X.とある娼婦の述懐
XXX 報われない、救われない
十三か十四のころだったと思う。あたしがあの娼館に入れられたのは。
路地裏でぼーっと暮らしてたら知らないおじさんに声かけられて、あれよあれよという間に話が進んで、気が付いたらそこにいた。当時のあたしはそこがどういうところなのかよくわかってなかった。
だから、お世話係だって同じ部屋に入れられた先輩の女の子── ⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんが、あたしに向かってかわいそうなものを見る目をしていたのだって、なんでかよくわかってなかった。
⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはあたしより二つ年上の女の子。派手な赤色した髪と目をしていて、キツいツリ目だから最初はいじわるな子なのかなあと思ってたけど、意外とそんなことなかった。態度こそぶっきらぼうではあるものの、なんだかんだでよく世話を焼いてくれる子だった。
あたしのいわゆる「最初の夜」、別にあたしは悲しいとかつらいとかそういうことはなかったんだけど、なんかよくわからない気を利かせて一緒のベッドで寝てくれたりした。娼館のごはんはいつも硬いパン二切れと、しなびたキャベツとかがたまに入ってる薄いスープと、それから缶詰のサラミが三切れくらいのものだったんだけど、たまーにパンとかわけてくれた。
そんな感じでうれしいんだかうれしくないんだかよくわかんないことをよくしてくれたから、あたしが⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんを嫌いになる理由は特になかった。向こうもたぶんあたしを嫌いではなかった。
同じ部屋での生活は、それなりに楽しく過ごせていた。あたしが来てからだいたい、一年くらいの間は。
女の旬は十代後半から二十代前半までであるらしい。お客さんが言ってたことだからよくわからないけど。
ならばそれまでの期間はいわゆる準備期間ということになる。花咲く前に茎や葉を伸ばす時期。そこで上手く育つ子と育たない子に分けられてしまうのだ。娼館の基準でいうのなら、「イイ体」──おっぱいとかおしりにお肉がついて、きゅっとくびれのある体になれば「よし」。そうじゃない子はよっぽど可愛くないと、丁寧に扱ってもらえなくなっちゃう。
⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは「よくない」子に育って、タイムリミットの十六とか十七歳の誕生日を迎えちゃった。べつにブスというわけではないんだけど、でも、目を見張るようなカワイ子ちゃんでもない。だから⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんの価値は低くなり、扱いは日に日に悪くなってった。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは、どんどん弱っていった。
ある日の⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは夜のうちに帰ってこなかった。あたしは気を利かせて⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんの分のパンとかおかずとか、夜ごはんを確保してたのに、待ってる間にひえっひえになってしまった。
そのまま数時間待っても帰ってこなかったからあきらめて、お皿にラップをかけて寝てたんだけど、ふと目が覚めたら⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは帰ってきていた。ベッドの上でうずくまって、寝ていなかった。
「おかえりい、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃん、遅かったねえ。一応ごはん取っといたんだけど、たべる?」
「…………」
「⬛︎⬛︎⬛︎ちゃーん? だいじょぶ? 寝てるの? そんなポーズで寝たら体いたくなるよお」
「…………いらない。おなか痛い」
「えーっどしたの。冷えちゃった? だったらちゃんとお布団かぶんなきゃだよお」
「…………そうじゃない。物理的に、痛い」
「えー、どゆことどゆこと?」
あたしがベッドから起きて首をかしげていると、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはそうっと服を脱いだ。目は逸らされていた。ベッドランプを付けてそれを見るなり、あたしはびっくりしちゃった。
「わーっ、ヤバヤバ! おなかんトコめっちゃカラフルじゃん、なにこれ」
「…………あざ」
「えっなんで? めっちゃついてるじゃん、殴られたってこと? どうして?」
「…………殴られたり、蹴られたり、踏まれたりした」
「最悪じゃん! なんでそんなことされんの、娼婦じゃなくてサンドバッグじゃん、こんなの!」
「…………これからは、そういう扱いを受けるようになるってことだよ」
あたしは売り物にならない子だから。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはシーツのしわを見下ろしながらそう言った。
「えー、やだー……。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんもちゃんとヤダって言いなよお、痛いのイヤでしょお」
「言ったところでやめてもらえるんならとっくに言ってる」
「でもこんなの続いたらそのうち死んじゃうよお。あたしはヤだよ、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんが死んじゃうの」
「……そうだね。あたしも死にたくない」
ふっと吐き捨てるように笑って、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは横になった。
あたしはちょっとだけ迷ってから、自分のベッドから出て、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんの横に寝っ転がってあげた。あたしの最初の夜、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんもこうして一緒に寝てくれたでしょ。だからそのお返し。そう言ったら⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはありがとうとだけ言って、そのあと一つだけ、本当に一つだけの嗚咽を零した。
その日はそのまま眠ってしまった。あたしが起きたときにはすでに⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはいなくなっていた。朝早くからお仕事に駆り出されていたらしい。あたしはちょっとだけ迷ってから、二度寝した。
それからというもの、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはフラフラの体で帰ってくることが多くなった。それどころか意識を失ってグニャグニャになっているのを部屋に投げ込まれたりすることもあった。
ひどいときには口から鼻からダラダラと透明の液体を零しながら失神してるのを放り込まれたりもした。そのときはきっついニオイですぐわかった。バカみたいに度数の高いお酒をカパカパ飲まされたのが、そのまま逆流しているんだって。さすがにこれは死んじゃうんじゃないかと思って、慌てて近くの部屋の女の子たちへ夜中なのに助けを求めて、全部吐かせた後に大量のお水を飲ませたりして、とにかくいろいろ大事になった。周りの女の子たちはみんなドン引きしてた。あたしもしてた。
「⬛︎⬛︎⬛︎、もう殺されるんじゃない?」「だったら早くそうされたほうがマシだと思うよ」「こんなの生き地獄じゃんね」「いっそ殺されて楽になったほうが、⬛︎⬛︎⬛︎にとっても幸せだよ」──めいめい勝手にそんなこと言うけど、正直なところあたしもそう思い始めていた。
とにかくみんな口を揃えてこう言っていた、「あたしだったら耐えられない、自殺しちゃう」。
「⬛︎⬛︎⬛︎ちゃーん、今日こそ何か食べなよお。スープ飲むだけでもいいからあ」
そのうちに⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはご飯を食べられなくなった。小さく小さくパンをちぎって、スープに浸してどろどろにしたのを一口食べただけでもういらないって言いだす。それすらしないこともあった。
あたしはスープの上澄み部分、具のない汁だけよそってきて⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんに差し出したりしたけど、ぜんぜん受け取ってもらえなかった。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは力のない目で薄色の水面を見て、すぐ逸らした。
「いらない」
「えー……でもさすがにそろそろ何か食べないと死んじゃうよお。ねえ、お水だけでもいいから」
「……どうして? みんな言ってんじゃん、あたしのこと見て、あんなの死んだほうがマシって。あんたもそう言うんでしょ? 知ってんだよ、どいつもこいつも、好き勝手言いやがって、クソ!」
ぎくっとしてしまった。何にも言えなくなって媚びるような上目遣いを寄越したら、睨み返された。
あたしはそんなこと言ってないよ、と言おうかと思ったけどやめた。言ってないだけであって、実際そう思っていたのは事実だし。
下を向いて黙り込んでいたら、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは乱暴に腕を伸ばしてきた。スープの器をあたしからひったくる。飛沫が上がってちょっとだけあたしにひっかかった。それでもあたしはそれを責められなかった。未だ、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんにぎらぎら睨まれていたから。
「死んでやらないよ、死なない! 生き延びてやる! 誰の思い通りにもなるもんか!」
そう言って一気に器の中身を飲み干す⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは、すがすがしいほど矛盾していた。誰の思い通りにもなりたくないって言うわりに、店の人とかお客さんの言いなりにはなってるわけだし。けれどそれを指摘できるほどあたしには度胸がなかった。
嚥下の音がわざとらしいまでに響く。飲み干す吐息のあとに⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんは大きな声でげらげら笑い始めた。狂っちゃったんだな、と思った。
「あのね、生きてたらいつかお父さんとお母さんが迎えに来てくれるんだから! あんたたちと違って! いつか絶対迎えに来てもらって、幸せになるんだから、あたし!」
「えっ? でも、あの、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃん、パパとママに、そのお……イジワルされてたんだよね?」
「そうたよ、けど、それもいつかぜえんぶ謝ってくれるよ! いままでひどいことしてごめんねって! これからはいっぱい優しくして、ずーっと幸せにしてあげるからねって、言ってくれる日が来るよ!」
いやいやどう考えたってそんな日来るわけないじゃん。そんなことすら言えなくなってしまった。あたしはバカだけど、それくらいのことはわかる。だけどそれを口にしたら今度こそ⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんが死ぬ。
それくらいのこともわかったから、わかったのに、言えなかった。あんなのもう死んだほうがマシじゃん。最初にそう言いだしたのは誰だったっけ、ミキ? サーシャ? リリカ? 忘れちゃったけど、ひとりが言い出したらみんなそれに同調した。あたしもそうした。誰も彼も、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんだけ取り残して。
「そうに決まってる、そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ……、……、……」
むくわれないじゃんって言ったのかすくわれないじゃんって言ったのか、聞き取れなかった。ただ、⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはそれを言ったきり、飲んだばかりのスープを吐いて、声をあげて泣き始めた。固形物の混じっていないさらさらした透明のゲロに、大粒の涙がいくつも零れて混ざっていった。
すーごい不細工な泣き声をしていた。のどをコーヒーミルで挽き潰したらこんな声が出るのかなって、そんな感じの、出すだけで痛そうな声をしていた。あたしはちょっとだけ迷ってから、無言で床を片付けた。
⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんがとうとう帰ってこなくなったのはそれから一週間も経たないころだった。
一日待っても二日待っても三日待っても、帰ってこなかった。ごはんを取っておくのは五日目でやめた。
一週間経ったころには女の子たちの間で「ついに殺されちゃったんじゃない?」という噂が飛び交っていた。
二週間経って、あたしはちょっとだけ迷ってから、オーナーに⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんのゆくえを聞いてみた。
「そのうち会わせてやる。が、もうお前の部屋に戻ってくることはねえよ」
オーナーは煙草の煙をあたしに吹きかけながらそう言った。苦々しい顔をしていた。苛々しているようにも見えた。どういうことですか、と訊いたら舌打ちをされて、吐き捨てるように言われた。
「あいつ上客中の上客に粗相しやがった。だから仕置きをするんだよ、まあそれで死ぬだろうからな」
あたしはそうですか、と返事をした。それだけで終わらせて部屋に帰った。
許してあげてくださいだなんて下手なこと言って一緒に殺されるかもしれないのはまっぴらごめんだった。だから部屋に帰ったら、真っ先に⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんの使ってたスペースの掃除を始めた。ものをゴミ袋に詰めていく。とは言っても、全部捨てても袋の半分ほどにも満たなかった。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはそれっぽちの女の子だった。
ただ、枕の下から出てきた紙切れ一枚──写真。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんの家族写真。まだ仲のよさそうだったころの。その中で笑っている⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんを見て、あたしはちょっとだけ迷ってから、それだけ取っておくことにした。
それからさらに一週間経ったころ。あたしたち女の子はオーナーに呼びつけられ、全員が広間に集められた。見せたいものがあるって、それだけ聞けばろくでもないものを見せられるのだとみんなすぐにわかった。
集められたみんなはめいめいに喋ったり、あくびしたり、爪先を見たりして雑に時間を過ごしていたけど、オーナーが謎の布袋──それなりに大きいそれをもってきた瞬間、ぴたりと静かになった。
袋の口が開けられ、中から何かがごろりと落ちてくる。頭があって、胴体がある。人のからだ? 最初は赤ちゃんかと思った。けれど違う。微妙に、形が。
いろいろ考えているうちに前のほうに立っていた女の子がひゅ、と妙な息の音を零して、それから連鎖的に悲鳴が上がった。
「きゃーっ!」「え、なに?」「⬛︎、⬛︎⬛︎」「どしたの……うわっ!」「いやあああっ」「ウソでしょ!?」「やだっ、やだやだやだ!」「なんなのってば!」「あんたは見ちゃダメ!」「うえ゛っ……」
前のほうからどんどん悲鳴が上がっていく。あたしは後ろのほうにいたから、ちゃんと見るまで時間がかかった。
それを見た瞬間、あたしはひとつ思い出した。毎日一時間だけ広間で見ることを許可されるテレビ。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんと一緒に見ていて、やっぱり下手な気遣いをされてよくわかんない教育チャンネルにされたとき。
白い服の大人が穏やかに笑いながら写真を示していた、きれいな蝶々も、子供のころはこんな姿なんです──
「──── ⬛︎⬛︎⬛︎ちゃん?」
⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはいもむしになった。短い脚をうぞうぞさせてうごめく生物。それによく似た姿になっていた。腕と脚とを、引っこ抜かれたかぶった切られたかは知らないが、とられてしまったようだった。
そこら辺からあたしの頭は、ゆっくり、真っ白な靄に包まれていった。それから先の記憶があいまいなのだ。ただ、オーナーが「お前たちもこうなりたくなかったら」なんて言っていた気がする。気が、────、
────いつかあたしはその娼館を抜け出して、それからようやく知った。⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんの死にゆく様を。動画で撮られていた。それがどこからでも見られるインターネットにばら撒かれていた。再生数はそれなりにあるようだった。再生ボタンを押すたびに⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはものすごい声で泣き叫んだ。
みんなはそれを見て、「思ってたほどグロくない」「手足が斬られるだけでつまんない」「画質が悪い」「罰ゲームで見ました。覚悟してたけどそれほど怖くなかったです」なんてコメントをつけていた。真下に向ける親指マークのボタンを気軽に押していた。
⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはそのたび死んでいた。死なされた。あたしはちょっとだけ迷ってから、みんなと同じようにそのボタンを押した。だって正直、あんまり怖くない。
⬛︎⬛︎⬛︎ちゃんはそれっぽちの女の子だった。最初から最後まで。だからきっと、⬛︎くわれないんだなって思った。
.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます