19

「彼等はキミが好きだった。霊異は自分が何かを知っている。人とは違うと分かっている。魂の宿った、ただのガラクタだと理解している。それなのに、ただ友人として接してくれたキミのことが好きだった。じゃなきゃ説明が出来ないんだよ。ここに居続けた事も。家を隅々まで掃除したことも。全てはキミに会うため。キミの帰りを、彼等はずっと待っていた」


 カタカタと、物達が震える。まるで怒りを覚えているかのように――



「そりゃあ嬉しくて飛びついてしまうさ。ずっと待ち続けたキミが来たんだから」


 ――喜びに打ち震える。


 徐々に、徐々に近付いてくる茶碗が私の元に到達する前に、私の方から近付いて拾い上げる。

 震えはピタリと止まった。私に対する害意は、もう全く感じられない。



「一生来ないかもしれない人を待ち続けることは、言うほど簡単じゃない。なのに当の本人が何も覚えていないだなんて、あんまりにも酷だと思わないかい」


 骨董たちを拾い集める。縫い跡だらけのお手玉。ひび割れた手鏡。欠けたおはじき……鴟蛇さんとの闘いで真新しい傷に隠れて在る古傷に、覚えがあった。


「ごめん、なさい……」


 謝罪が口をついて出た。


 怖いだなんて思ってごめんなさい。忘れていて、ごめんなさい。


 私の大切な、友人達。


「キミは人形を見にこの部屋に来ていたんじゃない。いや、正確に言うならば、観賞しに来ていた訳では無い。人形はいつ動くようになるのかを……そう。キミは『』を確かめに来ていたんだ」


 毎日毎日、飽きもせずにこの部屋を訪れた。骨董の友人達と共に人形を眺めた。

 だって、寂しかったのだ。友達は沢山いても、言葉を話してはくれなかったから。笑顔を返してはくれなかったから。


 人の姿をしたこの子なら、それができると思ったのだ。


「そうだ、寂しかったはずだ。孤独でなくとも……否。孤独じゃないからこそ、キミは人からの愛情に飢えた」


「……っ」


 突き刺すように頭が痛む。思い出すなと魂が叫ぶ。必ず傷つくことになるからと。こんな頭の痛みなど可愛いものに思えるくらいの、凄絶な苦しみがこの先にあるからと。


「『顔を合わせることも余り無い』母親と上手くやっていただって? キミが寝静まっていた頃に帰ってきては祖母と喧嘩をするだけの母を愛していただって? 本当にそうか? キミにその記憶は確かにあるのか」


 鴟蛇さんの言葉を受け入れる度に痛みが増す。

 それでも、思い出さなくてはならない。逃げてはいけない。友達の想いに応えるために。怖がる必要のないものを怖がらないために。真実を知るために。


 鴟蛇さんの目を見つめる。


「いいえ。そんな記憶は、ありません」


 楽しかった記憶の中にいるのは、いつだって骨董の友だちと……祖母だった。


「分かるだろう? いや違うね。分かっていただろう? 思い出したかい、かぐや。キミは思い出さなきゃいけないんだよ、庭月野かぐや!」


 焼くような痛みが走る。頭にじゃない。お腹や背……服で隠れて見えない、斑点のような痣に。


「キミの身体の痣が生まれつきだって? 馬鹿な! キミだって薄々気が付いていたはずだ。見覚えすらあるかもしれないな。それは、火傷の痕だ」


 楽しかった記憶の中に、母はいない。

 だから、私が母を愛しているというのは。


「キミの母は、煙草を吸ってはいなかったか? それを、キミに押しつけはしなかったか?」


 そう私の幻想だ。


「キミの父親が死んだ理由は僕には伺い知れないけれど、恐らくはそれがトリガーだ。キミの母は、幼い娘を独りで育てなければならない、その重圧に耐え切れなくなり、壊れた」


 思い出したのは、全身の痛み。

 泣き叫ぶ私の声。涙声で笑う、母の声。

 恐怖。紫煙の香り。私と母しかいなかった狭い部屋の扉をこじ開けた、白い髪の和服の女性。


「祖母の知人と交流があったのも当然。キミは決して初めから祖母を嫌っていた訳では無いのだから」


 思い出したのは、向けられていた笑顔。

 出会ったのはきっと初めてだった。しかし、子供ながらに……子供だからこそ敏感に、この人は味方なんだと、護ってくれる人なんだと、分かった。


 どこに行くにも一緒だった。カルガモの雛みたいに後ろをついて回った。色々な人に会った。手鞠、お手玉、縄跳び、花札、囲碁、将棋……全部そこで教えてもらった。


 どこに行ったって向けられたのは笑顔だった。

 母親のそれのように狂いきった物じゃなく、どこまでも澄んで、慈愛に満ちたたくさんの笑顔が、咲き乱れる花のようだった。


「最初から祖母が苦手だった訳では無いかもしれない……それもまた、当然。母から護ってくれていたのだから。虐待の事実、その口外を恐れて、キミの母は羽衣さんに逆らうことが出来なかったのだから。キミを害することが出来なかったのだから」


 よく口論をしていた理由はそれか。

 時に物を投げるほどに気性の荒かった母が、大人しく祖母に従っていた理由がそれか。


 深く息を吸う。頭も気持ちも整理しなければ、何も言葉に出来そうもなかった。


「ここまでのことは、了解しました」


 辛いけれど。母に愛されていなかったことも、それから目を逸らし続けていた己の弱さも、友達を10年もの間嫌っていた事実も、やっぱりもう一度忘れてしまいたいくらいだけれど。


「でも、やっぱりまだ分かりません。私はどうして忘れてしまったんでしょうか。どうして祖母を、嫌ってしまったのでしょうか」


 考えても考えても、ぽっかりとそこだけは抜け落ちたまま戻らない。

 最も大切なはずなのに。真実を知るために……何より、もう一度愛すべき人を愛するために。


「証拠も何も無い、推測だけれど」


「構いません」


「キミが霊異を嫌う理由と、関連しているのだと思う」


 それは、お母さんを殺したから。

 だけどそれは、きっと。


「人形がキミのお母さんを殺したのは、キミを護るためだ」


「……ええ、はい」


 多分ね、と彼女は肩を竦めた。

 人形の髪を撫ぜる。白く変色して、艶もなくなっているが、それでもこっちの方が親しみやすい。


 誰かのために誰かを害することが正しいかどうか、私には答えが出せない。ありがとうと言ってもいいのか、分からない。


「だからこれは理由じゃない。そしてキミには霊異の友がいた。元から嫌いだった訳じゃない。何かきっかけがあったことは確かなはずだ」


「きっかけ……つまり、私が霊異に何かをされたと、考えるのが自然でしょうか」


「そう、尋常ではない何か……幼子の心に芽吹いた愛情を、根こそぎ吹き飛ばしてしまう程の恐怖体験。それは、恐らく羽衣さんと一緒にいる時に訪れた。でなければ、今ここにキミはいないからだ」


 穏やかではない言葉に目を剥く。

 だが、確かにきっとそれはそうだ。どれだけ私が幼くとも、肉体的にも精神的にも弱くとも、10年以上先まで、関係の無い友人ごと嫌ってしまう何かは、それだけの衝撃だったろう。

 考えるべきは、当たり前のように祖母と共にいたと言われたことの方。


「そして同時に、キミは羽衣さんを嫌った」


「ま、待ってください。どうしてそうなるんですか? 確かに独りで出歩けるとも思えませんから、祖母と一緒にはいたんでしょうが、それがなぜ祖母を嫌うことに繋が……」


 疑問を覚えて言葉を切る。

 独りで出歩けないから祖母といた? 違う。鴟蛇さんは、と言ったのだ。


 その言葉と、私の人生、この家の特異性が線となって繋がる。


 そう、つまり。


「……祖母は、霊異に対抗する術を持っていた」


 得たり、と頷きながらも、彼女は「ようやくか」と呆れた目をした。



「『夕方』は『逢魔ヶ時』とも言うだろう? 魔に逢う時。闇の世界の住人が、光の世界の住人を招く時間。光と闇の混在する時間。最も魑魅魍魎と遭遇しやすい時間。そんな時間に羽衣さんはよく家を辞した。仕事をしていなかったんじゃない。その時間が、専門家である彼女の主な仕事の時間だったんだ」

 

 祖母は、霊異の専門家である。


 この真実が、最後のピース。


 頬に雫を伝うのがわかった。

 欠けた記憶を無理矢理に埋めていた不純物が、押し出されて流れていく。



「思い……出しました……!」


 思い出したのは、驚愕の瞳。

 全く予想していなかった事態に陥った時、人はこんな顔をするのだと知った。


 着いてくるなと言われていた。空が染まったら、もう外に出てはいけないと言い聞かされていた。

 幼さ故の愚行。無知故の蛮勇。

 カルガモの雛だった私は、あの日もこっそりと祖母の後を追ったのだ。


 そして、真っ赤な太陽が向こう側に消え、辺りが薄ぼんやりとして現実感を失った瞬間、私は化け物に出会った。


「私は、殺されかけたんです。ここにいるのは、祖母が私を助けてくれたから」


 怖かった。幼いながらにこの先が無くなることを直感的に理解した。

 友達と同じ霊異というものが私に牙を向けたこと。本能ではなく、明確な害意で以て私に相対したことが、信じられなくて。信じたくなくて。


 しかし、最も恐ろしかったのは。


「私が忘れたかったのは、祖母の顔です。いつも優しく微笑んでいた祖母の、鬼のような形相を、私は、忘れたかったんです……!」

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