第5話 冷たい心
「あの……クイネおばさん。この本凄く面白かったです」
それはカイサが二冊の本を受け取ってから二日が経った日のことだった。
イチナが帰ってから間もなくしてカイサがクイネに声を掛けたのだ。
「え⁉もう読んじゃったの?」
クイネは差し出された二冊の本を見て驚嘆する。
「他の本もあります?」
クイネは満面の笑みを浮かべてカイサの頭を撫でた。カイサは遠慮がちに頭から手を払うがクイネは気分を害したようではない。
「偉いわねカイサちゃん。本は好き?」
「ま、まあ、それなりに……」
カイサはクイネの度が過ぎたリアクションに面食らう。
「じゃあこれ。とっておきの本」
クイネは仰々しく革の鞄から『Cold Heart』と書かれた本を取り出した。
埃と手垢だらけ。おまけに所々破れていて思わず素手で触るのを躊躇してしまう――とてつもなく年季の入った本だった。
カイサはまるで年代物の貴重な書物を鑑定しているような錯覚を覚える。クイネが口上でも述べるように語りだした。
「この本はね、氷の魔女によって心を凍らされてしまったお姫様を王子様が救おうとするお話よ」
「うーん……おもしろそうですね」
ありきたりな話だなとカイサは思う。
「陳腐な話ってみんなは言うけど、でもこの本凄く深いのよ?最後のどんでん返しが凄いの。実はお姫様の心が凍ってしまったのは、魔女の魔法ではなくて魔女の美貌からくるお姫様の嫉妬心だったってオチで――」
オチ言っちゃったよ。
「で、結局ね、氷の魔女の善行によってお姫様の凍った心は溶かされるの。魔法とかではなくてただの親切心で――」
一応、オチには捻りが効いているようだ。カイサは軽く相槌を打った。
「皮肉が効いていて良いですね」
「ふふっ、ええ、そうかもしれないわね。でもそれだけじゃないの」
クイネが急にこちらへと強い意志のこもった眼差しを向けた。
「この本はね、〝人の善意〟というものを何よりも真摯に描いているの」
「……人の善意?」
予想外の切り返しにカイサは眉をひそめた。話が思わぬ方向へと脱線した上に関心のない話題にすり替わり、カイサの声色は僅かながら冷ややかになる。
「人が持つ善意には不思議な力があるってこと。人は善意によって変われるんだと、この本は私に教えてくれたの」
クイネは『Cold Heart』の埃と手垢だらけの表紙に手を添えた。
「……だから、私はいつも村の人達にお世話を焼く。相手だけじゃなく、私自身も変われるかもしれない。もしかしたら小さな親切の積み重ねが自分を変えて、どこかの誰かにとって必要とされる自分に生まれ変われるかもしれない――そう思って」
カイサはそれに返答せずただ口をつぐんだ。クイネの考え方に対して疑問を抱かずにはいられなかったからだ。
要するにだ。クイネおばさんの常日頃から行っている親切はただただずれていると、そう思うのだ。
どこか押しつけがましいような、見ていて痛々しいような、とてもではないが傍から観察していて気持ちの良いものではないと。
独善的と言ってしまうと、それは少々言い過ぎになるのかもしれない。
しかしクイネおばさんのその行為に人を変えるだけの不思議な力――つまり人を想う気持ちが宿っているのかと言うと自分は首を傾げてしまう。
それら親切の裏に善意や思いやりが伴っているのかと、正直疑いたくなるのだ。
そしてそんな身勝手な親切をされても、自分はその親切を素直に喜ぶことが出来ないし、クイネおばさん自身が変わるとも到底思えない。
思うにもし本当にそんなことを信じているのなら、クイネおばさんは善意が持つ『不思議な力』というものを過信しすぎているような気がしてならないのだ。
それに普段からクイネおばさんが自分に対して行っているお世話焼きもそうだ。
この村の極々一部の人はよそ者で〝普通と違う〟自分のことをいつも当たり前のように白い目で見てくる。その言動に自分が苦しめられているのもまた事実だ。
しかしクイネおばさんがそんな自分に余計なお世話を焼いたところで、その善意が村人達に伝わらなければ結局自分に対する認識は覆らないだろうし、そんな浅はかな考えから生まれてくる親切で自分がクイネおばさんのことを深く信頼することもないだろう。
つまりクイネおばさんが自分にとって必要とされる人物に生まれ変わることなど、きっと起こりえないのだ。
「それにあの野次馬達もリンちゃん達も悪気があってやってるわけじゃなくて、ただ単にカイサちゃんのことが物珍しいだけ。村に来てまだ半年の死狼餌でしかも怪力持ちの少女なんて、そりゃ誰でも好奇の目で見たりちょっかい出したくなるわよ。多分、皆はまだカイサちゃんの良さを知らないだけ。きっとお互いをよく知り合えばカイサちゃんもあの人達の良い部分が見えてくるわよ。うん、きっとそうよ。ふふっ」
的外れな意見に頭に血が上る。村の人達がそんなに優しい人達とは思えない。無責任に人を傷つける言葉を吐く。そのどこに思いやりがあると言えるだろうか。カイサは唇を噛みしめた。
さっきから心が針で刺されるようにチクチクと痛む。自分でも分かってるくせに他人から言われて更に自分のみじめさを深く痛感してしまう。
苦しくて、逃げ出したくて、泣き出したくて、でもどうしようもない。今を変えることが出来ない弱い自分がいる。
「クイネおばさんはお人好し過ぎる」
「あら、それどういう意味?」
「だって!私の良さって……クイネおばさんは私の何を知ってるんですか⁉私がどんな気持ちで村の人達の悪口を聞いているかだって知らないくせに……。それに土足で人の心にづけづけと踏み込んで……親切が何なのかも、結局分かってないじゃないですか!」
言い切るとカイサは俯いた。クイネはカイサの揺れた瞳をじっと見つめ心を見透かしたように目を細めると柔和に答えた。
「ええ、そうかもしれないわね。でも――」
クイネが『Cold Heart』の本を優しく撫でる。
「〝何が正しい行いかを知ること〟。この小説に出てくる言葉よ。王子様が氷の魔女を説得しに行くときに言うこの言葉。それが私の生き方なの」
カイサは顔を上げた。
「……正しい行い?」
「私ね。昔、息子が〝いた〟の」
含みのある言い方にカイサは思わず目を瞬いて聞き返した。
「いた?」
「……うん。多分今頃、あなたぐらいの年に成長していたはず」
「もしかしてその子、今は……」
クイネはクスッと小動物のような笑みを浮かべた。
「ええ、もうこの世にいない。ちゃんと話すからそうせっつかないで」
クイネは彼方の茫漠とした地平を眺めるように目を細めるとゆっくり語り始めた。
その遠い瞳は深い悲しみに彩られ、声もまた雨風に晒されて萎れた稲穂のように元気がなかった。
「もう六年も経つのね。あの子を失ってから……」
*
その悲劇が起きたのは身の芯も凍るような真冬だったという。
その頃、クイネの息子は村の子供達からいじめを受けていたらしい。
しかしクイネはそれを黙認――咎める勇気がなかったのだそうだ。
そしてある日、クイネの息子は忽然と姿を消し、冬の寒波が過ぎ去った数週間後、雪解けとともに死狼の森で死狼に襲われ本人かどうかも判別不能なほどに全身を損傷した遺体が見つかった。
息子が失踪した日、村では集会があり全員にアリバイがあったのだという。その上、クイネの息子は臆病で普段は死狼の森に絶対近づかない。
それはつまり彼が危険な死狼の森に意図して入ったということ。恐らく自殺したのだとクイネは言う。
それでもクイネは息子をいじめた子供達を咎めることはなく、その子供達も今は大人になって村を離れているらしかった。
そしてそのことが六年経った今でもクイネを苦しめ、皆にお世話焼きをしていることの主な動機となっているのだという。
*
クイネはカイサから『Cold Heart』の本へと視線を移すと、目を細め物憂げな微笑みを浮かべた。
「私は決して息子にとって良い母親ではなかった。母親失格。いえ人間として……。それでも私は信じてる。善意が持つ不思議な力が私を変えてくれる日が来るんだと。きっとこんな自分でも許されるチャンスはあるんだと――」
話を聞き終えたカイサはただ黙していた。なぜならカイサにとってその話は議論の余地がないほどすんなり腑に落ちたからだ。詰まる所、クイネの余計なお世話焼きはただの贖罪に過ぎなかったのだ。
自分の過去の行いが後ろめたくて、その間違いを正したくて、結果人々にお世話を焼くことがクイネおばさんの親切の本質なのだとしたら、自分はその親切を否定的に捉えることしか出来ない。
それこそ――お節介。誰がそんな不純な親切を喜んだりするだろう。
きっと、受ける側も施す側も、お互いがいい気分になることは決してないし、実際に自分もそこまでクイネおばさんのことを信頼しているわけではない。
クイネは本を片手で抱きかかえるとカイサの頭に優しく手を乗せた。
どうしてだろうか……。それはほんの一瞬だった。
もう今となっては誰の母親でもないその手は、触覚のないカイサでも痛いほどに、〝そう〟感じられた。
それは、どこか懐かしいような、しかしやはりカイサにとってはとても縁遠く経験のない、そしてなぜかとても深い想いを孕んだ――そんな優しい、〝母親の手〟だった。
「〝何が正しい行いかを知ること〟――私はあの日からその言葉の答えをずっと探し続けている。あの子を失ったあの日から――」
カイサは露骨に顔を顰める。
「分かってる。私の親切を嫌煙していることも、そしてその見え透いた偽善のせいであなたが私を良く思っていないことも、全部分かっている」
「でも私はこれからも、その言葉の本当の意味を誰かに示せるまで、人々に親切をしてお世話を焼き続けていくんだと思う」
「たぶん、あなただけじゃなく、私の親切は誰からも喜ばれてないし、誰からも必要とされてない」
「でもいつか、どこかで、きっと誰かに、私という人間を分かってもらえると、そういう日が来るんだと、そう信じている」
「この本のように私の親切が、誰かの凍った心を溶かして、誰かの心の『影』を癒して、私が認められる日が来るんだと、そう願っている」
「だから、あなたも負けないで欲しい」
「救いようのない心の『影』を目の当たりにしたときにこみ上げてくる――その〝嫌悪〟――を忘れないで欲しい」
「あなたはこれからも沢山の人達の中にある心の『影』を目の当たりにすると思う。それは生きていく上で仕方のないこと」
「でも私は、人が持つ心の『影』はきっと変われると、そう希望を持っている」
「あの子の顔を思い出す度に、その言葉を思い返す度に、私はそう思わずにはいられない。いえ、私はそう確信しているの」
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