第11話 出会い

――暗い。何も見えない。何も感じない。


私の触覚は麻痺していた。


触覚に『色』がない。温かい、痛い、寒いなど、理解は出来るがそのまま感じることが出来なかった。感覚の『色』というものが一切なかった。


一度もそれで困ったことなどなかったし、生活にも支障はなかった。でも、それはこの世に存在する全てを無意味な物へと変えた。


あの日以来――私は世界の『色』を失った。



――誰かが私の頬に触れた……〝温かい〟。





カイサが飛び起きた。暗闇。かび臭い匂い。上から水滴が落ち反響する音。そして仄かな生臭い死肉の臭気。


「そんなはずない。あの場所からはもう出たはず」


カイサはしきりに自分の体に触れる。やはり『色』がない。過去の追憶を振り払う。あれは終わったことだと何度も言い聞かす。


その温かさはまだ頬に残っていた。

ジーンと染み入るように、それはまるで吊り下げられた見上げるほど大きな鐘を打ち、いつまでも響く心地良い重厚な低音域の余韻に浸る、そんな感覚。


その『色』は今のカイサにとって全く現実味がなく、しかし確かに実在し、また現実だった。


カイサは上を見上げた。光の筋が雲を突き抜け天国へと死者を誘う神光を思わせる。その光芒の届かない闇、奥で気配がした。〝何か〟がいる。


カイサもまた身を翻し闇へと撤退した。カイサはその得体の知れない〝何か〟と光を挟んで対峙する。


「誰?」


その声は決して〝何か〟を恐れてなどいなかった。むしろ闇から引きずり出しそれを食らうほどの恫喝。


「お前こそ誰だ?」


深みのある野太い声。人間、いやそれか心を持つ死狼。侶死はここに人間の死体を隠すと言っていたがもしかして生きた人間もいるのだろうか?


それとも順当に考えればやはり死狼。足に何かが当たった。シラカバの枝のようなもの。他にも沢山ある。


……骨?


それは人間の骨だった。そこら中に人間の骨が散乱している。カイサはナイフを抜いた。

人間か死狼かは分からないが、恐らくここで人が大勢死んだ。ここは安全な場所ではない。カイサは自らを奮い立たすように力強い一歩を踏み出す。


「出てきて!姿を見せて」

「出来ない」

そいつはすぐに返した。

「なぜ?」

「俺は怪我をしている。逃げられないよう脚の筋を切られた」

「あなた人間?」

「ああそうだ、助けてくれ」

「待ってて。今行く」


カイサはナイフを仕舞うと光の中に姿を見せた。その瞬間、斬撃が飛んだ。

反射的に顔を引いたカイサの鼻先を長い鉤爪が通り過ぎる。かすったが傷は浅く、朝露の雫のような血を残しすぐに塞がった。


「ほう、死狼餌か」


カイサは再び闇へと転がるように撤退した。

こいつ死狼だ。騙された。鼻の血を袖で拭う。

攻撃を受けたときこの死狼の腕以外の体が全く見えなかった。こいつの肩すら光の中に入っていなかった。かなりリーチが長い。


カイサは骨を拾い上げると前方に軽く投げる。骨が光を通り過ぎ、また闇に消えた。鈍い音。そいつに当たった音だ。いる方向は分かった。


「安心しろ。今の攻撃で全ての力を使い切った。俺はもう何も出来ない」

また嘘、そいつの性根が窺い知れる。

「誰があなたを信じるって言うの?」

「さあな。だが――」


……ズズズ。


這う音がする。カイサは身構えた。音が近づく。そいつが近づいてくる。

そいつの頭部が光の中に現れた途端、その頭に狙いを定めカイサはナイフを両手で逆手持ちにして飛び掛かった。ナイフが深々と頭に突き刺さる。確かな手ごたえを感じた。


「へ?」


思わず戸惑いの声を上げる。

光に照らされたその死狼はこの世の生き物とは思えなかった。いや生きているとは思えなかった。

かつては灰色だったはずの体毛は長い年月を経て白銀に変わり、その体毛の下の胴体は骨しかなく、四肢は節くれておまけに筋の上に膜を張ったように皮がへばり付いていた。


そいつは言いかけた言葉の続きを言った。

「俺は死なない。警戒しても、攻撃しても、どの道無駄だ」

そして血の滲んだ目を向け言葉を繋ぐ。


「俺は永遠を生きている」


そう豪語した。

カイサはナイフを抜いてその死狼を見下ろした。死狼の傷口はまるで死狼餌の再生ように塞がっていく。


〝死なない〟この死狼まさか―――。


「あなた、不死?」


ほう、と笑う。

「俺を知っているのか。そういうお前こそ死狼餌だな?」

「だったらなんだ⁉この化け物」

「死狼は人間の肉を食べる。この意味が分かるか?」


ナイフが光芒の光を受け一閃、それを振りかざす。

隙だらけだ。大きいが見たところ大分弱っている。勝てない相手ではない。

「俺は生きなくてはいけない。だからお前の肉を頂く」

「どうせ生き延びたところでここからは出られない。哀れね」

「いや俺はただ生き続けられればそれでいい」

カイサはその皮肉さに嘲り笑い飛ばす。

「死ねないだけでしょ?」

「少々訳ありでな」


カイサはワザとらしい素振りであちこちに散乱している人骨を見て言った。

「で?そのために何人も人を殺すの?」

「俺は死狼だ。必要ならば殺す」

「私も?」

「ああ」


永遠の命のために人を殺す。私利私欲のために人の命を奪う。こいつは永死や狂死と同じだ。


「今、ようやく分かった。私はお前みたいな化け物を殺すために生まれてきたんだ」

「ああそうだな。しかし……」

不死は鼻につく嘲笑を浮かべる。

「殺せるものなら殺してみろ」


肩を怒らせ不死の魂胞を蹴り上げようと足を振り上げるとそこで止めた。

不死の魂胞は萎み切って見る影もなかった。為す術なく立ち尽くし、ふとそいつが何かをこちらから遠ざけるように胸に押し当てているのを見つけた。


やせ細った左前足を曲げて後生大事そうにそれを抱えている。カイサは少し迷ってから仕方なくそれをぶんどった。

思った通り不死は相当弱っていたようで全く抵抗しなかった。


「返せ」


二人はちょうど片腕一本伸ばした距離で睨みあう。

「それは、俺の命と、同じくらい、大切な、ものだ」

その死狼の雰囲気が少し変った。カイサは少し、ほんの少し、ごくごく僅かに後退った。


さっきより大きくなった気がする。いや、体のもう半分がまだ闇の中にあるのでよく分からないがもしかしたら興奮して勢いよく息を吸い込みそのせいで体が大きく見えただけかもしれない。

カイサは片手で握れば、綺麗に拳の中に収まってしまうほど小さな〝それ〟を見つめた。


「何これ?」


ただの首飾りだ。銀細工の首飾り。恐らく死んだ人間から奪った物だろう。売ればそれなりの値は付くかもしれないがこの死狼が今〝金〟に困っているようには見えなかった。


「ただの首飾り。そんな大事な物なの?」

「俺の、命と、同じ、くらい、大切な、ものだ」


自分の判断が正しかったことを知りカイサは満ち足りた意地悪な笑みを浮かべた。

「じゃあ、奪い返してみろよ。この化け物」


不死が唸り声を上げた。四つ足で立ち上がると魂胞が音を立てて鼓動し膨らんだ。体の筋肉が脈打ち隆々と盛り上がる。


その巨大さは狂死をも凌ぐほどだった。

もはや別の生き物、死狼ですらない。またどこにこんな凄まじい生命力が残っていたのか、それとも化けの皮が剥がれただけでこれがこの不死という死狼の真の姿なのか、ともすれば自分は間違いを犯したのだろうか。


カイサが慌てて風船のように膨らんだ魂胞を蹴り上げると不死は苦悶の悲鳴を上げ穴が開いた気球のように一瞬で萎み、すぐに骨と皮だけの貧相な体に戻ってしまう。


カイサは拍子抜けの余りしばし呆気にとられそれから思わず噴き出した。腹を抱えて涙が出るほど大笑いする。


こいつ偉そうなくせに可愛そうなくらい弱い。


それは人生で初めての大笑いだった。しばらく笑いが止まらなかった。そんなカイサの横で不死は呻きながら前足で魂胞を抑え涙目になっている。


「返すよ」

首飾りを差し出した。


許したのとは少し違う、ただ流石にこの死狼が可哀想になってきたのだ。こんな状況ではまるで自分が悪者のようにさえ思えてしまう。

不死は乱暴にそれを受け取ると体を引きずりながらカイサから離れた。


「ところでそんな弱いのにどうやってこんなに沢山の人間を殺したの?」

「この骨は俺の食べ物だ。殺したわけではない」


カイサは黙り込んだ。さっきと言ってることが違う。


「もう一度聞くけどなんでそんなに生きたいの?しかも骨だけしか食べないで」

不死はじっとカイサの目を見つめて言った。

「生きたいからだ」


カイサは再び黙り込む。なぜ生きたいのか全く伝わってこない。


カイサは改めて不死のやせ細った体を見た。長い間ろくに何も食べていないことは一目瞭然、食べ物は骨だけ、暗闇、死ねない、孤独、それは常人が耐えられるものとは到底思えなかった。


はたして大した理由もなくここまではっきり生きたいと言えるものなのだろうか。そこでカイサはあることを思い出した。


「ちょっとじっとしてて」

「何だ?」

カイサは銀糸のように輝く体毛に覆われた不死の体に手を沈めた。同時に目を見開く。


そいつは〝温かかった〟。

それだけではない。そいつには確かに『色』があった。


自分の小さな体を全て飲み込むほど厚みのある毛束が肌をくすぐり、そこからクッションのような毛の塊に着地し、そこを通してそいつの体温が伝わってくる。


その全てに『色』があった。


カイサは不死の毛並みをゆっくりと確かめるように撫で、それから自分の体と不死の体を交互に触る。

「すごい」思わずそう呟いた。


「何のつもりだ?」

「ごめんないさい。なんでもない」


慌てて手を引っ込めるもそこにはまだ不死の『色』が擦りむいた傷口のようにヒリヒリと熱を帯びていた。不死は気まずそうに咳払いして言った。


「まあいいだろう。ところで俺は今、弱っているが本来ならば強い」

カイサは自分の手を見て呆けている。

「おい!聞いているのか⁉死狼餌」

「あ、ごめん」

面喰って弱々しくしか返せない。


「そこで頼みがある。俺を助けてくれ。ここから俺を連れ出してくれるやつがいるなら俺はなんでもする」

その言葉がカイサを現実に引き戻した。

「何でも?」

「ああ、望みを言ってみろ」


言われるまでもなく即答する。

「永死ってやつ、殺せる?」

「容易い。やつはまだ俺を魂砕出来ん。いいだろう。永死を殺そう」


回り道はしたが事が上手く運んだ。カイサは即決で不死への協力を決めた。

「分かったわ。あなたをここから出して上げる」

「決まりだな」


不死は握手をしようと手を差し伸べた。人間の真似事だろうか。変わった死狼だ。


普段のカイサならこんな死狼とは絶対に握手などしないが、しかしその時ばかりはその〝温かい〟手を両手でそっと握った。

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