―Ⅳ― 狼煙

第14話 トキ

もう、顔さえ忘れてしまった。


彼女の声も、肌に触れた感触も、どんな髪色だったかも、彼女を形作る、その全てを、俺は忘れた。


唯一、覚えているのは彼女の名前と、遠い昔に交わした約束だけ。

忘却の文明で交わした二人の約束。永遠という時間を掛けてでも、果たさなければならない約束。



『俺は生きなくてはいけない』





「カイサ、不死を信用しろ。心を許し合った者同士でないと魂交は成立せん」

侶死はそっぽを向く二人に手を焼き、老体に鞭打って互いの仲裁をする。

「だって、こいつ、さっきから私に……」


ほら、また。


「だから魂交は好きではない。肉を食べたほうがよっぽど効率がいい」

「カイサ、不死の何が気に入らん?不死は魂交をせんと永死とは戦えんのじゃぞ?」


不死とカイサは要塞から小半時ほど移動した場所――マーガレットの白い花が斑雪のように咲き誇る平野で腰を下ろし、指一本、まるで指切りでもするように辛うじて触れ、それだけの状態で魂交を試みようとしていた。


「だって不死、さっきから私の体で遊んで、痛っ、ほらまた」


不死は触れたカイサの小指に爪を立て、切れては塞がって、切れては塞がって、繰り返すその様を面白そうに見ていた。


「どうせ不死身、減る物でもない」

不死はカイサの血を舐り、ワザとらしく苦虫を噛み潰したような顔をする。

「お前、痛みは感じないのじゃろう?」


そうだけど……でも不死の場合は……痛っ。


「そんな調子ではいつまで経っても魂交が出来ない。やはり俺は不死身の雌死狼を探しに行く」


不死がせっせと立ち上がった。


「は⁉ちょっと待ってよ?魂交をする気がないのはあなたの方でしょ?」

「触れるのは指一本だけがいいと言ったのはお前のはずだが⁇」


そうだけど……不死には触れたくない。不死にだけ『色』を感じるなんてことが万が一こいつにバレでもしたら……それこそ私は〝終わる〟。


「ワ、ワシは周辺の様子を見てくる」


侶死は流石にしびれを切らしたようで、犬猿の仲の二人を置いて「あー辛抱ならん」と独り言つ。二人はまたそっぽを向く。


小鳥がさえずり、淡く吹く風が花畑をさざ波のように煽ると、白い小花の群が蝶のように踊る。

ひとときの休息だった。長い間ずっと忘れていた感覚。それは不死もカイサもお互いに。


小指を伝わって感じるその『色』は意識の外に追いやろうとすればするほどにその存在を感じられる。


――地獄だ。


不死は〝温かい〟とは対極、カイサにとっては不快な存在でしかない。ちょうどそうこの――


「痛っっ」


カイサは思わずきっと睨んで、それからぎょっとした。不死はカイサの顔を、目を、唇を、穴が開くほど見ている。


「な⁉なんだよ?気持ち悪い」

「いや……まさかな」


そう言って不死は汚い物から目を背けるように視線を移す、がやはり流し目でこちらを見ている。


――ヒャー、めちゃキモイ。


そう死狼餌の時、看守達から散々向けられた、べっとりへばりつく、粘ついた視線。

しかしこのままではいけないと。固着状態の今、自分から不死に歩み寄らないと、いつまで経っても自分はクシを助けられない。


カイサは必死に話題を探し、そして今まで自分がろくに他人と世間話などしたことがないことに気づく。それでも、考えに考え抜き、そして――


「そういえばあなた、なんであんな所に閉じ込められてたの?」

と、かなり今更なことを聞いた。

「俺は五十年前に永死の生贄として狂死に捕まった。死狼餌のお前と同じようなものだ」

不死は存外真面目に答えた。


しかしその答えはやや不服に感じた。生贄になったのは分かるがそれは五十年も閉じ込められたことの説明にはなっていなかった。

カイサは「そうなんだ」と顔を曇らせて言う。不死はそれを見て肩を落とし「いいだろう」と嘆息した。


「狂死はどうやら俺の『生きたいという強い意思』を折りたかったようだ」

「生きたいという強い意思?」

話が繋がった。会話とは簡単なものだと内心目を細く笑う。


「不死身の雌死狼だ」


不死身の雌死狼。さっき襲われそうになった時もそんなことを言っていた。どうやら不死身の雌死狼とやらは不死をあの牢獄で支え続けた大切な存在のようだ。


「なぜそこまで不死身の雌死狼にこだわるの?」

「俺は昔人間だった」

「え?」


意外を通り越して、普通の人間なら卒倒するところだ。

死狼が、しかも〝こいつ〟がよりによって元人間など有り得るのだろうか。不死の話の続きを固唾をのんで聞く。


「お前達の文明が始まるよりずっと前のことだ。まあ、俺自身もその時のことはほとんど覚えていないが、俺はトキという女性とある約束をした」


そこで唐突もなく不死は忘我の境に入った。


「トキはその時代のいわゆる王族の血筋だった。そしてその王族達は自分達が生きた証、つまり魂をこの世で不滅の物にしようとした」


「どうやって?」


「自分達の魂を不死身の死狼の中に閉じ込め、その形を永遠に保とうとした。トキの魂は不死身の死狼の中に魂砕され、王族の魂としてその死狼の中で永遠に生き続ける、はずだった」


意味深な語尾にカイサは首を傾げる。


「しかしトキの魂は完全ではなかった。なぜならその時、トキの魂にはある物が欠けていたからだ」


「ある物?」


「トキは俺を愛していた。また俺も彼女を愛していた。しかし俺達は身分の差があり口を利くことすら許されない関係だった。王族の一人として不死身の死狼の中に永遠に眠ることが決まっていたトキはいつも孤独だった」


不死の声に哀愁の淡い熱が混じる。


「そして遂にトキは自分の『愛』を感じる心を全て俺の中に移してしまった。トキは俺以外の人間に『愛』を感じることが出来ず、結果的に『愛』という感情を失った。そのためトキの魂は不完全だった」


憎々しげに牙を見せる。


「王族達はそれでも諦めずに俺を不死身の雄死狼に、トキを不死身の雌死狼に魂砕させ、それで一つとしてトキの『愛』を補完することに成功した」


度々聞く魂砕という言葉にカイサは怪訝な顔を見せる。


今日、色んな死狼が口にしていた言葉。やはり人間界では聞きなれない言葉だが殺すこと、というのはその響きからなんとなく分かった。

不死は補足するように言う。


「魂砕とはすなわち魂を砕くこと。魂砕された人間は魂を砕かれその死狼の中に完全に吸収されてしまう。そして魂は行き場を失いその死狼の中を彷徨う」


「じゃあ、今の不死って……」

カイサには話の続きが容易に想像出来た。


「俺の魂は何年もその死狼の中を彷徨った。そして遂に俺は魂砕の呪縛から逃れ不死身の雄死狼の体を奪った。以来、俺はその不死身の雌死狼を探している」


「トキさんの『愛』を復元するため?」

「いや」

似合わぬしおらしい顔を覗かせる。

「俺は魂砕される最後の瞬間にトキに言った。『生まれ変わってでも、永遠という時間を掛けてでも、必ずお前を見つけ出す』と。その約束のために俺は永遠を生きている」


カイサは言葉を失った。片手間ついでで聞いた話だったが思った以上に聞き入ってしまった。


そして彼が言い放った言葉は不死という〝人間〟を確かに体現していた。

不死のその発言はいままでの死狼の彼からは想像も出来ないほどにどこまでもまっすぐで畏怖を感じるほどに真摯だった。


不死が生きるために自分に襲い掛かったり、約束を破ってでも不死身の雌死狼を探しに行こうとする彼の身勝手さと横暴さの裏にはそれなりの理由があったのだ。


「この首飾りはトキが俺にくれた物だ。自分の墓から掘り起こした。トキはこの首飾りには愛する者を引き合わせる不思議な力があると言っていたが――この現状を見る限りどうやらそれは嘘だったらしいな」


だからといって不死が自分にやったこと自体は許せないが、自分も不死を怒らせることをした。身勝手に振る舞い彼にたいして横暴なことをしていた。


「その首飾り、それ、そんな大事な物だなんて知らなかった……」

やや憔悴しきったように言い、そして、

「ごめん」

蚊の鳴くような声で小さく付け加える。


不死は意表を突かれたように首をもたげた。まるで初対面の相手でも観察するようにまじまじとカイサを見る。


「私、死狼のこと勘違いしてた。みんな人食いの化け物だと思ってた。でも侶死、獅死、雷死、そしてあなたのような死狼もいるんだって」

「俺は人間だ」

不死はそう口籠るとややつまらなそうにそっぽを向きトキの首飾りを差し出した。

「この首飾りはお前にやる」

「え?」


「俺はこれを身に着けることが出来ない。これは人間用だ。あの牢獄から出た今、俺がこれを持ち歩けばいずれ失くしてしまうだろう」

「いやでも、こんな大事なもの受け取れないよ」

言葉通りの意味だ。嬉しいけど、自分なんかが貰っていいものではない。


「いいんだ。丁度どうすべきか迷っていたところだ。失くしてしまう前に貰ってくれ」

カイサは困ったように眉を下げ、それから素直にはにかみ笑った。

「分かった、絶対大事にする」

「いいだろう。だが片時も手放すな」

「トキさん、見つかるといいね」

「ああ」


その時、絡んだ小指で光覆が光った。その事実を不死はおろかカイサも認めたくはなかった。


有り得ない。こんな奴。二人はそう目を合わせるが、しかしその僅か一瞬で不死は意識を失い完全に光覆となってカイサの中に入っていった。


「不死?」


声を掛ける。不死は声に応じない。不死の耳をツネって起きないことを確認すると――。

カイサは首飾りを見つめた。ギュッと握りしめ――。

小指を離さないよう慎重に移動して――。

不死に体を寄せ付けた。


『やっぱりだ。不思議だけど、不死は〝温かい〟』






〝ここから出して〟






「死狼の魂胞と人体の結合確認。拒否反応なし。生命維持活動正常。自魂交による肉体再生サイクルに入った。これより〝不死狼魂〟の魂砕圧縮、及びその移植術を開始する」


「レシピエント(移植対象者)、カイサ、女、15歳」


「ドナー(〝魂〟の提供者)、死狼109、雌、約……」


生唾を飲み込む音。


「年齢、約……二万歳」


「こ、こんなに永く生きた死狼の不死狼魂は初めて見ます」


「俺もだ」


「毎回この術式には変な汗が出る」


「不死身の死狼の数は限られていますから」


「この不死身の雌死狼の魂。数えきれないほど沢山の少女達の中に魂砕されたのか生命力がもうほとんど残ってないな」


「死狼餌。不死狼魂の欠片と自身の魂胞で自己完結型の魂交をして肉体再生をする化け物。それを作り出すには不死狼魂がどうしても必要だ。何百という魂胞を損耗する魂砕圧縮もな」


「魂砕圧縮と言えば五十年前に起きた技術革新で人の手によって初めて再現されたと聞いたが」


「そうそう。きっかけは意志の力の抽出らしいけどね。〝昇華〟される前の魂の原形とも呼べる物質を遠心分離機にかけたらその物質が物凄い密度と質量を持ったんだって」


「この知見からお偉い学者は魂胞という器官が魂を消化した後に、意志の力を特殊な方法で圧縮して魂へ〝昇華〟しているという仮説を立てた。そこから生まれたのが魂砕圧縮でしょ?」


「死狼の魂砕も人間の魂砕圧縮も両方とも同じ原理。魂を砕いて、意志の力を圧縮、吸収時にそっくりそのまま元の魂を再構築して自分の魂に〝昇華〟する。これが魂砕圧縮の全て。ただこれは普通の死狼がやるには魂胞がその負荷に耐えられないし、こちらで再現する場合も最悪千個近く死狼の魂胞を消費する」


「まあでもよく考えたものだよな。一つの不死狼魂で無数の死狼餌達を作り、そいつらを沢山の死狼に食べさせ、その死狼達の魂胞から生命力を抽出。それを繰り返して最終的に一匹の死狼へと生命力を集めてまた不死身の死狼を生み出す……か」


「技術革新で死狼の魂胞から実現した人の生命力の抽出と魂砕圧縮術の再現。それが結果的にこの死狼餌という不死身の人間を創り出した」


「ところでこの死狼109の不死狼魂にはどれくらい死狼餌を作る生命力が残っている?」


「このカイサという少女で最後だそうだ」

「心はあったのですか?」

「当たり前だろう」

「死狼に同情か?」


一同、笑う。


「俺は少し同情している」


一同、またしても笑う。


「この死狼はどうしても会わなければいけない〝人〟がいると言っていた。その者のために自分は永遠を生きたと」


一同、今度は腹を抱えて大笑いする。


「馬鹿なこと言ってないで術式を始めるぞ。麻酔が切れる」






〝ここから出して〟






不死が吠えた。


「どういうことだ⁉お前の中でトキの魂に触れたぞ」


魂交が終わり二人の間に何やらただならぬ険悪な雰囲気が漂う。


「お前がやったのか⁉不死身の雌死狼を、トキを魂砕したのか?」

「何の話だよ⁉」


意味が分からない。トキなんて女性も不死身の雌死狼もさっき不死の話で聞いたばっかりだし、無論魂砕なんてものも出来ない。


「トキを魂砕したな⁉そうだろう?その上、魂を粉々にしてしまった。トキの心は断片化していてその心はもはや一つの人格を保っていなかった!トキの心はもうこの世にない」


「トキさんが中々見つからないのは同情するけど少し落ち着けよ!」


不死は聞く耳を持たない。目が充血して涙のようなものが見えた。心を持った死狼なら悲しい時涙を流すことは可能だがそれが元人間の不死ともなればそれは当然のことにも感じた。


「殺してやる。魂胞を損じれば死ぬと言ったな」


不死の魂胞は膨らんでいた。魂交でカイサの魂から生命力を食べて不死の腹は十分に満たされていた。


その上、そこから魂胞が脈打ち体も徐々に膨らんでいく。肉付きが良くなり不死は死の淵から完全に蘇った。


不死が二足立ち、家の屋根ほどもある長身で押し寄せる大波のようにカイサを圧し潰そうとする。



二つの赤光。



下敷きになる前にカイサはいつの間にか不死の背後に回り込んでいた。

「な?避けただと!」


鈍い空振りの地響き。


不死は起き上がりさっきカイサがいた位置と今いる位置を交互に見て状況を飲み込もうと躍起になっている。


それはカイサも同じだ。何が起こったのか全く分からない。

どうやって不死の背後を取ったのか、どうやって瞬時に移動したのか、またなぜ自分はその時のことを覚えていないのか。


そのとき地震が起こった。大地が盛り上がり、遠くの山々さえも揺れ動き、木々が倒壊し、山に生息する鳥達が渡り鳥の大移動のように飛び立つ。


死狼達の遠吠えが聞こえた。折り重なるように、誰かに何かを伝えるように連なっていく。


同時に、天高く、それはまるで竜が天に昇っていくように、赤黒く細長い影、次々と天に突き立てられる、異様な光景。森から無数の触手が狼煙のようにうねってくねって伸びる。


また遠吠えが聞こえた。


「永死の肉根……」

不死の顔に蒼氷のような青ざめた顔が浮かび上がる。

「侶死を探すぞ!ついて来い」

不死が走り出す。何の気遣いも感じられない、その快走で。

「待って、あなたに追いつけるわけないでしょ⁉」


カイサは確かに不死と魂交をしたばかりだが、それは飽くまでも不死に魂を食べさせるためであって、不死は魂交中にカイサの体へと光覆を与えてはいなかった。


それゆえ生身の体で野生獣の不死についていくことなど到底不可能。その距離はどんどん開いていく。


花畑から森に入ると、木々の影から他の三匹の死狼が見えた。侶死ではないその死狼達は明らかな殺意を持ってこちらに迫ってくる。

だが今となってはカイサにお構いなしの不死も遥か先を疾走していた。


「不死、死狼達が来てる!」

「自分でなんとかしろ」

素っ気なく返された。

しかし途中で死狼達は方向を転換、不死へと標的を変える。


不死は立ち止まり死狼達に相反すると恫喝の咆哮を上げた。死狼達と一戦やり合うつもりのようだ。

と、不死の足元から肉根が生えた。不死は飛び退く。


また地面から肉根が生えるが餌食になったのは三匹の死狼達の方だった。肉根が三匹の死狼を貫き――



黒光。



死狼達は沈黙して肉根に吊り下げられたまま動かなくなった。どうやらこれが魂砕というものらしい。


また遠吠え。今度はかなり近い。いやすぐ目の前に。

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