002 覚えていない



「べつにそこまで怒ってる訳じゃないんだけどさ、おまえは他人に取らなくていい手間取らされたら嫌な気持ちにならない? いや、べつに怒ってる訳じゃないんだけど」


 目を覚ますと天井があって、でも知らない天井じゃなかったから安堵する。

 打ちっぱなしのコンクリートじゅうに巡る配管だのケーブルの束だのはまるで血管のようで、実際これらの管がこの部屋にいろいろなものを供給して機能させている。

 切れかけてじりじり言ってる蛍光灯。新しいの買ってこなくっちゃ。古いエアコンがごうごう苦しげに唸りつつもがんばって仕事してる。あんたが切れたらあたしたち凍え死んじゃうから、その調子で頑張ってほしい。

 そんな感じ。お世辞にもきれいだとか、ここにいて安心するとか、そういうあたたかい系の感情のわかないこの部屋は地下にあった。お日さまのあたるところに居られないというか、あたってると気まずい気持ちになるような人種のための場所。

 なんでそんなところにあたしがいるのかって言うと、あたしじゃなくて、そのがそういう人種だからなので、誤解しないでほしい。


「聞いてる? ねえ、聞かれてなかったらもっかい言うのも余計な手間なんだけど」

「聞いてるってば、うるさいなー」


 蛍光灯の光を遮るようにあたしの視界に入り込んできたのは、小柄な女だった。雑に切られてほうぼう跳ねてる黒髪、こんなところに籠るから色気を失う白い肌、彩度の低い赤色の瞳の下にくっきり窪んだみたいな濃ゆいクマ。不健康が服着て歩いてるみたいなガリガリのそいつはこの部屋の主であり、そしてあたしの主でもあった。

 冒涜者ブラスフェミア──冒涜を意味するblasphemyという単語を人名風にもじって、略称はミア。それがこいつの通り名で、こんな偽名で通さなきゃいけない業界がつまるところろくでもないのだ。

 こいつの客は、金ばっか持っててそれをろくなことに使わないタイプの人々。そーいうの相手にろくでもないペット作ってあげたり、ろくでもない手術してあげたり、ろくでもない薬を打ってあげたり。いわゆるマッドサイエンティスト? 的な仕事をしてるから、ボートクシャなんて名前もあながち似合ってないわけでもない。

 この部屋はそういう仕事をするための作業部屋だ。部屋の真ん中に作業台──ベッドとも言う──が置いてあって、その周りにメスだの注射器だのわかりやすい器具が散乱してて、術衣を着たミアが立っていて。

 あたしは、台の上に寝かされていた。


「うるさくもなるよ。何? 6階の窓から落ちたって。それまでに怪我はしてなかったんでしょ? そして『落とされた』んじゃなくて『落ちて』そうなったんでしょ? つまり自傷ってことでしょ? なんでそんなこと……」

「あーもううるさいな! ごめんってば! 階段下るのもエレベーター乗るのも面倒くさかったの!」

「そんなことある? おまえにならあるのか……」


 慣れた手つきで器具を弄るミアの手の、ゴム手袋の向こうに隠れた肌色も知っている。なぜならあたしも、ミアの手によって存在だから。だからどれだけ傷ついたってこうしてもらえると知ってるし、傷口を弄られるのも慣れっこだし、ミアの手つきが澱まないのもよく知ってる。

 ただ、知っているのはそれだけ。どういう背景、どういう理由があってミアがあたしを作ったのかは。曰く、しょーもない死に方をしていたあたしの死体をミアが拾って、いろいろ作り直してくれたらしいけど。


 ──だからといってそんなに、思うこともない。覚えてないことを思い出そうとか、そーいうのはあんまりなくて、だってどうせしょーもないことなんだから。

 今のあたしがそこそこ退屈せずに過ごせていることだけが重要だと思ってる。だから、というわけではないけど、面倒なことは可能な限り起こってほしくないから。

 いまだブツブツとあたしへの文句を紡ぎ続けるミアの声を無視して目を瞑り、やり過ごそうとしていた。……でもちょっとだけ、悪いことしたなって思ってるのも本当だから、あとで蛍光灯買ってきてあげようって思って、意識を飛ばした。


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