012 運命的なもの



 ぱた、とガラスに弾ける音に気がついた時にはもう遅かった。物思いに耽っている間に天気はどんどん悪くなり、雨が降り始めたのだ。夜は楽しくなるから好きだけど、曇ってもイマイチよくわからないのはキライ。星のよく見えるようなところにいればすぐ気づけるのかもしれないけど、人工的な光に煙る街ではそうはいかない。

 降り始めのうちに帰れたらよかったけど、無駄に高いところにいたからそうもいかなかった。鈍足のエレベーターがもたもたと降下していくうちに、雨足はどんどん強まっていった。地上階に着いたころにはもう無視できない程度になっていて、がっくりと肩を落とす。

 こういう日に限ってフードのついた服を着てこないんだ、あたしは。諦めてそこそこ降ってる中を小走りで帰ってたけど、雨の勢いはどんどん強くなってく一方で、途中で耐えきれずに軒先のある建物に逃げ込む羽目になってしまった。

 ついてない。心の底からそう思うのって、ついてないことが連続で起きてる時だ。わざとらしく溜息をついても雨音に掻き消されてしまうから、諦めて何もしない。既にけっこう濡れてるから寒いし。厚底のロッキンホースは水溜りを踏んでも平気だけど、靴下が濡れちゃったら意味がない。

 これはにわか雨できっとすぐ上がるからって根拠もない憶測に縋るのが精一杯だった、上がるからなんだって言うんだろう、待ってる間に乾くわけでもないってのに。

 そのうち全部のことがバカらしくなっちゃって、力なくしゃがみ込んで俯くばかりになったころ。隣に誰か立つ気配があって、それでも顔を上げる気にはなれなくて、けれど声をかけられたからしぶしぶそちらを見て、息を吐いた。


「使いますか?」


 その人は真っ白いハンカチをあたしに差し出してくれた。さほど背の高くない女、栗色の髪、年はあたしよりいくらか上、大人になりたての頃合いか。濡れて下がったまつ毛越しでは顔がよく見えなかったけれど。


「……あんたも濡れてんじゃないスか、先に使ってからでいいっすよ」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えます」


 少しだけ笑う声を漏らしたあと、その人は自分の髪を頭のてっぺんから毛先にかけて拭い、あとはちょいちょいと顔と肩あたりにハンカチを当てて軽く布に水を吸わせ、もいちどあたしに差し出した。受け取って、同じ程度に拭き取り、返そうかと思って──一旦やめた。


「や、洗って返します。なんか悪いんで」

「別にいいのに。ふふ、じゃあまたお言葉に甘えちゃおうかな」


 瞬きをして視界を取り戻すと、やっぱり少し笑っている人の顔がこちらを見下ろしていた。髪色よりもう少し暗い、焦げ茶色の瞳。温和そうな顔立ちの女の人だった、服装もフェミニンな感じで品がある。乾いていたらきっと綺麗に巻かれていたのだろう前髪が額にしっとり張り付くのを手で払って、目を細めていた。


「降られちゃいましたね、あなたも、わたしも。ひとりで夜遅く出歩いてたから怒られちゃったのかしら?」

「そうかも」

「それにしたってここまで怒ることないじゃないって感じだけどね。止みそうにないわ」

「そですね」


 生返事を繰り返すあたしを見てもその人は特に気を悪くしなかったらしい。むしろ何か感づいちゃった、みたいな感じで悪戯っぽく笑みを深める。


「何か、イヤなことでもあった? 雨に降られたのとは別に」

「……そうですね」

「それはお気の毒さま、トドメにずぶ濡れにされちゃってまあ、かわいそうでしたね」

「ええ、まあ……」


 そう言われてムッとしたけど、それ以上は流石に向こうも弄ろうとはしてこなかったから何も言わないでおいたげた。そのまま降りる沈黙を、雨音が誤魔化し続けていてくれることだけが救いだった。

 しゃがみっぱなしで視線を地面に放り投げるあたしの、つむじあたりに視線が刺さる。品定めするみたいに見つめられているのが気配だけでわかった、こういう目で見られるの、慣れてるし。

 ややあって彼女は口を開いた。拗ねた妹を宥める姉のような口ぶり。


「かわいい靴ね。珍しい形してるけど」

「……今時の流行り物じゃないですから」

「そうなの。じゃあ、どうして履いてるの?」

「一目見て、かわいいなって思ったから」


 靴を褒められるのは悪い気がしなかった。実際これはいつだか一目惚れした靴で、初めてこなした「お仕事」の報酬で買ったお気に入りの一品だ。

 真っ赤なロッキンホース・バレリーナ。流行したのは一昔前で、今はもうほとんど作られてなくて、しかもだいたいロリィタとかパンクファッションに合わせるような代物だけど、好きだからって理由だけでずっと履き続けてる。

 相手もそこら辺はあまり詳しくなかったらしい。ふーんと呟いて、でも悪いようには思わなかったらしく、こう続けた。


「そういうのでものを選ぶのっていいわよね。なんて言うのかしら、一目見て思う、インスピレーション? それを大事にするのって、きっといいことよ」

「そですかね」

「ええ。運命的なものを感じる、とも言うのかしら。──今のわたしが、あなたを見てそう思ったように」


 ん? なんだその言い回し。やたらロマンチックというか、スピリチュアル的なことを言われた気がして面食らい、思わずそちらを見た。彼女はハンドバッグから手帳とペンを取り出して、さらさら何かを書いてからぴいと破り、ハンカチと同じようにあたしに差し出した。


「そういうことだから。ハンカチ、洗い終わったらここに連絡ちょうだいな、受け取るついでにお話でもしてみたいわ。あなたのこと、少し気になるから」


 ……。なんて返せばいいのかわからないまま固まっていたら、彼女は軒先の外へ悠々と歩いて行った。それで、いつの間にか雨足がだいぶ弱まっていたことに気づく。

 それでもあたしはしばらくの間そこから動けなかった。なんか、よくわかんないことが連続して起きたから、混乱しきってフリーズしちゃったんだろう。

 渡されたハンカチと連絡先の書かれた紙をそれぞれ両手に持ちながら、洗って返しますとか余計なこと言っちゃった数分前の自分を呪うことしかできなくて、結局帰り着いたのはだいぶ後のことになった。


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