まるで、消えかけのロウソクの火が強く燃えるように、終わりゆく夏が最後の煌めきを放っているように感じられました。


 間違いを犯さない人間はいません。過ちが起こらない時代はありません。それでも、イカダを作る勇気があり、大海原に繰り出す覚悟があれば、人は前に進んでいけます。


 少女二人の新しい船出は晩夏の陽光に照らされて。短い夏は終わりを告げました。

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