愛の言葉ー前編ー

 大きな振動を感じた次の瞬間には、天と地が逆転していました。


「大佐……っ」


 男の呻き声が聞こえます。自分を呼ぶ声です。必死に応えようとしますが、転倒した衝撃で声が出ません。この様子では助骨も何本か折れていることでしょう。


「……くっ! ……うぅ……っ」


 声にならない声を漏らします。先ほどまで自分を呼んでくれていた声はもう聞こえません。戦車の中は赤黒い血が滴り、今はもうただの肉塊になったかつての仲間がゴロゴロと転がるばかり。


 男はふと、胸元のペンダントに手を遣ります。開けば、最愛の一人娘が元気に笑っている姿。男は片手で這って、操縦席に移動します。意識はすでに朦朧としていて、視界は暗く狭まっています。


 照準器を覗けば、こちらに向かってくる敵軍の戦車。彼にはそれが悪魔の軍勢に見えたことでしょう。


 男はペンダントを握りしめたまま、もう片方の手で照準を合わせます。目はほとんど見えなくなっていて、指先は冷たく震えています。肺がもう機能していないのか、呼吸もままなりません。


(お父様。お帰り……お待ちしておりますわ)


 ペンダントの写真から声が聞こえた気がしました。


(愛しております、お父様……)


 ほんのわずか、指先に温度が戻るのを感じます。もう一度前方を確認。ずっしりとした装甲が距離を着実に縮めてきます。


 血の味が混じる息を吐き、男は最後の力を振り絞って砲弾を放ちました。


 大きな振動。死体の臭いに混ざる火薬の香り。キーンという耳鳴りを残して、砲弾は一直線に飛んでいきます。


 そして、相手の急所に潜り込んだ砲弾は、大きな爆発音を伴って炎と煙を上げました。それだけではありません。隣を並走していた戦車にも誘爆して、一撃で敵軍をねじ伏せたのです。


 大戦末期――ここで敵軍の侵攻を食い止めていなければ、祖国は窮地に立たされていました。男の粘りが大切な存在を守ったのです。


 彼はかすかに微笑みます。長年、残酷な現実を最前線で見てきて深い皺が刻まれた表情が、少しだけ柔らかくなりました。


 それが――リュカ・ウィークスピア、最後の功績となったのです。



「オレリア! 来たよ!」

「あなた達ねぇ、また来たの……?」


 店番をしていたオレリアがため息交じりに悪態をつきます。


「ごめんね、オレリアさん。シエルがどうしてもまた来たいって」

「別にいいけどさ。他にやることないの?」

「だってだって! ここのお店、変なのいっぱいあるんだもん!」


 わちゃわちゃと騒ぐシエルに、ハルカとオレリアはやれやれと呆れ混じりに頬を緩ませます。


 あれから、二人はよくオレリアのお店に足を運ぶようになりました。互いの間に流れていた険悪な空気は解消されて、今は世界の秘密を共有する良き知り合いとなりました。


「そう言えば、オレリアとこうやって話すの、なんだか新鮮だね」

「ん?」


 シエルの発言に、オレリアは綺麗な眉毛をわずかに動かして反応します。


「だって、天界にいた頃はこうやってお話なんてしなかったでしょ?」


 天界には言語は存在せず、人間界でいうテレパシーのような技法で意思疎通を図っていると、以前教えてもらいました。


「シエルは学校に通ってるんだっけ? そこで勉強を?」

「うん。こっちに来た頃はハルカにも勉強を教えてもらってたんだ」

「オレリアさんは独学で人間界の言葉を勉強したんですか?」

「まあね」

「へえ~~~すごいなぁ!」

「働きながら必要な知識を覚えただけよ」

「ううん、やっぱりオレリアはすごいよ。天界にいた時から頭良かったもんね」


 憧景の眼差しを向けられてオレリアが照れます。年上のオレリアが恥じる姿はなんだか色っぽいのです。ちなみに、天使は長寿命なので、シエルもハルカよりはずっと実年齢は上なのですが、シエルの言動はどこか幼さの面影を残していて、ハルカにとっては妹のように感じられるのです。


「ねえオレリア! あれやっていい!?」

「あんたも飽きないね。どうぞご自由に~」

「やったー!」


 ぴょんぴょんと跳ねながら、シエルは店の入口付近に設置されたゲームコーナーに向かいます。あれは木でできたおもちゃのピストルに輪ゴムを引っ掛けて飛ばし、ダンボールを切り抜いて作った標的を倒すゲームです。


 今はハルカたち三人しか店内にいませんが、休みの日はかなりの賑わいを見せます。家族連れの客もたくさん訪れます。親が商品を物色している間、子どもが暇にならないようにと配慮されて作られたゲームです。


「ん~しょ……っと」


 シエルは小さな手で輪ゴムをピストルの引き金部分にかけます。ペロッと珊瑚色の舌を出し、片目を閉じて狙いを定めます。そんな健気な姿をハルカとオレリアは遠くからほほえましく見守ります。


「ちょっと、ハルカ……」

「うん?」


 カウンターからオレリアがこっそりハルカを呼んで、シエルに聞こえないように耳打ちします。


(どうしたんですか、オレリアさん)


 ハルカも小声で応えます。


(シエルとは話の折り合いはついたの? その……いろいろと)

(はい、……大丈夫です)

(そう……)

(その節は色々とご迷惑をおかけしましたし、お世話にもなりました)


 きっと、人間には話してはいけないこともあったのでしょう。でも、オレリアは天使や世界の秘密について真摯に答えてくれました。


(私の方こそ、あの時は言葉が厳しくなっちゃってごめんね)

(いいんです! 私のしたことは変わりませんし、どんなに償いたくても償いきれません。それは変わりませんから)


 オレリアはハルカの瞳をじっと見つめます。絶望の海底に咲いた一輪の花のような尊さを秘めていました。


(人間でも、こんな目ができるのね……)

(はい?)

(ううん、なんでもない。それよりもハルカはシエルのことが好きなの?)

(もちろんです。シエルは一番の親友です)

(そういう意味じゃないんだけどなぁ)

(?)


 オレリアはニヤニヤと口角を吊り上げて、ゲームに熱中しているシエルを流し見ます。


(私もね、実はあの子が好きなのよ)

(そりゃあ、二人は古くからの知り合いじゃないですか。仲が良いに決まってます)

(ふうん。じゃあ、私があの子の一番近くにいても良い訳ね? ハルカよりもずっと近くで、あの子を見守っても良いわけね?)

(え……?)


 なんでしょう。胸の中に針が刺さったような痛みを覚えました。


(私はあの子の成長をずっと見守ってきたわ。まるで家族みたいにね)


「わ、私だって、シエルとは家族だって思ってます! そりゃ、オレリアさんと比べれば、シエルと過ごした時間は短いですけど……、でも、シエルは私にとって大切な家族です!」

「そうかしらねぇ……? あなたさっき、シエルは親友だって言ったじゃない」

「それは……」


 挑発するような声色で、オレリアは言葉を継ぎます。


「あなた達人間が何世代と移ろいゆく長い間、私はあの子を見てきたのよ? それに、同じ天使である私の方があの子を深く理解できると思うわ」


 その発言についにハルカも我慢できなくなりました。


「時間とか、人間とか、天使とか……そんなの関係ないです! 私は、一人の女の子としてシエルが好きなんです! ずっとずっと、シエルを好きでいつ続けます!」


 ハルカの大声に店内は凍りつきます。シエルは生まれ持った碧眼を大きく見開いて、ハルカを見ていて。そんな二人の様子をオレリアはニンマリした顔で眺めています。


「だってさ、シエル。よかったね」


 オレリアがそう告げた途端、シエルはハルカに向かって走り出し、そのまま勢いを殺さずにハルカに抱きつきました。


「うれしい! わたしもハルカのこと、大好きだよ!」

「シエル~そういうときはねぇ……『愛してる』って言うんだよ」

「ちょっ!? オレリアさん?! シエルに何を教えて――」

「ハルカ。愛してる」

「うっ……」


 上目遣いで愛を囁く可憐な少女の姿に、ハルカは言葉を詰まらせます。


「ほぉれぇ、ハルカは答えてあげないのかなぁ?」


 オレリアはカウンターに肩肘をついて楽しそうに口元を綻ばせていました。


(安い煽りに乗せられちゃったな……)


 心の中でため息をつきます。今だけはオレリアが小悪魔に見えたことでしょう。


「し、シエル……」

「うん?」

「あ、ああ……愛して……る」


 最後は掠れて上手く言葉になりませんでした。が、


「はわぁ! わたしもハルカ、愛してる!」


 抱きつく力がいっそう強くなります。密着してくるシエルからは女の子らしい柔らかな肌の感触が伝わってきます。近づけられた美顔からは清潔感のある香りと、シエルの吐息が鼻腔をくすぐりました。


「天使だ……!」

「天使なんだよ。“元”だけどね」


 と、オレリアはからかうと、そのまま抱擁し合う二人に訊ねます。


「で、二人はいつ結婚するの?」

「はああ!?!?」

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