013 何かが足りてない



 なんかもうめんどくさくなって、借りもののハンカチなのにバイト先のシーツとか枕カバーと一緒に洗っちゃった。でもまあ洗ったことには変わりないんだし別にいいでしょって感じ。もっとちゃんと心から恩を感じた人に返すものなら、もっときちんと洗濯してアイロンまでかけてあげるのかもしれないけど。

 スマホを見る。ここで会いましょうってメッセージと共に、星みっつ評価の喫茶店のレビューページと位置情報。この人に返すんならなあって思うから、この程度でいいんだ、多分。

 何もかもついてなかった日、ハンカチを貸してくれた女の人はジェーンと名乗った。二十代のありふれたOLであるらしい。借りたものを返さなきゃいけないから交換しただけの連絡先にて、彼女は実によく喋った。喋ったっていうかめっちゃ質問してきた、ゴシップインタビュアーも引くくらいの勢いで。名前はなあに年はいくつどこに住んでるの学生それとも働いてるの、根掘り葉掘りしようとする割にあたしが回答を濁した時には潔く引いてくれた。だから何って感じなんだけど。それを知って何がしたいのって逆に訊いてみたらはぐらかされたからだいぶウザかった。

 まあ、でも、これ返したらブロックしちゃおうって感じだし、もう。ため息混じりにトークルームを閉じたら、ひとつふたつ下の方にあるアイコンがふと目に入る。入念な加工の成された自撮りの横には、最近とんと通知が点らなくなった。

 ミレーユさん。悩みのタネ。意味不明なこと言ってからほとんど喋ってくれなくなった人。繋がってるSNSではほどほどに呟いてんだから死んではいないんだろうけど、サシで話しかけてくることはなくなった。こっちから話しかける動機もないからほっといてるんだけど、最後の会話がどうにも歯切れ悪かったから、モヤモヤする。

 なんだか、あたしの周りにいる人みんなこんな感じじゃない? 鬱になる。意味不明かつ意味深なことを言ってくるくせに、それどういう意味って訊いても教えてくれなくて、腹立つ。ミレーユさんもオムレツも、ジェーンさんもそうかもしれない。

 もしかしたら世界には、あたし一人だけが知らなくて他のみんなは当たり前に知ってるみたいな、そういう常識があるのかもしれない。それでみんな、知らないあたしをバカにするくせに何も教えてくれないんだからひどくてずるい。単なる被害妄想だとはわかっていても、どうしたって傷ついちゃう。


「どうかしら。みんなは、あなたがそれを知ったらもっと傷ついちゃうと思って隠してるだけかもしれないわ」


 数日後、喫茶店にて。昼下がりの斜めった日差しをガラス越しに浴びながら、あたしとジェーンさんは向かい合って座っていた。ハンカチ返してはい終わり、だけじゃ寂しいからお茶でもしましょうって誘ってきたのは当然ジェーンさんで、なんでも奢ってくれると言うから乗ったけど。

 正直飲み物一杯とケーキひとつで今までのことチャラにしてあげようってくらいの気持ちでしかなかったんだけど、なんとなく喋ってるうちにここまで吐き出しちゃったから自分でもビビってる。思ってた以上に他人に解決してもらいたい気持ちが強かったのかもしれない。そもそもこーいう話を聞いてくれる人、周りにいないし……。


「隠されてる方が傷つくと思うんだけど」

「そうかしらねえ。世の中、知らなくてもいいことってたくさんあるわよ」

「でもみんなは知ってるんでしょ? あたしだけ仲間はずれみたいになって、ずるい……」


 運ばれてきたカフェオレにもオペラにも手をつけず、唇を尖らせるあたしを見てジェーンさんは笑っていた。エスプレッソの小さなカップに静かに口付け、瞼を下ろすと白い頬に影が落ちている。


「他人のこと、ずるいとか羨ましいって思うときは、たいてい自分に何かが足りてないと思ってる時よ」

「足りない……」

「夕月ちゃんは、何を欲しがってるのかしら」

「……わかんない。いつも、足りてなくても平気だと思ってたから」


 ゆっくりとした瞬きでそれが上下するのを見守りながら考える。あたしに欠けているものがあるとしたらきっと記憶くらいしかなくて、それがなくても今まで平気でいられたのに。

 でも、ミレーユさんやオムレツがそれを手にして、わかっていながら隠しているのだとしたら。彼らがあたし自身よりあたしのことをよく知っているのだとしたら。それってなんだかフェアじゃない気がする。たとえあたしのことを思ってそうしてくれているのだとしても。


「足りてないのが当たり前だと思ってたのね。けどそうじゃないと気づいて、動揺してるのかも」

「じゃあ、どうすればいい?」

「さあ。わたし、夕月ちゃんじゃないもの。でもねえ、わたしだったら、今までのこと考え直してみるかしらね」

「今までのこと?」

「そう。今まで自分が平気でいられたのはどうしてだろうって。なぜ今になってずるいと考えるようになっちゃったんだろう、って」

「……」


 手慰みにフォークを持ってみても落ち着かなくて、行儀悪くもペン回しみたいに動かしてみる。ジェーンさんはそれを特に咎めたりはしなかった。相当苦いはずのエスプレッソを砂糖なしで舐めるように飲み続けている。


「……あんまりにも、あからさまに、あたしの手が届かないように……」

「慎重に隠されるから逆に気になっちゃう?」

「そうかも」

「愛されてるのね、あなた」

「どうしてそう思うの?」

「さっきも言ったけど、あなたのことを思ってるから慎重になってるのかもしれないわ。それって愛よ。……でもあなたはそれが余計なお世話だって思うのよね。だったらストレートにそう言ったら? そんなに丁重に扱わないでちょうだい、って」

「そんなんでいいのかなあ」

「いいのよ、それくらいで。そういう風に生きてきたんでしょ?」


 少しぎくっとしてしまった。さっき返したハンカチが、適当に処理したものであることがバレたような気がして。だから何も言い返せなかった、あらゆることをこれでいいんだって妥協して生きてきたのは間違いなかった。

 ……フォークを止める。オペラの、黒くつやつやした表面に切先を突き立てて、静かに沈めていった。きれいに均されて金箔の装飾すら施された完璧な造形を、崩してゆく。いま提案されているのは、それに似たようなことだと思った。ミレーユさんやオムレツがあたしのために隠してくれた秘密を、あたし自身の手で暴く。


「……少し、怖いな」


 そう溢すと、ジェーンさんはまた微笑んだ。ケーキをきれいに食べきれなくても、この人はこうして怒らないでいてくれる。それってなんだか、安心する、と言えるような気がして、……。

 だからかどうかわからないけど。あたしはその後、ジェーンさんと別れた帰り道、彼女の連絡先をブロックすることはなかった。代わりに──数日前から会話の途絶えたトークルームを開いて、切り出す、3文字。その程度でいいんだ。そういう風に生きてきたんだから、なんてことない。


『元気?』


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