第4話 初めての苗字

それからクイネはカイサの家に毎日訪れるようになった。


イチナも以前は週に二回ほどしか来ていなかった癖に今では皆勤賞だ。全く分かりやすい奴というかなんというか。


クイネがイチナに料理や裁縫を教えて、それが終わるとイチナは家に帰り、今度はカイサに文字を教える寺子屋が始まる。


クイネはまだ知らないことの多い二人、特に母親のいないカイサにとっては良い先生だった。


イチナは器用ということもありクイネの教えたことをスポンジのように吸収していった。クイネ曰くイチナは〝末恐ろしい生徒〟とのことだ。


カイサもまたクイネの指導を受けて読み書きがどんどん上達していった。


「じゃあ次、自分の名前を書いてみて」


カイサはイチナに借りた手帳に羽ペンの先を軽く走らせる。

『カイサ』と書かれた名前は文字を習いたての生徒とは思えないほど綺麗に書かれていた。


「こんな感じですか?」

「うん、上出来よ」


クイネは満足げに首肯した。


「でもなんか足りないような……カイサちゃん、そういえば苗字は?」

「ありません。死狼餌になったときに親とは生き別れて今となってはカイサという名前しか残ってません」

「あら、それは可哀想ね……」


クイネは腕組みをする。


「じゃあ一緒に考えてあげるわ」

「今考えるんですか?まあどっちでもいいですけど」


今まで特に気にしたことはなかったが、確かに死狼餌ではない今のカイサにとって苗字は後々必要になるだろう。


「うーん、それじゃカイリキカイサとかどう?リンちゃんも名付け親になれて喜ぶんじゃない?」


「真面目に考えてます?」


「じゃあ、ムキムキカイサ」


怪力から離れろ。


「分かった。じゃあ私の苗字を上げるわ。親子みたいでしょ?」


は?嫌だ。


「そんな顔しないで。冗談よ。ふふっ」


クイネは立ち上がると手帳の空白をトントンと人差し指でさし示す。


「まあ取り敢えず今は私の苗字と自分の名前を合わせて書く練習。苗字は後から決めればいいから書いてみて。私の苗字は『サクミ』よ」

「分かりましたけど……」


気恥ずかしさを覚えるカイサ。しかし遠慮がちに紙へと羽ペンの先を沈める。しかし書き記して名前を見下ろすと微笑を浮かべた。うん、悪くない。


「苗字があるっていいですね。人から貰ったものでも嬉しい」


中々上手に書けたし記念に残しておこうかな。


「額縁に入れて飾って上げるわ。どこに飾る?」


恥ずかしいからそれはやめろ。


クイネはカイサのやや控えめな制止を振り切ると――イチナとカイサのツーショット写真の入った写真立てに半ば強引に入れた。


「うん、カイサちゃんとイチナちゃんと私。三人の思い出が詰まった写真立ての完成ね」


クイネおばさんはこっちの気も知らないでほくほくとした笑みを浮かべた。


「ところでそろそろ本とかも読めるようになったんじゃないかしら?」


本――今まで文字に触れたことのなかったカイサにとっては無縁の長物だった。あんな文字の羅列を読んで何が楽しいのだろうかと昔は内心小馬鹿にしていたものだが。


クイネが革の鞄からそこそこ分厚い本を引っ張り出した。


「これ私の好きな本よ。あなたに上げるわ。児童書だから簡単に読めるわよ」


――美女と野獣。赤ずきんちゃん。何だこれ。


「ゆっくり、一日一ページでもいいから読んでね。継続は力なり、よ」


クイネはそう言い残すと嵐のような勢いで家を出ていく。カイサが机に突っ伏すと洪水のように疲れがドッと押し寄せてきた。


「あーもーやだ」


本をチラッと一瞥するカイサ。まあでも、少し読んでみようかな……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る