第9話 憂鬱な二人

侶死や獅死、雷死がカイサを取り囲む――その議論の輪から一歩引いた場所で不死は黙していた。


カイサは侶死と話しながらも不死の様子を一瞥する。不死はうなだれて元気がなかった。


流石に可哀そうになってきて何か気の利いた言葉を掛けた方がいいだろうかとカイサの心が揺らぎ始めたそのとき――。


「不死!話を聞いておるのか?お前にも関係のあることなのじゃぞ?」


侶死の罵声が不死に突き刺さった。


「すまない侶死。少し疲れてな。今から部屋で休む。魂交は明日にしてもいいか?」


不死の言葉に一同、唖然とする。


「どうした不死?悩み事か?何事かは知らんがそんなに思い詰めていると昔の俺のように禿げてしまうぞ?」


しかし獅死の挑発にも不死は乗らない。ただ沈黙を保っている。


「まあ、ワシらはそれで構わんがカイサはどうなる?」

「王族達が使っていた部屋を使わせてやれば文句はないはずだ」


不死の視線は捉えどころがなくただ宙を彷徨っていた。そのまま逃げるように不死はその場を離れていく。


「不死、一体どうしたの?今日村で会ってからずっとあんな感じなんだけど……」

「実は不死は最近ずっと塞ぎ込んでおってな。お前に会えばまた元の調子に戻ると思ったんじゃが、逆効果だったようじゃな」


逆効果という言葉がカイサの心に深々と突き刺さる。これではまるで自分のせいでこうなってしまったみたいではないか。


「まあ、何というか難しい年頃のまま永遠に年を取らないのは死狼餌のお前も同じであろう?あやつなりに色々と悩み事や苦労もあるんじゃよ」


侶死のフォローも耳に届かない。


不死は自分と会っても嬉しくないのか?むしろ再会を果たした今の方が不死にとって悪い状況ならば自分はなんのために半年間も不死を待っていた?こんなことになるならいっそのこと会わない方が良かった。


「カイサ!元気出して!」


雷死がカイサにすり寄ると獅死と同じようにカイサの毛が逆立った。これが雷死なりの励まし方らしい。


「カイサ、魂湖を案内しよう。時間もあることだから少し観光していけばいい」


それは人間アレルギーの獅死が出来る最上のもてなしだった。


「それは良い考えじゃ。こんな年寄りで良ければエスコートするぞ」


カイサは無理くり作った笑みを浮かべて小さく頷く。


「ありがとうみんな。じゃあ少しだけ甘えさせてもらおうかな」


くよくよしていても仕方がない。不死とは明日の精霊魂交のときにじっくり話し合えばいいではないか。カイサは踵を返すと魂湖に向かう。


「ごめん。でもその前にこの場所でずっとしたかったことがあるの」


魂湖の水を飲んでいる死狼達はもういなかった。カイサは魂湖のほとりに腰を下ろす。


「クシ、久しぶりだね」


カイサは〝一番の親友〟が眠る魂湖の前でただ一人たそがれた。後ろの方で侶死達がひっそりと離れて行く。


「今はカイサをそっとしておいてやろう」


カイサは膝を抱え込んでそのまま座る。


クシと過ごした時間は、不死よりもずっとずっと短い。それでも不死への想いに引けを取らないほどの愛しさが胸の中に溢れて広がっていった。


「……会いたいよ、クシ」


今は亡きクシが沈んだ魂湖の底を覗き込むとカイサの顔が魂湖の赤い水面に映る。


『クスクス、クスクス、クスクス』


幼い女の子の笑い声――。


先ほど魂湖に入ってきたときにも聞いた声だ。深山に広がる雪原のような静寂の中をさっきよりも大きなその声が鈴を転がすような音で木霊する。



『クスクス、クスクス、クスクス』



すると不思議なことに覗き込んだ魂湖の水が独りでに波打った。



『クスクス、クスクス、クスクス』



波打ちながら広がっていくその波紋は水面に映ったカイサの顔をゆらゆらと掻き消す。



『クスクス、クスクス、クスクス』



波紋がおさまってカイサの顔が再び水面へとおぼろげな輪郭を描いていくと――。



『クスクス、クスクス、クスクス』



奇妙にもその水面に映ったカイサの顔は――真っ黒な〝影〟だった。



「カイサ、大丈夫か?」


ハッとして我に返る。気付くと侶死に前足で服を引っ張られていた。


「危なかったわい。お前、魂湖の中に飛び込もうとしておったぞ。沐浴なら魂交をする直前で良い」

「え?」


カイサは自分の立っている場所を見ると――確かに。カイサは魂湖に足まで浸かっていた。もう少し進めば全身が浸かってしまうほど深い場所まで到達するところだったのだ。


カイサは侶死に礼を言うと魂湖から上がった。幼い女の子の声はもう完全に聞こえなくなっている。


何が起きたのかいまいち状況が呑み込めなかったが、侶死が飛び込もうとした自分を見つけてくれたのは本当に運が良かった。カイサは半年経った今でもまだ泳げなかった。


「さて、そろそろ行くか。あの石の建造物は数千からなる部屋があって、全部を見ることは今日一日では叶わんが、普段ワシらが使っている部屋だけなら一時間もあれば全て見せられる。ついて来い」





石の建造物の内部は侶死の言った通り幾つもの部屋が複雑に入り組んでいた。石の通路は行きたい場所を思い浮かべればそこまでの最短距離で勝手に生成さられるらしい。


また屋上には魂湖の天井部に浮遊する湖から差し込む日光と水の精霊と地の精霊の精霊魂器の加護によって作物が育つ畑が沢山あって一年中、様々な種類の収穫物が取れるのだそうだ。


ただ残念ながら精霊魂器で家畜を直接育てることは出来ないため、食べ物に全く不自由しないと言ってしまうとそれは嘘になるが、しかしこれだけ沢山の穀物を取れれば豚などの家畜を飼育するにはまず困ることはないだろう。


それから建造物内には『漢字』と呼ばれる象形文字がいくつも見受けられた。〝動く絵〟が描かれた石の壁画の前で二人が足を止めると漢字が浮かび上がる。


「これって漢字でしょ?」

「そうじゃ。人間界では古代文字はそのほとんどが失われ、漢字の名前も位の高い者にしか与えられぬと聞いておったのじゃが、もしかしてお前読めるのか?」


カイサは首を振る。


「ごめんなさい。あまりよく分からないんだけど。簡単な漢字はクイネおばさんから教えて貰った」

「なるほど。どんなことが書いてあるか気になるか?ワシも少しなら読めるんじゃが」

「人間と死狼のこと?」


侶死は遠い世界の人々に憧憬を馳せるように言う。


「ああ、そうじゃ。人間と真の心の姿を取り戻した死狼が結婚することも認められておったらしい」


人間と死狼の結婚と聞いてカイサの顔が少し曇る。もし仮に自分が死狼の不死と結婚出来たなら――という叶わぬ幻想が刹那頭によぎり、その後、すぐさまさっきの不死とのやり取りが思い出されて一瞬で現実に引き戻されたからだ。


「カイサどうかしたか?大丈夫か?」


侶死がカイサの顔を覗き込む。カイサは考えを振り払うように頭を激しく振った。


「う、うん大丈夫。えっと……他にはなんて書いてあるの?」


侶死は「うむ、そうか」と安心したように微笑んだ。カイサは話が流れたことに一旦胸を撫で下ろす。


「ふむふむ、そうじゃな。魂湖のことも書いてあるぞ。ここまで大きな魂の湖を作ったのじゃから当然じゃが千年近くの時間を要したと言われておる。影の精霊を恐れた人々は毎日のように魂湖で沐浴をしたそうじゃ」


カイサはだだっ広い魂湖が沐浴をする人々と魂湖の水を飲む死狼達で入り混じりぎゅぎゅう詰めになった絵面を想像する。なかなかの地獄絵図だ。


「王族のことは?トキさんも王族だったって聞いたんだけど」

「王族達は不死身の死狼とともに人間と死狼の両者を統治していたようじゃな」


侶死の話を聞きながらカイサは伸びをした。そろそろ休みたい。今日は色々なことがあり過ぎた。正直心身ともにかなり疲弊している。


「ごめんなさい。ちょっと疲れたから部屋で休んでくる。確か昔の王族達の部屋でいいんでしょ?」


その場を離れようとしたカイサに侶死が釘を刺した。


「不死のことはあまり気にするでないぞ。お前とどう接するべきかあやつも悩んでおるんじゃろう」


カイサは今にも壊れそうな儚い笑顔を侶死に向ける。


「うん。私もそう。もし昔の人と死狼が結婚出来たなら――私と不死も――なんてね」


侶死は少し気まずそうに沈黙した。しかしやはりというべきか不死の肩を持つように言い加える。


「……ああそうじゃな。ただ不死にもトキという存在があってな。それさえなければ――」


カイサは侶死の言葉を最後まで聞かずに目を伏せると無言でその場から立ち去った。


トキさんが自分と不死の障害であることは重々承知している。侶死は一応気を使った言い方はしてくれたようだが、しかし今のカイサの心に侶死のその言葉は鉛のように重くのしかかった。

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