嫌悪と尊敬は表裏一体へ

 先ほどの地震からしばらく経って。


 街には人が溢れていて、不安の声が入り混じります。余震が来る度に、再び断末魔が聞こえてきます。


 そんな地獄の入り口のような夕方の道を歩んでいる時です。シエルの胸元で光る小さなアクセサリーにハルカの視線は吸い寄せられました。それは以前にも見せてくれた『雪時計』です。砂時計のような形をしていますが、中身は雪のようなふわふわした結晶。舞い落ちる速度も砂時計に比べてずっとゆっくりです。音のしない雪の時計は、シエルの胸元で静かに時を刻んでいます。


「ねえ、シエル」

「なに……ハルカ」

「その時計のことなんだけど……」


 ハルカが指を指すと、シエルはぎゅっと握りました。さっきまでの朗らかな様子とは打って変わり、顔に陰を落とします。


「私の勘違いだったらそれでいいんだけど……。それ、?」


 シエルは寂しそうに視線を落としました。


「オレリアから聞いたの?」

「ううん。なんとなく、そうなのかな……って」


 木の枠で囲まれたガラス瓶の中では白い綿がふわふわと浮遊しています。ふつうの時計ならば、一定の速度で時を刻むはず。なのに、上のガラス球体に溜まった雪が下にすべて落ちた光景を、ハルカは見たことがありません。けれど、以前に比べて雪の量は着実に減っています。


 加えて、さきほどの地震です。ただの自然現象ではなく、生命を脅かすような大地のうねり。偶然とは思えませんでした。


 シエルはいつもその『雪時計』を首からぶら下げていました。食事のときも、勉強するときも、眠るときも……。まるで、体の一部のように。彼女のお気に入りなんだと、ハルカは思っていました。


 でも、そうじゃないとしたら? 肌身離さず持ち歩いているのではなく、手放せない理由があるとしたら?


「ハルカの……言う通りだよ」


 とても重い口調でした。


「ある日、朝起きたらこれがあったの。外そうとしても、まるで体の一部みたいに外れなくて。直感的にわかったの。これが、この世界が終わるまでの残り時間を教えてくれてるんだって」


 ハルカがその存在に気付いたのは、秋の収穫祭のときでした。終末の瞬間が近づいて、その時計は姿を現したのです。


「ハルカが心配すると思って黙ってたの……ごめんさない」


 シエルは優しいから、どんな時もハルカが傷つくことを一番に恐れます。二つ目の代償のことも最初は秘密にしていました。


 ハルカは彼女の頭を撫でてあげます。


「ありがとうシエル、話してくれて。でも、私は気にしないよ。むしろ、今日突然、世界が終わるよりも、残された時間が視える方が良いよ。その方が、シエルと思い出を作れるでしょ? きっとこれは天からの贈り物なんだよ」

「ハルカ……」


 『雪時計』――上の球体にある雪がすべて落ちきったとき、世界は滅ぶ。まるで、時限爆弾のよう。きっとシエルにとって、外したくても外せない小さなアクセサリーは厭うべき存在だったのでしょう。


 しかしハルカはそれを、自分と過ごせる残り時間を知らせてくれる贈り物だと言ってくれました。そのことがシエルの胸を温かくしたのです。


「ハルカの手、気持ちいい」


 絹の糸よりも滑らかなシエルの髪を掬い上げます。夕暮れが濃くなり赤紫色に染まっていく中でも、シエルの白髪は一際輝いて見えました。


 その時です、別方向から威勢のいい声がしたのは。ハルカとシエルが同じ方向に目線を投げると、広場で十才くらいの少年が通行人に声をかけながら何かを配っています。


「号外! 号外だよー!」


 どうやら新聞のようです。少年は元気のいい声を響かせながら次々と新聞を手渡していきます。


 すべての子どもが学校に通えるわけではありません。むしろ、教育を受けられるのはほんの一部。ですから、あの少年のように、ハルカ達よりもずっと幼い年齢で日銭を稼ぐ光景は決して珍しくありません。


 そこは問題ではありません。問題なのは、新聞配りをしているあの少年が口にした中身です。その言葉は鋭いナイフのように、ハルカの心に突き刺さりました。


「号外! リュカ・ウィークスピア戦死! 祖国の英霊に誉れ高き賛美を!」



 同級生であるマレゴ・ウィークスピア。彼女の父、リュカ・ウィークスピアが没したという報せは一夜にして街中に広まりました。


――マレゴさんはご家庭の事情によりお引越しすることになりました。


 先生は残念そうに事実だけを淡々と告げました。核心に触れずとも、生徒は皆理解しているからです。

 休み時間でも、誰もマレゴの話をしませんでした。結局今日は、なんとも言えない重苦しい空気がずっと教室の中に渦巻いていました。


 ――放課後。


 薄暗くなった道をハルカとシエルは辿ります。十一月も下旬に差し掛かり、日が落ちるのも早くなりました。冬の足音が近づいてきます。


「ハルカ、大丈夫?」

「なにが?」

「なんだか元気がなさそうだから」

「そうかな?」

「もしかして、マレゴのこと?」

「…………」


 しばらくの沈黙を作って、ハルカは口を開けます。


「マレゴのお父さんすごいよね。たくさんの人から愛されて」


 昨日からココリク街ではリュカ・ウィークススピアの話で持ちきりでした。最初は英雄の不幸に肩を落とす声が多かったのですが、だんだんとそれは彼の勇姿を讃えるものへと変わっていきました。まだ目の前の戦争も終わってないというのに、来月にはウィークスピア氏の慰霊碑と銅像が建てられるそうです。


 ハルカの父が亡くなった時は何も報道されませんでした。人知れず命を落としました。対して、国の英雄が戦死すれば街は狂ったようにお祭り騒ぎです。


「なんだか不公平だよね……。お父さんは誰のために、何のために、命を捧げたのかな……」

「ハルカ……」


 ハルカの心境は複雑でした。父を悪く言ったマレゴを、彼女は生涯許すつもりはありません。しかし、彼女もまた最愛の親を亡くし、今やハルカと同じ境遇になったのです。社会の扱いに差はあれど、大事な家族を失った痛みに違いはありません。


 ハルカには優しい母親とシエルがいてくれました。マレゴにはそういう縋れる存在がいるのでしょうか。生意気だったマレゴは、引っ越した先でも、今までと同じように生意気な彼女でいられるのでしょうか。


「私はマレゴが嫌いだった。でもね、最近思うんだ。もし違う出会い方をしていたら……。もし、私の物語に続きがあるとしたら……、マレゴとは違う関係になれていたのかなって」


「わたしはそう思うよ」


 歩く速さを落としてシエルが言葉を紡ぎます。


「人間は、たまに歯車が噛み合わなくなっちゃう。それが小さな集団で起これば喧嘩になるし、世界で起きれば戦争になる。今は、ちょっとだけ歯車が噛み合ってないだけ。忘れちゃってるんだよ、マレゴも……戦争してる国も」


「思い出せるのかな……仲がよかった日のことを。人間は天使みたいになれるのかな」


 天界に不和はないと、オレリアが言っていたことを思い出します。


「人は頭が良いし、努力できる生き物だよ。今はそれが悪い方向に流れてるだけ。人は本来、『人の心』を持ってるから人なんだよ。今はそれを忘れてるだけ。だから、ハルカの想いは夢物語なんかじゃないよ。マレゴとだって、きっと――」

「ありがとう、シエル」


 シエルの口調は、赤子を寝かしつけるような柔らかいものでした。


 終わりゆく世界で、それは意味を成さない問いかもしれません。マレゴは良い意味でも悪い意味でも軍人である父親の影響を受けて育ちました。それが今日の尖った彼女を形成したのです。

 偏りのある性格ですが、裏を返せば、自分の意志を持って力強く行動できるということ。そんな彼女に多少なりとも尊敬に近い感情を抱いていたのも事実。それは、ハルカにはなかった資質だったからです。


 おそらく、マレゴと会うことはもうないでしょう。あの歪んだ口癖も、高飛車な性格も、周りを圧倒する可憐な黒髪も、ぜんぶ嫌いでした。


 でも、それと同じくらい、彼女の生き方や価値観に尊敬の念を抱いていたこと、そのことだけは忘れずにいようとハルカは心に誓ったのです。

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