―Ⅱ― ―Memories―人間界
第6話 餌たちの追憶(前)
カイサが森を抜けるとそこは見晴らしのいい沼地だった。
夜はうつろい、東に連なる山の頂から片鱗を見せた暁光が黒い山々と淀んだ雲を焼き尽くしていく。
沼地のぬかるんだ地にひっきりなしに足を沈ませ、朝焼けが反射した水面をアメンボの水渡りのように音もなく飛び越えると、そのまま草の生い茂った地面をジグザグに進んだ。
沼地には青々とした草が生い茂り、朝日を受けて黄丹色の水明かりを見せていた。
秋空を思い起こさせるほど澄み渡った水底。覗き込むと袖を捲り上げる。
飲んでも大丈夫そうだ。
カイサは沼に膝まで浸かると軽く手を洗い両手いっぱいに水をすくった。
そのまま喉を豪快に鳴らし一気に飲み干すと、干ばつで痩せた畑のような喉を伝い、疲労の溜まった体がスポンジのように吸水する。
美味しい。
頭の中の霧が晴れ、意識が明瞭さを取り戻し、目の前に映る景色が鮮やかな色を帯びていく。
体が生き返っていくのを感じる。生きていると感じた。
カイサは体の汚れを沼の水で軽く洗い流し、沼から上がると遠くに目を凝らす。
草原。
沼地の先はでこぼこした草原が続いている。
ずっと遠くのそちこちに置き去られたように小さな木が散見され、そして丘、更にその先はまた森だ。
カイサは地平を占領する緑の大海原を見渡す。死狼がいなければこの森も平和そのものだ。
死狼という種の起源は数万年前に及ぶと言われていて、その生態は実はまだ不明な点も多いが人間の生命力を特殊な力に変えるという大きな特徴を持つ。
人間が領地拡大を行う過程で死狼の棲み処もまた減っていき、追い打ちをかけるように五十年前に至る所で横行した密猟が決定打となって死狼はその数を激減させた。
今に至っては、野生死狼の総数も家畜死狼のそれを大きく下回り、今なお減少傾向にあると言われている。
三つの大国に囲まれた死狼の森も、一つの小国に匹敵するほどの広大な面積を持つが、以前のようにこの森を死狼の森と呼ぶには、やはりその広大さに見合うだけの死狼の数が少なすぎるというのが現状だろう。
しかしそんな彼らにもかつて隆盛を極めた時代があった。
遥か太古の昔――。
今の自分達の文明が始まるよりもずっとずっと昔。
その死狼と人間が一種の共存をしていたのだという。
それは各地に散ったように点在している遺跡からも明らかで、出土品には彼らが高度な文明を持つことを裏付ける物証も多々あった。
人間と死狼。両者の利害が一致したのか、はたまた昔の人間は今ほど利己的ではなかったのかそれは分からない。
しかしカイサにはその話はにわかに信じがたいと思えた。
なぜならカイサは生まれてからずっと両者の醜い部分しか見て来なかったからだ。
死狼は神聖な生き物であるとか、人間は理性的で道徳心を持つとか、馬鹿も休み休みに言って欲しい。どっちも化け物。それに違いない。
カイサは大自然を一望して軽く伸びをすると――目線の先、草原の端に人工物らしきものが在るのが目に留まる。
森のすぐ手前、いや中、それは密集していた。
カイサは走り出した。人間の村だ。それは町というには小さすぎる。しかし建物であることに間違いなかった。
短い芝を蹴り、颯々と風を切って駿馬のように疾走する。
遮る物が一切ない雄大な草原の遠くから強い風が吹いた。追い風だ。
カイサは追い風に乗って走った。それはまるで風が自分の背中を押してくれているように、そして足に当たって千切れた草が次々と宙を舞い、風に飛ばされ彼女を追い越していく。
カイサは息を切らして走る。
それは不自然にも死狼達から逃げ走っていた時より速く感じられ、また心地よい程爽快だった。
全力で走っているのに全く疲れない。鋭角に大地に差し込む日の光が黄金色に染まった草原へ上下に弾む長い射影を作った。
建物の明かりが見えてきた。夜が明けてしまっても建物の明かりがはっきり見える。
あれは松明の光だ。それぞれの建物の正面の入り口付近に松明がある。人が住んでいる。
村から伸びる一本の道。土が少しえぐれて露出した道が見えてきた。それは整地されていた。
踏み固められた道を突っ切りながら家を数える。
全部で十二棟。全てが石を四角く削って組み合わせたような造りをしていた。
屋根も石で平ら、長方形の家々、それは並行した四列を作って綺麗に配置されていた。
そして村の中心、大通りの道には荒く切り出した不格好な石を粗雑にはめこんだだけの道が家と家の間に大きく敷かれている。
村は木々を押しのけるように森にめり込んでいた。
村の前には森と草原を寸断するように川が流れその上を石で出来た大きなアーチ形の橋が架け橋のように架かっている。
村は木々に囲まれここが入口だと言わんばかりに正面だけ木が伐採されていた。
村に人影はなかったがまだ朝日が見えてからそんなに時間が経っていない。
まだ村人は家の中で寝ているのかもしれない。
カイサは石橋を渡った。石はしっかりと組まれていて橋は馬車などが通ってもびくともしないだろうと思われた。
最寄りの家に駆け寄る。ノッカーや呼び鈴のような来客を告げる物は設置されていない。それどころかドアさえ取り付けられていなかった。
カイサは少し中を覗き込んだ。
屋内は暗く何も見えなかった。窓枠のない壁面を切り取っただけの四角い穴が在るのは確認できたが外はまだ薄暗く部屋の中を照らすには十分と言えなかった。
人が出てくるまで待った方がいいだろうかとカイサはしばしの間その場で立ち尽くし、それから諦めたようにドアのすぐ横の壁に持たれ座り込んだ。
少し眠ろう。流石にここまで来たらもう襲われることはないだろう。昨晩はろくに寝ることが出来なかった。
※
暗い地下室。蝋燭の光が揺れる。
「起きろ」
バケツ一杯の水を掛けられる。
「時間だ」
やつだ。カイサは椅子に皮の拘束具で腕と足を固定されていた。椅子から身を乗り出し中年の男を睨みつける。
男はバケツをゆっくりと置いた。
品の良い顔をしている。実際身なりも良かった。
男は上等なフロックコートを脱ぎシャツの袖を捲った。
柄の短いハンマーを手にする。重そうな音を立ててハンマーが机から持ち上げられた。
「生意気な顔だな」
空を切り裂きずっしりとしたハンマーが振り下ろされる。粘液性のある血が飛び散った。
「行いは痛みで返ってくる。よく覚えておけ」
やつの気持ち悪い手が顔を嫌らしく撫でた。
「カイサ、綺麗だ……。今日も楽しませてもらうよ」
男は机にハンマーを置くと腰に手を回して何かを取り出した。
そしてカイサの目の前に戻ってきた男の手にはどうやって使うのかも想像出来ない刃物がいっぱい付いた道具が握られていた。
「これを手に入れるのに苦労した」
男はカイサの目の前でそれをぶらぶらと揺らす。
「今日は人間がどれくらい血液を流して意識を保っていられるか実験したい」
※
絶叫して飛び起きたカイサが腰からナイフを抜き地面に突き立てた。
夢だと気づく。息も絶え絶えに悪夢を振り払うように首を激しく振る。
もう終わったこと。過去のこと。
カイサは立ち上がり村人が来るのを待つために自分がここにいたことを思い出すと滝のように流れる冷や汗を拭いた。
頭上を見上げ天高く昇っている陽を指の隙間から覗くとカイサはその場で一息つき、ある異変に気付いた。
村に人が誰もいない。この時間になっても村の外に出歩いている者は誰一人いなかった。はち切れんばかりに膨らんでいた希望が見る見るうちに萎んでいく。
家の中はガランとしていた。そこは長い間誰にも使われていない廃屋だった。
朽ちて使い物にならなくなってしまった机と椅子、蜘蛛の巣の張った食器棚、虫食いで穴だらけになり変色したベッド。
全ての家々を見て回るがそれらはまるで複製されたように同じだった。しかしそこでカイサはふとあることを思い出した。〝松明〟は誰が点けた?
カイサは急いで外に出る。家の前に設置された松明は消えていた。それだけではない。全ての家の松明が消えていた。
奇妙な現象に首を捻りカイサは一つ一つ家を見比べながら町の大通りを歩いた。何か胸騒ぎがする。
カイサはある家の松明の前で止まった。その松明はまだ完全に消え切っていなかった。うっすらと煙が上がっている。
カイサがじっとその松明を見つめる。吸い寄せられるように手を伸ばすと――
―――――ゴオォッ。
突如、その松明から爆ぜるように光炎が上がった。
驚いてカイサは手を引っ込める。松明の炎が消えた。
なるほど。また手を近づける。また燃えた。カイサは何回かそれを繰り返した。
不思議だ。しかしどうやらこの松明は必要に応じて点くようだ。全く持って仕組みは不明だが。
夜になるまで待ってみないと分からないが、普段ここの松明は夜の間だけ点灯しているのかもしれない。それで今は消えているのだ。
カイサは松明から離れるとまた大通りに戻った。
大通りに敷かれた粗末な石の道を真っすぐ進む。石の道は森の中まで伸びていた。森の奥に何かあるようだ。カイサは招かれるように森の中へと入っていった。
石の道は段差の低い緩やかな石階段へと続いていた。少し上ると滝つぼへと出た。
大きな滝つぼだった。滝口は七メートル程の高さで、そこから森の環境音を全て飲み込むほどの轟音を上げ水の塊が大きく分厚いカーテンを作っている。
滝つぼにはエメラルドグリーン色の水が溜まっていて滝と滝つぼの周りはそれを彩るように木々や苔が生えていた。
喉が渇いているわけではなかった。しかし次にまた水が飲めるのはいつになるか分からない。
カイサは滝つぼへと近づき水に触れようとして手を伸ばす。
―――――パキパキパキッ。
固体が割断するかのような音とともに水面に分厚い氷が張った。
カイサは驚き身を引く。滝の音が消えているのに気づきカイサは滝を、いや〝さっきまで滝が在った〟場所を見た。
洞窟がある。
洞窟のすぐ上で水が浮いている。何かそこに透明で巨大な容器があり水が溜まっているかのごとく水が途切れて宙に浮いていた。
滝の上の川も流れが止まっているようだ。洞窟の入り口の両脇に松明が二つある。さっき村に在った松明と全く同じものだ。
カイサは氷の上に恐る恐る片足を乗せてみた。びくともしない。小さなヒビすら入らない。
片足に少しずつ体重を移し最後には全体重を掛けた。進んでも問題なさそうだ。
カイサは氷の上を歩き洞窟の入り口に向かった。
洞窟は大きく大人二人分くらいの高さがあった。
松明の前に立つと、ゴオォと再び光炎が音とともに上がった。やはり点く。暗闇の奥に点々と松明が続いているのが見えた。
一体これは何だ。誰がこんなすごい仕掛けを作ったのだろうか。
カイサの心中には恐怖や不安よりも、抑えきれない程の好奇心と人間の村と思しき建物群を発見した時よりも更に大きく湧き立つ高揚感があった。
カイサは手汗が滲んだ拳を作り洞窟の奥へと足を踏み出した。
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