第12話 闇の中で彷徨う(前)
不死の牢獄は広い縦穴だった。
石造りの堅牢な造りで深さもさることながら横幅もかなり広く、小さな家ならば綺麗に格納出来そうだ。
排水のための側溝と思われる底面周囲の窪みが直径四十センチほどの排水溝まで続いている。
しかし痩せ細っている、華奢という表現を大きく逸脱した今の不死の体でもやはりそこは通れない。胴体の骨格がまず引っかかるだろう。
排水溝の入り口に太い鉄柵があったようだが物凄い力を加えられたらしく、ここから出入りしろと言わんばかりに横に押し広げられている。
また横穴の上下の縁部分にだけ石材を掘削したような跡、周りには痛々しい引っ掻き傷、そしてこの死狼のものと思われる血痕がついていた。
恐らく不死が穴を広げようと格闘した後だろう。不死という死狼に少し同情した。
「俺は強い。腹を膨らませば誰にも負けない。肉を持ってきてくれ。抵抗があるなら〝動物〟の肉でも構わない」
……と言った不死の目は凛々と輝き、しかしやはり涎の先走りが口から漏れている。
お前の食糧のためにここを通れと――。
排水溝は小柄なカイサがギリギリ通れるほどの大きさだった。
もう一度、不死のような大きな死狼ともなれば通ることはまず不可能だということを確認すると――ため息。
穴に潜る。異臭に鼻をつまみ、ヘドロから顔を守り、おびただしい数の害虫に目を背け、匍匐前進しようとしたが、止まった。
下水は泥が取り除かれていた。それだけではなく、むしろ牢獄内よりもそこは清潔だった。
そして特筆すべきは死狼の毛と思われるものが沢山ついていること。普段ここを他の死狼が使っているのだろうか。
排水溝の先は要塞の地下だった。
まだまだ続く下水道を尻目にそこから階段を上がると要塞内部に入れた。
要塞は人間の盗品だらけだった。人間の持ち物が山のように積まれている。足の踏み場がない。まるでゴミ屋敷だ。
頭上に裂け目のような穴が開いていてそこから外の光が差し込む。死狼がいないのを確認すると盗品の山を踏み荒らすように侵入した。
不死に頼まれた動物の生肉を発見。食べ残して、灰色に変色して、蠅がたかっていたが、まあ死ぬことはない。食中毒で死ぬなど〝名前負け〟も甚だしい。
カイサはさっさと来た道を戻ろうとして思いとどまる。
〝墓荒らし〟のようだが仕方ない。
罪悪感を胸にカイサは人間の持ち物を漁る。
幸いそこに死体はなかった。兵士のものと思われるバックパックから目当ての物を見つける。
携行食の干し肉だ。
ほぼ丸一日、何も食べてない今のカイサは何か食べ物を口にする必要があった。
カイサは干し肉の匂いを嗅いだ。強烈なコショウの匂いがする。腐臭はしてこない。一口かじる。硬い。もう一度かじり付き乾いた肉の繊維を噛みちぎる。
恐る恐る咀嚼。
真っ先に塩辛さ、ピリッとコショウの風味が舌を刺激する。その後に広がる凝縮された肉の風味。噛めば噛むほど広がる肉の旨味。そして飲み込んでも、なお残る香ばしい後味。
唾液が泉のように湧く。それは本当にただの干し肉だった。兵士達のただの携行食だった。おまけにちょっと腐っていた。だがそれは涙が出るほどに美味しかった。
なぜなら、カイサはここまでしっかり〝味〟のついた食べ物を食べたことがなかったからだ。
いままで彼女が食べていた豚の餌のような食べ物には味なんてものはなかった。そう隠し味の肥満薬を除いては。
貪るようにがっつき、一瞬で平らげてしまう。こんな美味しい物、食べたことなかった。
カイサは更に他の人間の荷物を漁る。銀紙に包まれた茶色いヘドロのような物体を発見。細心の注意と警戒を目元に滲ませ匂いを嗅ぐ。
それは食べかけのチョコレートだった。しかしやはりその食べ物をカイサは今まで食べたことがなかった。
ペロッと舐めてその味に目を丸くし鼻息を荒くする。銀紙がしわくちゃになるまで『〝味知〟との遭遇』を堪能し綺麗に舐めとるとこれまたあっという間に平らげてしまう。
こんな物では当然腹は膨れない。
しかしカイサは今ここで、恐らく死狼餌だったときの食事を全て足しても遠く及ばないほどの幸福感を得ていた。
欲に手を伸ばし更に盗品を漁る。そこでカイサは人間の服も盗品の山に含まれていることに気づいた。
カイサが今、着ている服は農民が着るような服だったが、それは今まで切り抜けてきた死地の前に、もはや街角の吹き溜まりにたむろする乞食のそれと酷似していた。
カイサは盗品の中からまだ着れそうな服を集め、ドレス、軍服、炭鉱夫の作業着、その他諸々の服を検分して、それから着替え始めた。
男物の子供用のゴシック調の服。白と黒を基調としたシックなデザイン。短パンは裾がキュロットスカートのように広がり膝小僧が見えている。
シャツの上からケープと呼ばれる短い外套のような物を羽織った。髪は邪魔なのでまとめた。
身に着けたこれらの服は恐らく全て昔の貴族の子供の物だと思われた。
カイサは小柄なため大人用の服はどれも着れなかったのだ。
はっきり言って全く似合っていなかった。裸の方がまだマシだ。不死に馬鹿にされることは目に見えていたが、もうこのぼろ雑巾のような服は着れない。仕方なかった。
カイサは下水道を通り不死の元へと戻った。
不死は着替えたカイサに目もくれず腐った生肉を一口だけ食べると、排水溝の穴に頭突きを始めた。
気でも狂ったのかと、やはり腐った肉はいけなかったのか、しかし不死は延々それを繰り返す。
「ちょっと、何やってんの⁉」
「俺はここを出る。この穴を広げる」
牢獄全体が撃ち叩かれたコンサートバスドラム内部のように振動する。
それは見るに堪えないものだった。不死身とはいえ不死は血まみれだった。
最後の頭突きで首の骨が折れて一瞬起き上がらなくなったが、瞬く間に首が矯正して立ち上がる。
「お前も手伝え」
こいつ無茶苦茶だ。
「ほう、この出入り口を知っておるということはもう不死には会ったんじゃな」
侶死のしゃがれた声、頭突きで僅かに広がった穴から声がする。
「悪いなカイサ。声を掛けようか迷ったんじゃが、結局後をつけてきた」
鉄柵の間を体をくねらせやっとの思いで通り抜ける。
どうやら下水道の死狼の毛の正体は侶死のもののようだ。
彼は普段からここに出入りしているらしい。
牢獄の抜け道も恐らくこの下水道のことだったのだろう。
「この死狼餌はお前の知り合いか?」
不死は特に驚いた様子はない。
「ああ、そうじゃ」
「この穴を使うとは珍しい。今日は特別な用事でもあるのか?」
侶死は少し勿体ぶってから喜々として言う。
「いや、お前をここから出してやろうと思ってな」
「何⁉どういう風の吹き回しだ?」
「まあ、待て」
侶死がカイサを見た。少し表情が険しい。
「お前、盗品の干し肉をつまみ食いしていたな?」
その理不尽な物言い、カイサの頭に理性が焼き切れるほどの血が上った。
「だからなんだ⁉お前らだって人から沢山の物や命、大切な物を奪うくせに!」
侶死は下水道から麻袋を引っ張り出すとカイサに投げつけた。
「ほれこれをやる」
「え?」
麻袋の中身を見るとミートパイが丸々一個入っていた。カイサは放心した。
一人では到底食べきれないほど大きなミートパイが目の前に鎮座している。形は良いとは言えないし所々、具がはみ出していたがとてもいい匂いがした。
「干し肉よりこっちの方がうまい。昨日、ワシが助けた人間から貰った品じゃ。ワシは食べられん」
なんと、返していいか分からない、これは、今、侶死がしたことは、なんて言うんだっけ。
「礼くらい言えんのか小娘」
「ありがとう」
そうだ。これは親切だ。生まれて初めて親切をされた。ありがとうなんて言葉一度も口にしたことがなかった。言うようなこと、今までされたことなかった。
「生きるためには食わねばならん。それは人間も同じじゃろうて」
それを聞いてカイサはボロボロと涙を流した。
皮肉にも生きることをカイサに肯定してくれたのは人間ではなくこの侶死という死狼が初めてだった。
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