第3話 死狼の森からの脱出
ハッ、ハッ、ハッ。
夜のとばりの中、カイサは降りた霧と目の前を覆う暗黒を掻き分け、鬱蒼とした森を闇雲に走る。
先ほどまで見守るように照らしていた月明かりも、今となってはうねりたける樹の海に飲み込まれ頼りにする明かりはどこにもない。
漆黒の海へ沈んでいく。
しかしカイサはこれよりもっともっと濃い〝黒〟を知っていた。それは本当の深淵だった。
カイサが餌になってからの二年間。それを思えば今、彼女の周りに蔓延る闇は光にさえ見えた。いや事実眩しいほどの光だった。
なぜなら、今の彼女の目の前には自分達死狼餌の肉をそぎ落とすための幾つもの回転する刃をつけたスライサーや削ぎ落した肉をすり潰す粉砕機もなかった。
そして〝特殊麻酔薬〟の副作用で幻覚を見たり、投与された肥満薬で歩けないほどの肉隗になってしまった仲間達もいなかった。
カイサは年を取らなかった。
死狼餌は年を取らない。永遠に若いままだ。その上損傷した体もある程度なら再生することが出来た。
つまり半分不死身。そして死狼餌は女しかいない。
そのため死狼餌は若い女の肉が好物の死狼の餌として最適だった。
恐ろしいことに餌の使いまわし、つまり餌の再利用が出来るのだ。
カイサの日常は死狼のために延々、体中の肉を削ぎ落されることだった。
削ぎ落しては再生、削ぎ落しては再生、それをただひたすら繰り返した。
死狼餌として高値で売られた女の子供は十五歳になるまで育てられる。
そして十五歳になると左腕に再生の力でも消えない烙印を押され、ある特殊な死狼の魂が与えられた。
そうやって人身売買された女の子供は死狼餌になるのだ。
カイサは十五歳で死狼餌になりそれから二年が経過していたが、しかしそれ以前も彼女は人らしい生活を送って来たとは言えなかった。
カイサは生まれて間もない赤子のときに親から捨てられた。親の顔さえ知らなかった。
カイサは生まれたときから特別な施設に入れられ死狼餌として食べられるために育てられた。
そして養豚所の豚が食べるような食べ物。それも肥満薬の入った食べ物を毎日食べ続けるだけだった。この世の地獄だ。
カイサは目の前に広がる漆黒の光を見つめた。
この先に何があるかは分からない。でも死ぬよりも苦しい死狼餌よりはましなはず。
生きたかった。
人並な人生を歩みたかった。何のために生きるのかなんて知らない。それでもただ生きたかった。その先に何があってもいい。生きたかった。
アウオォー。
近くで遠吠えが聞こえた。カイサは立ち止まるとしゃがんで耳をそばだてた。
息を殺す。何も聞こえない。風で林が揺れる音さえしない。カイサはほっと安堵の息を吐くとその場に腰を下ろした。
さっきの馬車の場所からは十分離れただろう。少し休む必要がある。まだまだ森を抜けられそうにない。
カイサはクシに貰ったナイフを取り出した。
そのナイフは男達の汚い血で汚れていた。カイサはそこに唾を吐きつけ自分の服で丁寧に磨き上げる。
そのナイフは大切に使われてきたようだ。
手入れが隅々まで行き届いているのが真夜中の森の中でもすぐに分かった。
ナイフは先鋭な光を放っている。カイサはこれで男を二人刺したが切れ味も申し分なかった。本当に吸い込まれるようにそこに入っていった。
カイサはくるぶしまで届くほど長いスカートの裾をナイフで少し切り取ると刃の部分をその布でぐるぐる巻きにしてから腰に収めた。
――クシ。
カイサは彼女の名前を心の中で呟いた。
カイサは後悔していた。クシを助けられなかったことをではない。ただ自分はクシにもう少し優しく出来たはず。
クシは最後まで自分のことを気遣ってくれたし、恐らく彼女は死狼餌になったばかりだった。
そんな余裕はなかったはず。それでもクシは自分のことを心配してくれたのだ。
クシとは次の死狼餌食肉加工工場へと輸送されている最中の一日半ほどしか一緒にいなかった。その上その間、彼女とはほとんど会話をしていない。
それでもクシは本当にいい子だということが、先の出来事で十分に分かった。
自分がクシに対して初めて笑顔を見せたあのとき彼女はそれをどう思ったのだろうか。
彼女は幸せを感じただろうか。彼女は死の瞬間少しでも救われただろうか。
それともそれは単なる思い上がりだろうか。自分は彼女に対して他に何かをしてあげられただろうか。
狂死と呼ばれる死狼がクシを潰した。いやもういい。私は助かった。私は生きている。それだけだ。
※
カイサが引きつれたように体を震わせて起き上がった。
眠ってしまったようだ。周囲を見回すが辺りはまだ暗かった。恐らく二、三時間ほどしか寝ていない。
それより物音だろうか、起きる前に何かが聞えた気がする。
カイサは冷えたきった大地に手を置き起き上がった。
彼女の吐く息がまるで幽体のように白く濁る。大分冷えてきたようだ。
カイサはスカートの汚れを払いふと吸い寄せられるように足元を見る。
カイサの靴が赤い。血だ。靴に足の血が滲んでいた。一晩走り通しで血が出てしまったと思われた。
カイサは寸刻の間靴を見つめ、まさかと振り返った。
さっきまで自分が通って来た道を目を凝らして見ると暗がりの向こう、カイサが踏み締めた地面に赤い足跡のようなものが薄っすらと見えた。カイサの血の跡だ。
カイサは弾け飛んだバネのように走り出した。その瞬間、目の前の漆黒から音もなく一匹の獣が飛び出す。死狼だ。
カイサはクソっと悪態をついてくるっと急転換した。死狼の開いた口がカイサの頭のすぐ横を通り過ぎる。
小さい。
カイサは思った。野犬ほどの大きさ。さっき会った熊よりも大きい狂死という死狼とは全然、種類そのものが違う。
カイサは立ち止まり転身するとナイフを構える。
私にはナイフがある。恐らく倒せる。護身術なんて知らないけど刺し違えてでも倒せれば。
そいつは狂死達とは違った。いや狂死達が違った。その死狼は人間界でよく見かける死狼と同じだった。
牙と鉤爪は狂死達のように大きくはなくいたって普通の、例えばライオンや虎のような獣のそれと同じ大きさだ。
オオカミのような見た目に灰色の体毛。白いたてがみ、首回りの密集した毛もこれまた白い。
目は狂死と同じように血のごとく赤く、喉元にマリモを半分に切ったような白い毛の塊がある。
カイサは知っていた。この白い毛の塊を突けば死狼は行動不能になる。ここは魂を消化する器官。急所の〝魂胞〟がある。
「かかってきやがれ、この化け物が!」
カイサが男のように低くドスの利いた声で言う。死狼はこちらを睨みただ唸っていた。
こいつはしゃべれない。狂死のように沢山の人の魂を喰らっていない。ザコだ。
先手必勝。
カイサが先に飛び掛かろうとして――がしかし止めた。死狼の奥の林が大きく動いている。それも無数に。獣の荒い息遣い。奥で赤い目が光るのがいくつも見えた。
背筋に突き抜けるような戦慄が走った。
カイサは迷わずその場を逃げ去る。草や林を突っ切り木々を避け、わき目も振らずに走る。
前方、真横、後方、彼女の周囲十数メートル、四方八方からガサガサと雑木林を掻き分け、物凄い数の死狼が集まってくるのが分かる。
ハッ、ハッ、ハッ。
嫌だ。
粉砕機が骨を砕く音がする。ゴクン、ゴックン、ゴクン、ゴックン。
嫌だ。
『早く餌の肉を削ぎ落せ。明日の出荷に間に合わせろ!』
嫌だ。
家畜の死狼達がこちらを見てまるで人間のようにニンマリと笑いかける。
嫌だ。
『お前は今年で十五歳だ。お前には死狼の魂が与えられる』
嫌だ。
『お前は今日から死狼餌だ。永遠に』
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
カイサは立ち止まり、ナイフを抜いた。
「私は、絶対に、〝死なない〟」
バチッバチィバチィイイッ。
―――――――閃光。
地を揺らす爆音とともに周囲が弾け飛んだように光った。カイサが吹っ飛ばされると同時に雷鳴が轟く。
カイサがやったのではない。それは人間の所業ではなかった。
カイサは数メートル後方の樹木に背中を打ち付け地面に放り出された。
光は一瞬で消え辺り一面焦げ臭い匂いが充満する。焼け焦げた肉の匂い。
カイサは立ち込める煙と匂いにむせながらよろよろと起き上がった。
頭を強く打ったようだ。視界がぼやけるが、それでも首を振り辺りを見回す。
見るとさっきいた場所を中心にその周りの広範囲の草木がまるで線香を焚いているようにプスプスといぶっている。
カイサは一命を取り留めたことでひとまず一呼吸置くも決して楽観視はしていない。
どうなった?死狼達は?誰がやった?自分は助かったのか?それともこれから襲われるのか?
こうした疑問符がふつふつと湧いて頭の中で溢れかえるのは当然のことだった。
カイサが歩き出す。数歩進む度に黒焦げになって横たわっている死狼の死骸に躓いた。その死狼の死骸の量に肝が縮み上がるほどの恐怖を覚える。
昔に食肉加工工場に隣接した餌場で見た光景を思い出したのだ。家畜死狼が加工された人肉に群がり豚のようにがっつく光景。
彼女の胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。
手で押さえたが間に合わない。固形を含まない液体が口と鼻から溢れ出した。
その場にうずくまり吐瀉する。
「うわー。きったなーい」
声がする。幼い女の子の声だ。
カイサは恥じらうように口を拭うと顔を上げた。
「ああ。驚かすつもりはなかったの。ごめんね」
カイサは更に首を振り声の主を探す。
「ここよ。ここ」
上からの声にカイサは振り仰いだ。カイサの目の前にある大木。その上方。広葉樹の葉が生い茂る太い枝の上に死狼がいた。
「はぁーい」
可愛らしい小柄な死狼が元気いっぱいの甲高い声でにっこりと笑う。
姿かたちは普通の死狼だった。ただこの死狼は子供だ。弾むように朗らかでよく通る声からも分かる。
華奢な体つきに上品なほど控えめな鉤爪。喉元にある魂胞も小さい。
しかし一つだけカイサの目を引くものがあった。黒い雷の模様だ。
その死狼の全身に細い雷のような模様がいくつも散りばめられている。
まるで白虎のような色模様。狂死も普通と違ったがこんな変わった死狼を見たのは本当にこれが初めてだった。
カイサが雷の模様に見とれていると死狼が口を開いた。
「ああ、これ?綺麗でしょ?私おしゃれなの」
死狼は上機嫌に声を弾ませ、全身をプルプルと震わせる。その体毛が旺盛に踊り揺れた。
「それにね。私、美食家だから、だからね、精霊の魂しか食べないの」
だって人間ってまずいじゃんと笑う。
「私は雷死。多分人間でいうところの十二歳くらい。ちなみに人間でいう美少女よ」
雷死という死狼が下手なウィンクをして見せた。
「あなたカイサだよね。死狼餌なんでしょ?」
カイサはその言葉に動揺を隠せなかった。この不思議な死狼は自分が死狼餌なことだけじゃなく名前まで知っている。
遠慮ないむき出しの警戒心を雷死に向けカイサは質問に質問で返した。
「あなたは私を助けた。そう?それとも殺す?」
「もちろん助けたわ。私、残虐なのは好きじゃないの」
カイサは数えきれないほどの死狼達の死骸を一匹一匹数えるように目で追う。
「これ、あなたがやったの?」
その死狼達は完全に焼き殺されていた。肉は黒焦げになり水分は蒸発していた。尋常ではない高温にさらされたようだった。
「私は雷を扱えるの。雷の精霊の魂を沢山食べた。雷の精霊ってね、凄くおいしいの、高刺激なの、ピリピリするのよ」
死狼は人間だけでなく心を持つ者ならば、その者の魂から生命力を取り込み、自分の力にすることが出来ると聞いたことがある。
精霊というものが本当にいて、果たしてその魂を実際に食べられるのかという話はあえて置いといて、おぼろげだがカイサは納得できた。
「ねぇね。死狼餌って年取らないんでしょ?みんな十五歳になってから死狼餌になるって聞いたんだけど、ずっと十五歳のままなの?」
図星だ。カイサは答えなかった。
「その左腕の烙印って消えないんだって?つけられた時痛かった?」
「なぜ私が死狼餌だって知っているの?」
「だって私、今晩のあなたの行動をずっと、ずーーっと見てたもの!」
カイサにはその話があっさり腑に落ちた。それはつまり雷死が狂死と自分のやりとりを見ていたということ。
そして狂死は自分のことをはっきりと死狼餌だと言っていた。
雷死はそれを聞いたのだ。どうやら雷死の言っていることは本当らしい。
しかしならばなぜ狂死から自分達を助けてくれなかったのか。さっきみたいに雷を使えばそれなりに戦えたかもしれない。そうしたらクシももしかしたら――。
そんなカイサを見て雷死は大きな目をぱちくりとさせた。
「ああ、クシって女の子?」
雷死はつまらなそうにため息を吐く。
「でも狂死、私達の仲間だから、戦ったら、私おじいちゃんに怒られてこの森から追い出されちゃう」
そして狂死ってメンドクサイしと付け加える。
仲間という言葉にカイサの心が揺らいだ。こいつ人殺しの化け物の仲間なのか?逃げた方がいいのだろうか。
「まあ、そういうこと。ところであなた人間界に帰りたい?」
「それは、まあ」
この雷死という死狼、信用していいのだろうか?
「この私が立っている木をまっすぐ行くと人間の町があるわ」
本当に信じて大丈夫だろうか?
「多分朝になる頃には森を抜けられる。そうしたら後は見えてきた町に向かって一直線よ」
カイサは雷死の顔をじっと見つめた。雷死は薄く笑っている。その笑みはどこか不気味さを含んでいた。
「送ってあげようか?」
「いや、いいありがとう」
カイサはそう言うと雷死に言われた通りの道を歩みだした。神経を逆撫でするように電気が走る音がした。
カイサが硬直して立ち止まり上を見上げる。正直驚いた。雷死に怯えていないと言えば嘘だ。
「ごめん、ごめん。雷道をするときはこういう音がなるの。わざとじゃないから」
また電気が走る音がする。
「それじゃあね」
雷死はそう言うと閃光と共に夜の闇に消えた。
カイサは雷死が消えたのを確認してから歩みを止め、そのままじっと何かを待つように立ち止まる。
それから十秒程が経ち、カイサはようやく気を緩めた。雷死は本当に行ってしまったようだ。
雷死は一晩中自分のことをつけていた。油断ならない。信用できない。
カイサは雷死が言っていた方とは逆の方角に歩みだした。
一時間程歩くとぽつぽつと無数の光が見えてきた。恐らく人間の町だ。カイサは胸を撫で下ろした。
ようやく、ようやく私は本当の光を見つけた。
眩しいほどの光。長い闇だった。本当に暗く先の見えない闇だった。私はやったのだ。遂にやり遂げた。
カイサは捲り上げた袖を下ろすと死狼餌の紋章を隠した。カイサは光に向かって走り出した。
そんな彼女を祝福するように柔らかい朝日が森に差し込んだ。
長い、長い長い夜が明けようとしていた。
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