第14話 クイネの過去
「お母さん今日も本読んで」
そう言って『Cold heart』の本を目の前に持ってくるあの子の姿――それが今でもありありと目の前に浮かんで離れない。
それはもう何年も前の遠い昔の記憶。もう再開することのないあの子と私の失われた追憶。
今から私が思い出すのは、私達以外の人間にはどうでもいい、ただの些細な、小さな、過去の光景の数々。
私は息子と一緒に二人で暮らす母子家庭だった。夫は私が息子を産んでからすぐに他界した。そのため私が女手一つで息子を育て上げた。
父親を知らない息子にとって私はたった一人の肉親であり、また成長していく上で心身をともに支える一番の良き理解者でもあった。
それはつまり息子が頼れた存在は私だけだったとも言える。そのため息子はよく私に甘えてきた。
息子は一人になるのが嫌で一週間以上家を空ける隣町の出稼ぎのときも、隣人に世話を頼んでいる身の上にも関わらず、帰ってくる日を何度も何度も私に聞いてきた。
それと相反するように私は隣町に出稼ぎに行くことが息子のためになるのだと自分に言い聞かせた。
もっともっとお金を稼いで息子に今よりも良い暮らしをしてもらうため、隣の家よりも美味しい物を食べさせてやるため、欲しいものを買ってやるため。
それが二人の暮らしをより充実したものにするのだと信じていた。だから私は出稼ぎに出かけるときにはあえて息子に対して厳しく接した。
強い子に育って欲しいという願いもあった。また、息子に母親の気持ちを分かって欲しいという希望もあった。
それでも私は束の間に訪れる二人の時間のときには息子に好きなだけ甘えさせた。
息子は新しいことに触れると目を宝石のように輝かせてそのことを私に報告してきた。
そういうとき私は息子の頭を撫でて、ただ「偉いね」と褒めてやると息子は猫のように私の懐に潜り込んで甘えてきた。
隣人が忙しくて息子の世話を頼めないときには息子を出稼ぎに連れて行ったこともあった。
息子は初めて見る都会の景色に目を丸くしてあれこれ私に聞いてきた。
その度に私は息子が触れる新しい知識の中に人の生き方や考え方を巧みに織り交ぜて、面白おかしく伝えた。
夜、息子が眠れないときにはベッドでよく本を読み聞かせた。息子が一番好きだった本は『Cold Heart』だ。
〝何が正しい行いかを知ること〟――この言葉を王子様が氷の魔女に言うシーンを聞かせると息子はとても喜んだ。
自分は良い母親であると自負していた。事実、自分なしでは息子は幸せにはなれないのだから。だから自分の存在意義もそのためにあるのだと。
そして、それが、そこまでが、私の思い出せる最後の幸せだった。
息子はその三年後に自殺した。『〝母親に愛して貰えなかった〟』と一言書かれた簡易な遺書を残して。
そのとき村には冬の大寒波が来ていた。息子の部屋の衣類を確かめて、ろくな防寒着も身に着けずに死狼の森に入って行ったのだと知った。
私は息子を探さなかった。ただ、その遺書を燃やして見なかったことにした。私がそのときしたのはそれだけだった。
二日後には息子が失踪したことが村中に知れ渡っていた。どこに行ったのか周りから聞かれても「知らない」の一点張りで押し通した。
意図したわけではなかった。そうなって欲しいと願ったわけでもなかった。ただ人々はその事件の解決を求めて、犯人を吊るし上げるために、怒りの矛先は自然と私の息子をいつもいじめていた子供達に向いていった。
そして冬の寒波が過ぎ去り死狼の森から無残な息子の死体が見つかると、彼らの怒りはさらにその子供達を追い詰めていった。
その子供達は村八分にされて大人子供問わずに周りからひどいいじめを受けた。
正直、ざまあみろと思った。
村人の勘違いだと知っていても、たとえ自分のせいだと分かっていても、息子を不幸にしたのは、息子を死に追いやったのは、実は彼らのせいだったんだと、それがこの事件の真相なのだと、そう思える気がした。そう思うだけで自分を許せた。
そして私は村人達からその同情を一身に浴びた。
その頃からだったと思う。他人にお世話を焼くようになったのは。
真実を欺いて、他人に責任を押し付けて、お門違いの同情を買って、そんな自分を許し続けるために、そのお世話焼きは、望まれない親切は、他人に向ける笑顔は、自分をさらに〝嘘〟で塗り固めていった。
それが私の犯した罪。
私はずっと罪を背負って、心の闇を悟られないよう笑顔を振りまいて、他人にお世話を焼いて、自分を正当化した。
でも私は心の影に負けた。
〝何が正しい行いかを知ること〟――結局、息子が好きだったその言葉は自分にとって一番相応しくない言葉だった。
どこまでもただの憧れであり、理想であり、こうありたいという願望だった。
きっとこんな自分にはおこがましいことなのかもしれない。
でも、あの本の王子様が放った言葉を息子が聞いて喜んだように、自分も他の誰かに喜ばれる存在になりたかった。あの本の王子様のように穢れのない善意で誰かを救いたかった。
目を閉じると浮かぶ光景。いじめを受けている息子の寂しそうな背中。そしてそこに重なるカイサの後ろ姿。
自分の親切は果たして彼女を救ったのだろうかと……。いや、これもまた偽善なのかもしれない。
ただ今になって言えるのは、結局のところその偽善も、誰かに自分という存在を分かって貰いたかっただけなのだろう。
あの時、あの子が私に寄せた惜しみない信頼のように、もう一度誰かに、大切な人として受け入れて貰いたかったのだと。ただ、ただそれだけなのだ。
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