030 教えてよ
兄さんを簡易的な助手としてそばに置くことを決めてから、僕の生活はみるみるうちによくなっていった。
まず、徹夜をさせてもらえないから毎日頭がスッキリする。比喩表現ではなく本当に夜遅くなったらベッドまで引きずられて、寝付くまでそばで監視されるので寝るしかなくなるのだ。作業時間は減るけど、日中の作業効率はまあ、よくなった。
それからあと、細かい作業なんかは当然任せられないけど、ちょっとした雑用をしてもらえるのは助かる。長い付き合いだから「それ取って」が通じるのが一番いいかな。手元に集中できるし。あと地味にウザかった汗とか返り血とか拭ってもらえるのもいい。
あと……食事もやってもらえるのがいいかもね。いつもは体が動かなくなったら適当にゼリー飲料とかエナジーバーとか口に突っ込んでたけど、ふつうのものを作っておいてもらえるようになったから。
そんなこんなで、兄さんに世話される僕は随分と人間らしさを取り戻して健康になってきた……気は、するけど。
心配事っていうか、懸念事項がなくなったわけではなかった。三つあって、まず単純に作業の難易度自体が易しくなったわけじゃないってこと。相変わらず相当上手くやらないと失敗作が積み上がるばかりになるし、成功作の数はなかなか増えない。
二つめが……兄さんが何考えてるのかよくわかんなくてキモいってこと。正直に言って僕のやってる作業って見てて全然楽しくないと思うんだ。むしろ、常人なら概要を聞かされただけで気分の悪くなるようなことだし。今更兄さんが常人だなんて思いやしないけど……それでも、無表情で僕の手つきをじっと見つめる兄さんの姿は少し不気味だ。何を考えてるのか、思ってるのか、いまいちわかんなくて気持ち悪い。わかってなきゃ後々悪いことになるとかそういうわけでもなさそうだけど……。……ま、それもどちらかといえばどうでもいいか。
三つめの方がよっぽど重大な悩みなんだ。兄さんが使えなさそうだからって、夕月ひとりに任せた仕事──いい素材になりそうな人間を誘拐してくるって作業が、滞るんじゃないかってこと。夕月はぶっちゃけて言うと不器用だ。それでいて臆病で、まだ道徳心がそれなりに残ってて、こういうことを快く思えない。だからそのうち泣き言を言い出すかヘマるかどっちかやると思うんだけど……どうしたもんかな。
夕月の思考から人間らしさを取り去って、僕の言うことだけを聞くだけの人形に仕立て上げることは難しくない。でもそうしたら、二度と元に戻せなくなる。夕月や兄さんが人間らしさを保っていたからいろいろ誤魔化せたことって、これまでたくさんあったから、あんまりそうするのもよくない気がする。それに──そういう人形が欲しいのであれば、新しく作ればいいだけであって、夕月をそうする必要性ってほぼないし。でも今から新しく作るのも手間だしなぁ。
んー、と唸っているうちに兄さんがやって来て、これから休憩時間だと知らされた。無理矢理引きずられる前に自分で着替えて、血やら何やらいろいろ落として、自分の足で休憩室へ向かう。今朝も使ったベッドはきちんとシーツが敷き直され、サイドテーブルの上には保温マグの中で湯気を立てるコーヒーが置いてあった。
ぼすん、とお尻を勢いよくベッドに乗せて、横にはならずポケットから携帯端末を取り出した。メッセージ、見慣れないアイコンからの履歴が一件。そうだと思われないよう巧妙に、それでも重ねに重ねた加工によって面影の失われたセルフィーの、目元の赤々しさが地雷感を訴える、黒髪の女のアイコン。
「どうしたの? ミレーユ。僕に何か用事?」
いつだか依頼をしたことのある取引先、とだけ言えば少しばかり簡素すぎる関係性。とはいえそれを結んでいるのは僕ではなく、僕の手下である夕月なんだから、僕とは特に何もないはずの人間。
何でも屋のミレーユに、文でやりとりするのも面倒だから通話をかけた。
『久しぶり。いやね、夕月から少し話を聞いて』
「聞くなよ。一応夕月にも守秘義務ってやつを説いてやったことはあるはずなんだけどなあ」
『もちろんいろいろ暈してくれてるよ。それに、ボクにだけしか話してないみたいだから、大丈夫』
「そお……」
夕月の言うことなんか信用するタイプの人なんだ、この人。いやまあ、夕月は巧妙なウソがつけるタイプじゃないって、誰でもすぐわかるだろうけどさ。
なんか少しアホらしくなってきて、マグを手繰り寄せて中身を一口啜った。まだ熱い。
『ガラッと印象の変わるようなメイクがしてみたいって、それだけさ。ボクに相談してくれたんだ』
「そお。じゃ、いい感じのを教えてあげれば?」
『や、それでもいいんだけどさ、急にそんなこと言う子だったかなあって』
「言うかもしんないでしょ、おまえが夕月の何を知ってんだよ」
ああそういえば変装とかしてやればいいんじゃないって話をしてたな。その相談を、よりにもよってミレーユにしたんだ、夕月。
言い返して、空白。なんかちょっとした地雷を踏んでしまったかのような雰囲気が、通話口から漂ってきた。心底アホらしくなってくる。なんだコイツって感じ。
『単刀直入に訊くけど、アンタ夕月に何をやらせてんだ?』
「急に刺してくんじゃん。怖っ。あなたに教えなきゃいけない義理はないから教えません」
『そう。じゃ、勝手に探っていいわけ?』
「ご自由に。ただ、そーいうことしてくるんなら、今後あなたと夕月の関係を見直させてもらうけどね」
『……アンタは、夕月のなんなんだよ』
「さっきも言った通り、教える義理がないから教えません。でもミレーユ、よく考えて。この言葉の裏を返してみてほしいんだけど」
もう一口、二口啜る。作業中ならブラックでもいいけど、休憩中に飲むなら砂糖とミルクをたくさん入れて甘くしたやつでもいいかも。次から兄さんに言っとこ。
「義理があるなら教えてあげるってことだよ。わかる? あなたと僕との間じゃなくて、あなたと夕月の間にどんな義理があるのか……あなたがどうして夕月にそんなに入れ込むのか、僕に教えてよ」
──やっぱり兄さんにいろいろお世話してもらって調子がよくなったのかもしれないな。それで運が回ってきたのかもしれない。
面白い話が聞けることになりそうな予感に笑みを堪えきれず、僕は唇の端を吊り上げながら液晶を見つめた。
通話中を示す画面、少し大きめに表示されるセルフィーのアイコンが、すこしだけ色を失ったように見えて、愉快だった。
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