余計な話 伍
復讐心なんてものが無かったらどんなに良いだろう……そう考えたくなる気持ちは分かるが、それはただの歪みだと思う。
笑いながら殴られる人々が横行する世の中なんて、ぼくはごめんだ。
だからこの感情は正しい。
どれだけ酷薄に見えようと、それは彼女の善性を疑い得るものじゃない。
「そう。常人であるかぐやは、母親の死を喜んだ。喜んでしまった」
殴られたら怒れる心を持っていた彼女は、ただ普通の人間だった。これは、それだけの話。
「彼女には、それが辛かったんだ」
人の不幸を願うことも、死んでしまえばいいと思う人間も、殺してやりたいと思う瞬間も、常人にはきっとある。
しかし、実際に刃を持てる人間は意外にも少ない。それについての理由は様々あるけど、かぐやにおいては、その善性に因るものだった。
身内を嫌う自分を恥じ、善人を好くことの出来ない己に傷付き、嘔吐してしまうほどに他人の不幸に同情できる。これを善人と言わずになんと言う。
彼女に常人と違う部分があるとするなら、その苛烈なまでの正義感。
そして彼女は、他人を傷つけることを厭っても、己を傷つけることには躊躇いがなかった。
「彼女は己を責めた。そこにどんな因果があろうと、母親の死を喜んだ自分を醜いと感じた。己を罵り、蔑み、謗り、拒み、その自傷の果てに彼女は母親を愛することに成功した」
ガツッと一際強く響く白杖の音。
「それは、余りに説明不足ではありませんか?
お兄様」
確かにそうだったかと首を捻る。
どこから説明しようかと悩む前に、スイちゃんが言った。
「辛い記憶が失われるのであれば、母親の死を喜んだ記憶が消えるはずですわ」
「いいや。そんなもの一時消えたところで、母親が居ない事実を再確認しては喜ぶだけだ。そしてかぐやはまた己を責める」
頭でどうにかできる問題じゃない。泣くなと言われて泣き止む人間がどこにいる。怒るなと言われて許せるのなら法は無い。
人の感情は、人の都合のいいようには出来ていない。
「なるほど。その繰り返しの果てに、かぐやは母親の死を喜びに変える虐待の記憶との決別を果たしたということですか」
その通り。
「喜び」が「辛さ」に直結するのであれば、忘却の連鎖の対象になる。
「ですがお兄様?」
スイちゃんはまたカツカツと白杖を鳴らす。
不可解なことがあることが不快なのだと隠す気のない顔を向け、ぼくの正面に立ちはだかる。
妥協も逃避も虚偽も許さないと、そう言うのだろう。
「先程も申し上げた通り、無から有は生まれません。虐待の記憶を失ったとて、かぐやの中に残るのは母親に対する恐怖と嫌悪。愛情が生まれることはやはり不自然なのですわ。如何にして彼女は、母親の死を思い返すだけで嘔吐できるほどの、親子の情を獲得したと言うのです?」
「逆だよ」
そう考えるから、真実に辿り着けない。
かぐやの中に生まれた感情が、どういう理由であれ真実だと思い込むから間違える。
親が子を愛する当然も、子が親を愛する常識も、平和な今だからこそ享受できる虚構の幸せなんだよ。
「母の死を思い出して嘔吐できるから、自分は母親を愛していると錯覚できたんだ」
スイちゃんの身体が強ばった。呪帯越しでも目を見開いているのが分かる。
しかしそれも一瞬のこと。すぐさま彼女は僕に詰め寄った。
機先を制して言葉を紡ぐ。
「人形が美濃を殺した方法はなんだったろうね」
問いかけの体を成してはいても、もう彼女に口を開かせる気は無い。言葉を続ける。
この先もぼくに着いてくるのなら、君も同じ結論に至れるまでになるだろう。ぼくの負担を減らすために、ぼくのやり方を学び取ろうとしていることも分かっている。
君の希望通り、確かにいずれは慣れるだろう。こんな酷い話も。優しい期待を裏切ることも。
だけど今はまだ、ませた子供でいるといい。
「あの小さな躰で成人女性を殺す方法はなんだったろう。撲殺かな。刺殺かな。轢殺かな。圧殺かな。斬殺かな。それとも呪殺かな……違うよね」
ぼくとスイちゃんは知っている。人形がどのようにして鴟蛇と闘ったのか。
骨董を身にまとって武器とした。なるほどそれなら撲殺も刺殺も轢殺も圧殺も斬殺も可能だろう。羽衣には呪いの知識もあっただろう。
だがそれらは、かぐやに人形が母を殺したと認識させない。骨董を纏った人形は、ただ歪な人型でしか無いのだから。
人形の戦闘方法は、骨董を纏い、鎧とすること。そしてそれから、もうひとつ。
「君はぼくにこう聞きたかったんだろ? 『母親への愛情が理由じゃないのなら、なぜかぐやは母親の死で吐くほどのストレスを覚えるのか』って。そりゃあ、スイちゃん」
塀に身体を預けて夜空を仰ぐ。天の川を抱いて広がる様を、艶やかな黒髪に例えたことがあったっけ。
「人の絞殺死体は、気持ち悪いだろうさ」
全身に及ぶ窒息による鬱血。筋肉の弛緩による体液の氾濫。歪な腫脹。骨折……彼女の母親の死体がどんな様相を呈していたか、その詳しいところは分かりようがないが、髪による全身の圧搾だ、尋常では無いだろう。
「鴟蛇の過去を慮るだけで吐くほど脆いかぐやに、耐え切れるものじゃない」
今度こそ彼女は呆然とした。
強ばっていた身体からは力が抜け、眉間にシワを寄せることも忘れて小さく口を開けている。
ショックを受けているというよりは、支えがとれたといった表情だ。
数秒そうして黙った後、徐に口元に手をやる。
「10年経って尚も、ですか」
指の隙間から漏れ出た声は、ぼくに届ける気があったのかなかったのか判断がつかなかったけど、ぼくはそれを独り言にしなかった。
「かぐやは有名私立校に特待生として入学している。その上、人形に悩まされながらも大学入学を問題なく果たしている。健忘症のせいで忘れがちだけど、彼女は至極優秀なんだ。彼女の記憶は、ぼく達の想像を遥かに超えて鮮明だろう」
分かるかい、スイちゃん。
これが、知らなくていい真実の非情だよ。
「だからかぐやの中には、微塵も母親に対する愛情などないよ」
子を愛していない親なんかいない? 馬鹿言うなよ、親だって人間なんだから。
それは逆もまた然り。
産んでやっただけで子が無条件に親を愛すると思ったら大間違いだ。こんな、嘘をつかなきゃ幸せにもなれない世の中に産み落としたことが、何の恩になるのやら。
美濃は羽衣を愛していなかったし、羽衣は美濃を愛していなかった。かぐやは美濃を愛せなかったし、美濃はかぐやを愛せなくなった。羽衣は打算込で美濃よりかぐやを選んだが、かぐやはそれを単なる愛と受け取った。
今回の怪奇譚は、そんな美談になり切れない話だ。
「……なんてこと」
俯いてしまった彼女の頭を撫でる。
これで粗方疑問は解消できただろう。最早それを問うまでもない。
なるべく優しく言う。
「どうだいスイちゃん。嫌になっただろ? これに懲りたら」
「懲りる? まさか!」
勢い良く顔を上げた彼女は、酷く可憐な笑みを浮かべた。
「私が今更人の成すことに対して傷付くとでも?」
「……はあ」
くるくると機嫌良さげにスカートを翻す彼女に頭を抱えたい気分になる。
まあ、そうだよなあ。
君は、今更と言うよなあ。
「己の不出来を恥じていただけですわ。今回はとてもお勉強になりました。いずれお兄様のお手を煩わせることなく、私自身の手で真実を掴んでみせましょう」
「スイちゃん……」
「無くても良いかどうか、その判断は知ってから致します。ご心配なさらずとも、悪戯に人を傷つけるような真似は致しません」
「自分が傷付くとは考えないの?」
「それも今更、ですわ」
憂いなく笑う彼女に苦笑で返す。
この向上心がぼくのためだと思うと擽ったいが、素直に嬉しいとも感じる。
本当にいつの日か、ぼくがお役御免になる時が来るかもしれない。
「あ、そうですお兄様。最後に一つだけご意見を下さいまし」
「うん?」
「鴟蛇はなぜ、かぐやが虐待されているとわかったのでしょう?」
「ああ……いや。多分、わかってなかったよ」
ほんの少し話を聞いただけで、異性の服を捲った鴟蛇。
常識の欠如に加えて、性別の観念が他人より希薄なあの子だからこその行動だけれど、それでも異常な反応だ。
「あの子もあれで不幸だからね。父親のいない子が母親に愛されている訳が無いとか、思っちゃったんじゃないの」
鴟蛇ほど家族の愛を知らない子も、中々居ないからね。
かぐやの母親に対する認識に違和感を覚えていたりはしただろうけど、結局最終的には勘だろう。
「まあ、全ては済んだこと。ここでぼくと君が話したことは、二度と明るみに出ることなく闇に消える。こんなこと鴟蛇とかぐやは知らなくていいし……思い出さなくてもいい」
鴟蛇は問題なく事件を解決したし、かぐやの憂いは無くなった。この話の結末はこれでいい。
無粋なことはもうよそう。
めでたしめでたしで、良いじゃないか。
「そうですか」
スイちゃんは曖昧に返事をして道の脇に避けた。
「会合の日まで如何過ごすおつもりですの?」
淑女らしく半歩後ろを着いて歩く彼女に振り返らずに返す。
「さあ……特別派手に動くつもりは無いよ。今日みたいにぼくが動く必要のあること以外は、大人しくするつもり」
「あら。久方振りの休暇ですか」
「嵐の前の、だけどね」
「殊更良いではないですか」
良くないよ。何もしないでいいのなら、それに勝るものはない。
ぼくが忙しい世の中なんて、要らないんだよ。
「まあ、暫くは鴟蛇の仕事っぷりでも見ながら過ごすよ。てことで、これからもよろしくね」
「美味しいディナーを所望しますわ。
首だけで振り向き、闇の中で煌々と輝く人類の英知の結晶、コンビニを指さす。
「肉まんでいい? 温かいの」
スイちゃんは少しだけ眉間に皺を寄せて溜息を吐いた。
「……今日のところは」
安上がりで助かるよ。
軽口を叩き合いながら、人工の光の中に踏み入った。
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