―Ⅲ― 魔窟の使者
第10話 失言
王族達の部屋があるのは断崖の絶壁と酷似する建屋――その最上階。
昇降用の〝水路〟で建物の上層まで昇り、迷路のように入り組んで生成された通路を前進するとその部屋は姿を現した。
大理石が敷き詰められた石畳が床一面に広がり、部屋の中心部には氷でできた豪奢なシャンデリアが天井から部屋中を睥睨する。
その目下にはクッション部分が水の塊によって形作られたソファーとダブルベッド。
部屋の隅にあるのは大理石の石柱で仕切られたシャワールームと湯気が立ち昇るジャグジー。
暖炉の炎は息を吹きかければ魔法のように燃え盛る。そしてそれを取り囲む凝った装飾家具の数々。
カイサはその絢爛たる威容に思わず息を呑んだ。どうやら不死が言っていた『文句はないはず』の文言ははったりではなかったようだ。
カイサが水のソファーに座ると深々と腰が沈みこんだ。
触覚が麻痺しているため座り心地に詳しく言及することは叶わないが、普通の人が使う上ではとても良い家具なのだろうと推測できた。
ふと、壁に描かれた動く壁画に目を止めた。女性が描かれている。その女性は悲しそうな目をこちらに向けていた。
壁画には『時』と漢字で書かれている。この部屋は昔、トキさんが使っていた部屋のようだ。
今、この部屋を使うことはあまり気乗りしなかったが、また部屋を探して屋内を彷徨うのも中々に気が引けたので今日はこの部屋で一夜を過ごすことにした。
カイサは服を脱いでシャワールームへと向かう。
ここでも触覚がないためお湯に包まれる心地よさをそのまま感じることは出来なかったが、それでも体が清潔になるということは女性のカイサにとっては最上の喜びであった。
カイサがシャワーから上がると柔らかい春風のような温風が体の周りに吹き付け、そのまま体を乾かしてくれる。至れり尽くせりとはこのことだ。
カイサが服を着てから水のベッドに体を沈ませるとどっと疲れが押し寄せてきた。
刹那にふと不死のことが頭をよぎるも、すぐさま甘い眠気に意識が溶けていき深い眠りに落ちることが出来た。
『クスクス、クスクス、クスクス』
『カイサに優しくない不死、クスクス、クスクス』
『クスクス、クスクス、クスクス』
『不死はきっとカイサのことが嫌いになっちゃったんだよ、クスクス、クスクス』
『クスクス、クスクス、クスクス』
『でも私達がいれば寂しくないでしょ、クスクス、クスクス』
顔にネトッとした物体が当たる――。
カイサは飛び起きた。見ると不死がこちらをまじまじと覗き込んでいる。不死は〝再び〟カイサの顔を舐めた。
「起きろ、カイサ。少し話がある」
虚を突かれたカイサが後ずさる。
「なんだよ⁉普通に起こせよ!」
「声をかけて起きないお前が悪い」
カイサは光覆を纏ったジャブを目の前の侵入者に浴びせるが、不死はそれを避けるとベッドから部屋の反対側へと華麗に着地した。
「珍しく良い匂いだな。風呂に入ったのか」
「……うん」
カイサはドギマギしながら髪を撫でる。
「この部屋の使い心地はどうだ?」
「凄く良い。ありがとう」
そう言ってカイサは普通に不死と話せていることに気づく。昼間の不死の塩対応が嘘のようである。
「ここってトキさんの部屋?」
カイサがさっきの壁画を見ながら出し抜けに聞く。
「ああ、そうだ。俺もさっきこの壁画を見て気づいた。トキとの思い出も何万年もの時間でほとんど風化していたが少しだけ思い出せた」
「……トキさんって凄く綺麗な人だったんだね」
カイサは壁画を注視する。不死は柔和に微笑みそれに短く答えた。
「ああ」
そのまま気まずい沈黙が流れる。カイサが慌てて話題を切り替えた。
「ところで不死はなんでここに来たの?」
「お前と魂交がしたくてな」
その言葉にカイサの心臓が口から飛び出そうになる。思いがけない提案だった。言い方からしても昼間にように一瞬で終わる魂交ではなさそうだ。カイサは喜びをひた隠しにしながらワザとすっとぼける。
「精霊魂交は明日にするんじゃなかったの?」
「今日は別件でだ。トキに会いたくてな」
それを聞き今度はカイサの心が氷点下まで冷える。目当ては自分ではないようだ。しかし不死に触れられることに変わりはない。
動機は〝不純〟だがそれでも半年間も待ち侘びた不死にじっくりと触れられる時間がようやく訪れたのだ。
不死が再度ベッドに上がりカイサに体を寄せ付けた。不死の色が体温とともにカイサの肌に染み渡っていく。カイサは目を瞑り不死から伝わるその全てを感じた。
魂交が終わると二人は背中合わせでベッドに横たわった。不死は人間の姿に戻っていたが顔を見られるのを拒否したためカイサは不死を背中から感じるしかなかった。
「不死、なんで半年間も私に会いに来てくれなかったの?来ようと思えば来れたのに……」
不死は半年もの間、死狼達を魂湖に移住させるために獅死の手伝いをしていたと言っていた。
しかし合間を縫って会いに来ることはいくらでも出来たはず。それはつまり不死がカイサと会うことを望まなかったということだ。
「それはお前にも言えることだ。事実、先に出向いたのは俺の方だ」
「……それはそうだけど」
カイサは口ごもる。なんとも歯切れの悪い会話だ。不死も不死でやはり様子がおかしい。
しかしそれでも言うならば今しかないとカイサは思う。次に二人きりになれるのはいつになるか分からない。
「ねえ。私さ……今、村でもあまり上手くいってなくて。だから、あなたが望むならここにずっと住んでもいいかなって――」
不死は顔を綻ばす。
「好きにしろ。必要ならこの部屋も使っていい」
それは随分とあっさりとした、しかし思いも寄らない返答だった。
「……え?」
カイサの心臓が高鳴る。だがその高揚感は次の瞬間に底なしの奈落へと叩き落された。
「いや、そうしてくれるならむしろ助かる。〝トキに会うために〟わざわざ村まで通わずに済むからな。本当に嬉しい。お前の好意でそうしてくれるなら尚更だ」
カイサは無言でベッドから降りた。目から次々に悔し涙が溢れてくる。それでも不死の失言は止まらなかった。
「〝この部屋を気に入ってくれて〟本当に良かった。お前には本当に感謝している。今日トキの魂に触れ、そのおかげで一夜だけでも人間の姿に戻れたのはお前のおかげだ。お前がいなければ俺はトキと話すことも、人間の姿に戻ることさえ――」
それを聞いたカイサの堪忍袋の緒がついに切れた。
「……っはぁあ⁉ふっざけんなよっ!そんなことのために感謝されて私が喜ぶと思ってんの⁉」
「カイサ、待て、俺は……」
不死は犯した失態を取り繕おうとするが、カイサの猛攻はとどまることを知らない。
「魂交してる当の本人そっちのけで二人で話し合って……バカかよ……」
カイサが振り返ると死狼の姿に戻った不死の困惑した面差しが目に入った。カイサの上気した頬に礫のような大粒の涙が伝う。
「私なんか本当はいらないんだろ?もし私が死ぬことでトキさんが戻ってくるって今夜、夢でお告げがあったら次の日には不死から私のこと殺しそうだし……ほんとバカだよ……私もあなたもみんなバカ……」
そのままカイサは走って部屋から出て行った。
もう不死とは話したくない。目も合わせたくない。あいつなんて勝手にしておけばいい。
『クスクス、クスクス、クスクス』
『不死はトキのことばっかり考えて、クスクス、クスクス』
『クスクス、クスクス、クスクス』
『あーあ、カイサ振られちゃった、クスクス、クスクス』
『クスクス、クスクス、クスクス』
『可哀そう、でも私達が傍にいてあげる、クスクス、クスクス』
その日は一晩中どこからともなく聞こえてくる幼い女の子の笑い声がカイサの頭の中に響いて離れなかった。
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