第4話 西の戦地

侶死はぶるっと身震いをして立ち上がった。


何かを砕くような咀嚼音と共に舌なめずりをする。足元には侶死が食べた人間の死体が転がっている。


その死体は恐怖で目を見開きながら死んでいた。決して穏やかな最期を迎えたわけではないようだ。


まだ日は昇っていない。明け方。薄暗い。そして〝血の海〟だ。人間の死体が折り重なるように横たわっている。


鼻をつく悪臭。血と臓物の匂いが辺り一面立ち込めていた。数えきれないほどの死狼達が人間達の死体を漁っている。


ここは死狼の棲み処から三十キロ西にある戦地。いつの時代にもある殺し合いの場。今現在の森の死狼達の餌場だ。


負傷者、助からない者、動けない者、仲間に見捨てられた者。

そしてその人々の行きつく場所はただ一つ。死――。


侶死は軍馬に踏みしだかれ原形をとどめていない人々の亡骸や返り血を浴びた武器、未使用の砲弾と共に置き去られた大砲を見やると一言だけ口にする。


「愚かな」


彼らにもチャンスはあったはず。こうなる前に引き返すことも出来たはず。殺す側も殺される側も。


だから侶死は決して彼らには同情しない。自業自得という言葉は彼らのために存在する。


そして彼らはどうせ死に逝く運命。まして侶死や死狼達は彼らに直接手を下さず、死んでから食べるのだ。兵士達も食べられて文句は言えまい。


しかし侶死は人間という生き物を嫌悪しているわけではない。寧ろその逆で、生きた人間を襲わないのが彼の鉄則だった。


死狼の力を人助けに使うことさえあった。なぜなら侶死は人間を殺すことに強い抵抗感があったからだ。


この森の死狼達は人間の魂から心を得ている。

すなわち死狼の心は人間のもっている心と同じ。死狼が持っている感情も思考も、元は人間のものだった。


侶死は初めて心を得たとき、その偉大さと尊さに感動した。


愛、思いやり、互いを理解し合う心、人間の心に対して強い感銘を受けたのだ。それから侶死は人間を殺すことをやめた。



―――それゆえ、この戦場を初めて見たとき侶死は人間に〝失望〟した。



戦場で人々は己を正義と信じて戦う。もちろん悪は裁かれるべきだし、侶死もまた悪を憎みときにそれを殺す。


しかし本当に、ここに死んでいる者達は皆がそういった悪と言えるだろうか?


侶死は死狼の棲み処の近くにある小さな村と申し訳程度だが交流を持っている。


村人の魂を少し分けてもらうことと引き換えに、死狼の力で流行り病や大怪我を治していることも、侶死が仲間の死狼達から物好きだと言われている所以である。


また、異種間であるにも関わらずこの関係が実現したのは昔、侶死がこの森を統治していたときに彼が重ねた並外れた努力の賜物であった。





「今日狂死に会った者に聞いたがあいつひどく浮かれていたらしい。どうも〝死狼餌〟の少女を捕まえたそうだ」





「何だと!?生きているのか?」

「もちろんだ」

「死狼餌?狂死は俺達に分けてくれると思うか?」

「狂死ならそうするはずだ」

「ああ、やつは魂湖の水も俺達に分け与えると五十年前に確約した」

「静かに。侶死に聞かれている」

談合していた死狼達は侶死を窺いながら散り散りになった。


――何やら嫌な予感がする。


侶死は老いた体を捻ると期死の元へ歩を進める。

今日は不死のために不死身の雌死狼を探しに行くと約束をしておったがどうしたものか。


「侶死。どうかした?」


女の声。期死だ。期死は雌の死狼だった。期死は侶死とは付き合いが長く、侶死と同じく優しい死狼だ。


二人はまるでおしどり夫婦のようだと冷やかす者もいるが期死はそれにたいして「そう?」とはにかみ笑う。満更ではない様子だ。


「いや、少し胸騒ぎがする」

「狂死のこと?」

「ああそうじゃ」


振り返りさっきまで話をしていた死狼達を見る。彼らはまた集まり噂話に耽っている。


「私もその話気になっていたの」

「死狼餌ですか?」


鴻死こうしが混ざる。鴻死もまた侶死の仲間の死狼だった。


「あやつはときたま永死と取引しておる」

「ええ知っているわ」


それで?と期死は続きを促す。


「永死は人間の魂が欲しい狂死にとっていい取引相手じゃ。永死は魂湖を持っておるからな」

「魂湖はこの森の死狼なら誰でも欲しがる。手にすれば飢えることはないわ」

「いつも侶死は魂湖の水があればこの森の死狼達は人を殺さずとも済むと言っていますから」

「ああ、そうじゃ。平和じゃった。もう五十年も前の話じゃが」


侶死は感傷に浸るように目を閉じた。


「魂湖は太古の昔、共存していた死狼と人間が手を取り合い、少しずつ魂を含んだ魂器を入れて出来た湖と聞く。実際、永死が独り占めにしてよいものではないはずじゃ」


期死も鴻死も合いの手と共に頷いて見せる。


「そして昨晩にその永死との取引の種を狂死は手に入れた」

侶死は訝しげに目を細めた。

「きな臭いと思わんか?」

「取引の種とは?」

「もしかして死狼餌のこと?」

「はっきりとは分からん。だが思うに……」


そのとき悲鳴が聞こえた。人間の悲鳴だ。侶死は何が起こったのか大体察しがついていた。


兵士だ。負傷して動けない兵士が死狼に引きずられている。

彼は片方の足が腿から下がねじ曲がっていた。頭部からも出血がある。近くに胴体がへし折れた馬の亡骸があった。


思うに近くに砲弾が着弾し落馬したと思われた。もしかしたら今まで意識がなかったのかもしれない。


生きた人間を襲うことはこの戦場ではしないようにと固く言っておったのに。やれやれ。侶死は期死と鴻死にすまんと一声かけ兵士の元へと足早に向かう。


助ける気はなかった。


戦争は人間が自分達で蒔いた種だ。兵士は死ぬ覚悟が出来ている。そして兵士は人を殺す。


ただ戦地で兵士が死狼の手で殺されたとなればその地に駐屯している軍隊が死狼の棲み処に来るだろう。


そして普段、自分が軽蔑している兵士達に〝名前だけの報復〟を理由に殺されることは侶死のプライドが許さなかった。


そう、もっとも嫌いな人種の人々に悪者として殺されるのだ。そんなこと侶死には到底耐えられるはずがなかった。


「おい!何をやっておる。生きた人間を襲うでない」

その死狼は聞く耳を持たず、相変わらず負傷していない方の足に履いているブーツを咥えながら引っ張っている。

「おい死狼!返事をしろ」

死狼がブーツを離した。死狼が口を開け何かを言おうとする。



――――――――ドオォーン。



耳をつんざくような音が響いた。発砲音だ。今はもう静まり返ってしまった広い戦場にその音が響き渡る。


そして死狼の体が内側から破裂した。

すぐ横で襲われていた兵士が騎兵ピストルを構えている。死狼を撃ったのだ。死狼は四肢だけを残し跡形もなくなっていた。


あれはまずい。〝裂魂弾さっこんだん〟じゃ。


裂魂弾は魂のある生き物に反応し着弾すると爆発する。

それは誰がどう見ても正当防衛だった。しかしその兵士は運が悪かった。

悪気はなかったのかもしれない。だが彼は死狼達を怒らせてしまった。


裂魂弾は死狼達の間で忌み嫌われていた。なぜなら裂魂弾は死狼の魂胞を使って作られるからだ。


それは死狼の魂胞から分泌される魂と肉を切り離すための消化液を濃縮し柔らかい鉛玉で包み込んだ銃弾だった。死狼を殺して作られたのが裂魂弾なのだ。


死狼達が兵士を取り囲んだ。侶死は慌てて死狼達と兵士の間に割って入る。


「待て。よさぬか」

「なぜ邪魔をする?」

「人を殺してはならぬという決まりじゃ」

「こいつは死狼の魂胞から作った武器で仲間を殺した」

「彼に悪気はない。正当防衛じゃ」


死狼達はただ唸っていた。兵士は半狂乱になって怯えている。肌に伝わってくるほどの一触即発の空気。


慌てて期死と鴻死がこちらへと駆けつけて来た。期死が群集を掻き分けこちらへ来ようとする。


「期死、来るな」


侶死は期死を制すと死狼達に声高に言った。


「ちょっとこの人間と話をしたい。場合によってはワシがお前達の代わりにこやつを殺そう」


死狼達の喧騒がその場を包んだ。それは異議を唱えるものではなかった。

侶死が人間を殺すと言ったことに死狼達は驚いたのだ。死狼の一匹が言う。


「この人間を悪だと判断した場合に殺すという保証はどこにある?」

「約束しよう。その場合ワシが責任を持って殺す」


その死狼は他の死狼達の顔色を一度窺う。誰も反対しない。他の死狼達も異論がないようだ。


「いいだろう侶死」

「この人間に少し聞きたいことがある。二人だけにしてほしい」


死狼達は分かったと互いに目交ぜしてその場から離れた。期死と鴻死が振り返り不安そうにこちらを見つめる。


侶死は大丈夫じゃと二匹に頷き返すと兵士に向き直った。兵士は身を丸めて縮こまり震えていた。


「頼む一思いに殺してくれ。生きたまま食われたくない」


その言葉に侶死の中で激しい怒りが燃え上がった。


「お前、名前は?」

「タ、タカだ」

「タカ、お前はなぜ戦場にきた?」

「金が欲しかった。金がないと生きていけない」

「生きるためか。ならなぜさっき殺してくれと言った?」

「え?」


聞き違えかとタカは閉口した。目を丸くして侶死を注視する。


「お前はそんな安い命のために戦場で人を殺すのか?」

「おれは……」

「もう良い」


侶死の赤い目がタカを強圧的に睨みつけた。


「望み通りお前を殺そう」

「ま、待て。待ってくれ。違う」


タカが慌てふためく。頭を抱え大人げなく泣きだした。


「俺は、俺は生きたい。何もかも選択を間違えた。軍に入隊したことも、この手で何人も人を殺したことも」


タカは子供のように泣きじゃくる。侶死の足元にすがる。


「すぐに大金が必要だった。なぜかは言いたくない。だがそのために、たったそれだけのために俺はここで死ぬ。俺には分かる。俺の怪我はひどい。もう既に足の痛みがない。お前に見逃してもらっても、死狼達に食われなくても、俺は死ぬ。死にたくない。生きたい。それが叶わないから、それならせめて今ここで殺してもらった方がましだ。だから、だから俺は今ここで殺してほしいと言った」


侶死はその言葉に何かを見定めるように毅然とタカの目を観察する。


「死ぬのが怖いか?」

「怖い。まだ生きていたい」

「なぜじゃ?生きることに何か意味があると思うか?」

「分からない。今までそんなこと考えたこともなかった。だから余計に死ぬのが怖い」


侶死は優しく微笑んだ。


「いや、お前は分かっておるはずじゃ」

「な、何のことだ?」

「なぜなら、お前は〝さっきの会話〟で生と死を直視したからな。恐らく生まれて初めて」


タカは唖然として目を瞬いた。

まさか人食いの死狼の口からこんな言葉が出てくるとは思いもしなかったのだ。


死狼は彼の故郷ではただの家畜に過ぎなかった。さらに侶死は優しく諭すような口調で続ける。


「お前に守るべき人はいるか?」

「いる。婚約者だ。金は……」


侶死は最後まで聞かなかった。


「これからはその者の命のために戦え。ワシはこの戦地で人間を助けることはせんが今日は特別。お前を助けてやる。怪我を治してやろう」

「治す?どうやって?俺はもう死ぬ。助からないと言ったはずだ」


侶死は遠くで自分達を見守る期死や鴻死、その他の死狼達に「解決した。もう大丈夫だ」と言い放った。

タカはまた当惑して「一体、何が大丈夫なんだ」とつぶやく。


「今からお前は死狼の特別な力を目の当たりにする。家畜の死狼には決して真似できぬ、しかしそれでも、なぜ人間が人肉を与えてまで死狼の力を欲しがるかという本当の理由」

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