第18話 生者の還る場所

光が差し込んだ洞窟で壁面に消えかかった壁画があるのを発見した。それは昔ここに住んでいた人間が描いたものだった。


それは落書きのような出来栄えで後世に何かを残そうと描いた物ではないと一目見てすぐに分かった。しかしカイサと不死はその絵の前で思わず足を止めた。



――死狼と人間が手を取り合い、互いに共生している絵。魂湖に魂器を入れる人間。それを飲む死狼達。



カイサが壁画に近づいた。その存在を確かめるように絵を撫でる。

「侶死が言ってた。ここでは昔、人間と死狼が一緒に暮らしていたって」

「ああ、そうだ。もう何万年も昔のことだが」


大昔に存在した古代文明。そこで暮らした人々と死狼達。そして永遠の愛を誓い合った不死とトキさん。



遠い世界の記憶――――。



生きるために、何かを想い、誰かを想い、そして愛と命を育んだ。そして不死はその時代を生きていた人間。


カイサは人知れずそんな不死に熱い眼差しを送る。しかしカイサに気付いて不死は思いがけないとばかりに眉を上げた。


「なんだ?」

カイサは急いで顔を背ける。

「いや……あの……不死はその時代のことまだ覚えているのかなって……」


何とか言い繕えたことに胸を撫で下ろすも、頬はまだ熱を帯びたままだ。


「俺はあの牢獄に閉じ込められて間もない時、魂器が足りず数日間だけ心を失っていた時期がある。そのせいで昔のことはもうほとんど覚えていない」


それは今となっては幻のような物なのかもしれない。それでも――。


「だが――この時代の王族達(シャーマン)は特別な魂を持ち、魂湖の沐浴、そして不死身の死狼との魂交で意志の力を極限まで高め、自然界の精霊の声を聞いた。死狼は俺達(古代人)にとってよき友であり、また生活の要でもあったんだ」


でも、今ならその意味が分かる。大昔に死狼と人間がここで共生していたことも。それが実現可能なことも――。



死狼がいなければ人の生活は豊かにならないし、人がいなければ死狼は心を持てない――。


お互いを必要としていたから、共存出来たと言ってしまえばそれまで――。


でも、それが果たして現代の人間と死狼に実現できるだろうか――。



「だが見ての通り結局、文明は滅びた。俺達の文明の繁栄は五千年にも渡って続いたが、王族達の魂の力が弱まったことがきっかけでやがて文明は衰退し、最後には消滅した」


不死はその壁画を、絵の線の一本一本をなぞるように、まるでそこから何かを紐解くように見つめる。


「実はトキの魂が不死身の雌死狼の中に魂砕された理由もそこにある。それは文明の再建を願う王族達が、自分達の魂を永遠という時間をかけて未来に繋ぐために行ったものだったんだ。もはや、それさえも叶わなかったが」


壁画から目を背ける。不死の語調はいつのまにか熱を帯びていた。



「トキが王族である以上、それは確かに仕方のないことだった。必要なことだった。でも、俺はあの牢獄で半世紀もの間ずっと考えていた。もし何かが、少しでも何かが違っていたら――もし俺達が他の時代に生まれていたら――もしトキが王族でなかったら――そんな夢現の世界が、仮にどこかに存在していて――そこで俺とトキが出会ったとしたら……」


そこで不死は言葉を切ってカイサに歩み寄った。


「……だから、俺が今まで生きた永遠は、お前と出会って〝その世界〟が実在することを証明するために存在したのかもしれない――――」



不死の赤い目は間違いなく自分の中のトキさんを捉えていた。しかしその目は紛れもなく自分の目へと向けられている。

錯覚を覚えるようなこそばゆい感覚に、思考が鈍化して不死の姿が眩んでいく。


カイサはさっきの戦いの最中、光覆を流動させるために不死身の雌死狼の魂を利用して不死と魂交していたことを思い出す。トキさんと魂を交わした今の不死ならば、少しの間だけでも人間に戻ろうと思えば戻れるのだろう。


そういえばあの夜、あの時は不死の顔を見ることが出来なかった。不死はどんな顔をしているのだろう。そんなどうでもいい考えがカイサの頭をよぎる。


「――――が、まあ、お前はトキではないのだがな」


不死は嘆息してカイサから離れた。


カイサは少し落胆し、と同時に何かを期待していた自分に気が付く。そんなはずはない。不死は半分死狼だ。そんなことあり得ない。あってはならない。カイサはその〝人〟の関心を振り払った。


「やはり、今の俺にはこの世で永遠を生きるだけの意味はもうない。あの牢獄から出してくれたことには感謝しているが――」


そこで不死は何かに気付き身構えた。背中にうつ伏せで横たわっていたはずのクシがいなくなっている。



赤光が走った。



不死が吹っ飛ばされ壁画に叩きつけられた。絵が返り血に濡れる。

カイサは振り返りその赤光を追った。そこにはクシが立っていた。


「何で……」


クシの猛攻は止まらなかった。カイサに飛びつくように跳ね、上段回し蹴り、カイサが辛うじて頭を引いて避けるが、瞬時にしゃがみ込んで、カイサの足を手で容易く払う。


カイサの体躯が傾き、地に全身を打ち付けると、クシが自分の身長よりも大きく振り上がった足で踵落とし、冷徹に振り落とす――が――空振る。地面が地割れを起こしたように砕けた。


距離を取った不死がカイサを服ごと咥えている。寸での所で救出したのだ。カイサを乱暴に下ろすと一喝。


「なぜ反撃しない⁉死にたいのか⁉」

「でも……」

「また来るぞ!」


光覆を脚部に集め大きく振り上げたかと思うと、そのまま地面を足蹴り、地割れがこちらに迫る。不死は難なく避けるが、自魂交をしないカイサはその衝撃をもろに受けた。


カイサは再びバランスを崩し、そこを一呼吸も置かずにクシが突く。それは魂胞のすぐ横、カイサの右胸を文字通り破壊する。


焦燥に駆られややくぐもった舌打ちをし、何やら気配を感じ取って、振り返った不死の顔から血の気が引いた。


永死の亡骸、その肉隗から光覆の筋が薄っすらとこちらまで伸びているのが見えたのだ。


「俺達はまんまと騙されたようだ。永死は自分の魂の一部をクシの中に魂砕したらしい」

不死は口早に続ける。

「クシは永死の魂で自魂交している!そいつはもうクシじゃない!カイサ離れろ」


しかし次の攻撃対象は不死だった。


不死の首根っこにクシが両手で食らい付き、そのまま首を捩じり折る。

不死が意識を失い首の矯正を待たずして魂胞に手刀が打たれる。不死の魂胞が血飛沫と体液を撒き散らし、激しく損傷した。不死が白目を向いて痙攣する。


「クシ、止めて!」


カイサはそれでも自魂交をしない。


――大丈夫。全然怖くないのよ。


「お願いだから!」


――ナイフ、飲み込んだよね。大丈夫?


「あなたを失いたくない!」


――私はクシ。名前はクシ。


気付くとカイサはクシを抱きしめていた。子供のように泣きじゃくりクシの小さな背中に抱きつく。


「クシ、私あなたにずっと言いたかったことがある」


クシは不死への攻撃を止めた。


「でもその前に私はあなたに約束する」


クシの手を取り、目を見て真っすぐに向き直るとカイサは涙を拭いて微笑んだ。

それはあの夜、初めてクシに向けた笑顔。カイサが人生で初めて自分を表に出した瞬間のあの笑顔だった。



「私、これからはもっと笑うようにする」



クシの体から光覆が消えた。死狼の赤い目が光を失っていく。

クシの目から涙のようなものが薄っすらと滲んだ。

口を震わせながらそれでも開閉させ、聞き取ることは出来ないが何かを言おうとしているのが分かった。カイサが再びクシを抱擁した。



「あなたは私に大切なことを教えてくれた。本当にありがとう。クシ」

クシも今度はしっかりと頷いた。震える手で優しく抱き返す。

「あ、りが、とう……カイサ」




――――――黒光。




「どけ!」

不死がカイサを押し退けた。

黒光が消える。

不死が死んだ。




……え?




二人が最後に発した言葉が意味もなく、ただ空洞の思考に無限に跳弾してリフレインする。


なんの前触れもなく訪れた、別れと、狂気と、絶望と、覗いた死の深淵が、その場で情けなくへたり込んだカイサを残酷に蝕む。


カイサは何もできず、その場で手を突き、ただ〝それ〟を傍観する。


虚ろな目で、体から肉根が生え、口から体が裏返り、おぞましい金切り声を上げ、クシが〝それ〟に飲み込まれていくのを、ただ見届ける。


そして、その中を、まるで爆ぜたような、雄叫びとも、悲鳴ともつかない、絶叫と慟哭の声が突き抜けた。




「うああああああああぁぁぁあああああああああああぁぁぁぁぁ」




クシの中に埋め込まれていた永死の肉根が泡立つように肥大し、やがてそれは四足歩行型の異界の生き物になった。




「……永遠の命。まだ足りない。永遠、永遠、永遠、永遠永遠永遠永遠永遠永遠」




永死は変異していた。部分的にはまだ死狼の名残を残していたがそれはもはやこの世のものとは思えない異形さだった。全長は狂死の四倍はあったがしかし体重はそれほど重くなさそうだ。体格は羽のないコウモリを思わせた。細長く骨しかない脚がどうやってその丸々と太った体を支えているのかまさに奇々怪々だった。そして人間の腕ほどの太さの肉根が背中からヤマアラシのように所狭しと生えている。何より尾は体長よりも長く体のほとんどが尻尾だった。尻尾の先から根本まで威嚇するように伸縮自在なトゲが突き出しては戻る。目は正気を失ったように赤く塗りつぶされていた。そして、そう魂胞がどこにも見当たらなかった。



焦点を失ったカイサの目が穴ぼこのような影を落とす。理性は消し炭と化し、錯綜する感情と停止した思考が一片の欠片もなく漂白されていく中である一つの言葉が彼女を毒した。



―――――――――――――殺せ。



魂交の光覆とともに肉体が気化する。彼女の顔が激怒に歪み小生意気だった犬歯も今となってはもはや猛犬のそれを思わせた。カイサが目を閉じて開けたときには既に瞳は燃え滾る深紅に変わっていた。


熱気とともに肉体の気化が勢いよく噴き出し蒸気機関車の蒸気のようにカイサを覆う。そして突如として煙を巻き上げカイサが飛び出した。

カイサの両腕(前腕)と両脚(下腿)の肉がない。尖った骨(腕からは橈骨と尺骨。脚からは脛骨)が突き出している。腕と脚だけ気化させたのだ。


永死が身を捩り長い尻尾で空間を寸断、薙ぎ払う。カイサはそれを難なく避けると尻尾に腕と脚の骨を突き刺しそのまま蜘蛛が這うように尻尾を移動して永死の懐まで潜り込もうとする。

尻尾が窒息したようにのたうち回りカイサが尻尾と共に結晶化した魂湖の石柱に叩きつけられた。カエルのように潰れたかに見えたが直前に右脚の骨で石柱を両断、向こう側へと逃げおおせる。


そのまま地を引っ掻くように這いずり、死肉に群がるハイエナの狂気を目に浮かべて再度食らい付く。

その行く手を阻むように先端に魂砕の黒光を纏った肉根が隙間なく飛んできた。黒光の光がカイサを貫いた、いや、それはまるでカイサの体を幻像でも通り過ぎるように突き抜けたという表現が正しい。

カイサは接触部分だけを気化させ回避した。根は次々と煙をさらいからぶっていく。


黒光が消えると見開かれた赤い目で永死を脅嚇し、そのまま肉根を咥え血飛沫とともに体から強引に取り去ると、休む暇もなく今度は両腕と両脚の骨へと光覆を集めた。

そこでふと永死が大口を開け涎とも体液ともつかない飛沫を飛び散らせ吠えているのを見てカイサは何かに気づいたように刮目した。

永死の口の奥に何か生き物の臓器のようなものが脈打っているのを見つけたのだ。それは魂胞だった。


赤い目の残像を残し影が永死の口一直線に飛ぶ。永死がサソリのように体を前に逸らし肉根で文字通りの〝肉壁〟を作った。カイサはその壁の向こう、魂胞だけに目を据え躊躇なく直進する。

接触の直前、肉根の塊から鉄条網のようなトゲが突き出した。カイサは腕を胸の前で交差させ魂胞を守る。

肉根に触れた途端に精肉加工のように体がずたずたに引き裂かれた。華奢な少女の細い骨がどちらの物ともつかぬ肉の細切れの中で白く浮き上がる。




――――私は、




カイサが肉根の壁を抜けると針山のようにトゲの生えた尻尾がすでに天高くから振り下ろされていた。カイサは弾かれた弦のように跳ね、間一髪、回避する。




――――ただ、どうしても知って欲しかった。




壁に跳ね返りそのまま横腹に取り付くとその肉食獣のような獰猛さで軽々食い破り、内臓を引きずり出す。しかし無残にもそれは一瞬で再生、永死の尻尾に打ち払われ造作もなく飛ばされる。




――――それは、あなたには、どうでもいいことなのかもしれない。




再び接近、永死の首元から内側の魂胞を貫こうと光覆をまとった飛び蹴りを浴びせ、しかし永死もまた身を捩り下半身で打ち返す。




――――でも、それでも、せめて言いたかった。




隙を見て喉元に腕の骨を突き刺すとそのまま首を一周、永死の顔を切り落とす。魂胞が露出した。




――――なぜなら、私とあなたは、




カイサは両腕と両脚の光覆を右腕の骨に集積させた。まるで聖剣のように神々しい光を放った右腕の骨を殴打技でも繰り出すように高々と振り上げる、とその時異変は起こった。


カイサの体から肉体の気化が勢いよく噴き出しそのまま呼吸をやめたように止まった。赤い目が消えカイサはバランスを崩し、そのまま滑り落ちると、永死の前足付近に転落、打ちひしがれたように地面に叩きつけられた。吐瀉とともに小さな魂器が出てくる。


カイサは自分の上腕を見て肝が凍り付くほどの絶望を感じた。


お粗末な着地のせいで無数の擦りむいた傷があったがもはやそれさえも再生する気配がない。無論、気化して骨が露出した両腕と両脚もだ。カイサは立ち上がることすらままならなかった。


永死の顔が再生した。長い尻尾が綽々とカイサを絡めとる。


「クシ……私と……魂交して……私を……受け入れて」


物凄い力が加えられ体中の骨が軋み、籠った爆発音のような音を立てて次々に骨が折れていく。


「私……どうしてもあなたに……言いたいことが……私を受け入れて」


尻尾がカイサを更に締め付ける。


「クシ……聞いて……私は……」


なけなしの光覆で魂交を試みるも永死に拒絶される。

肺が潰れる。口から血が噴き出す。




「わた――ヒュー――ヒュー――ゴボッ――ど、もだ、ぢ………」




尻尾から百本近く針のように長いトゲが突き出しカイサの全身を貫く。カイサは絶命した。


クシのナイフがカイサの腰で涙の雫のように光っている。カイサは黒い光とともに魂砕された。

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