epilogue 1
◇
相も変わらずクラシカルな道を歩いていく。
クワクワと変わった声で鳴く電線の上の烏を見上げる。あれは本物だろうか、それとも式神だろうか。
古い町並みから見上げる空は円い。
そんな当たり前を、こんな震えるような感動で想えるのは、胸に滞留していた重苦しい雲が無くなったからだろう。快晴の空はこんなにも綺麗だ。
「こーこはどーこのほそみちじゃー…」
上機嫌に小声で歌いながら角を折れる。遠くに開け放しの門が見えた。不用心なことだが、あのライオンちゃんを思えば危ないのはむしろ侵入者の方かもしれない。まさか本当に襲ったりはしないだろうけど。
モダンなインターホンを押して程なく、落ち着いた女性の声が応答した。
「こんにちは、庭月野です。鴟蛇さんはいらっしゃいますか? 昨日のお礼に参りました」
初めて来た時と同様に庭を案内された。
大きな門を潜り、左手に歩く。
枝垂れ桜が風に吹かれてもう残り少ない花を散らした。
空の広さはどうやら私の心情のみに因るものでは無いらしい。夏のひりついた香りが早くも漂ってきている。
ついっと顔を屋敷の方に向けると、縁側で寝そべるライオンちゃんが目に入った。
「う」
反射的に跳ねる身体。ずり落ちたトートバッグを肩にかけ直し、意識的に呼吸する。
霊異とはいえ、やっぱり随分と威圧感のある佇まいだと思う。
鴟蛇さんはライオンちゃんにもたれかかっていた。艶やかな黒髪と鬣が混じって一体化していて、顔は全く伺えない。
「鴟蛇さーん?」
小走りに近付く。
先ずライオンちゃんがのそりと顔を上げた。黄金の瞳が私を認めた後、また閉じられる。どうやら客として認識してくれたらしい。安堵しつつ、鴟蛇さんの隣に座る。
「鴟蛇さんったら」
再度呼びかけるも応答がない。どうやら眠っているらしかった。
いつまでもこんな体勢で寝ていては辛いだろうと、若干の申し訳なさに蓋をしながら、羽織を纏った細い身体を揺する。
「……ん」
「あ、おはようございます」
ようやく顔を上げた鴟蛇さんは、何度か目を瞬かせると、私の顔を確認して苦い顔をし、再び鬣にインした。
「ちょっと! なんですかそれ!」
「……悪い夢を見ているみたいだ」
「寝ぼけているからって何を言っても許されるわけじゃないんですが!?」
この野郎と身体を揺すること十数秒、ぐだぐだと文句を言いながら身体を起こした鴟蛇さんは酷く不機嫌そうだった。
「……不法侵入」
「さっきの発言は十分名誉毀損ですよ。それに、ちゃんと許可も取ってます」
「朝から最悪の気分だよ」
「こっちの台詞なんですけど!」
朝、というか、今はもう昼と言った方が正確な時間なのだけれど。
心做しやつれているし、目も赤く充血している。お昼寝だと思っていたけど、この分だと単純に寝過ごしたらしかった。
こんな所で眠るなんて、やはり随分疲れていたのだろうか。
「ちょっと顔見ないで」
「はあ、どうしてです?」
「いや、今すっぴんだから」
「OLか!」
鴟蛇さんは奥に引っ込んでしまった。私とライオンちゃんだけが残される。
ただ手持ち無沙汰に彼を待つが、体感で十分近く経っても未だに帰ってくる様子はない。
ちらと横目で漆黒の巨体を見る。身動ぎもせずに寝そべる姿は、まるで夜そのものだ。
「……よいしょ」
一人分の空白を埋め、その大きな身体に触れてみた。
片目を持ち上げて私を見たライオンちゃんだが、それ以外に特に反応を示すことなくされるがまま。霊異だからだろうが、やはり見た目に反して穏やかな気性らしかった。
「怖がってしまってごめんなさい」
当然声は返ってこないが、代わりに彼はゆっくりと身体を持ち上げて顔を舐めてきた。ざらついたその感触に、もう必要以上に怯えることは無い。
柔らかい口元に頬を押し当てて鬣を撫で回す。本物のそれに触れることは後にも先にも無いだろうが、鴟蛇さんの式神のクォリティを鑑みるに差はほとんど無いと考えて良い。
温度がないのにリアルな感触……まるで柔らかいガラスみたいで不思議。
「ん?」
手になにか冷たいものが触れる。
見れば雫が付着していた。すわ雨でも降り出したかと空を見上げるも、雲ひとつない晴天である。
「随分と仲良くなったじゃないか」
「あ、おかえりなさい」
狐の嫁入りというわけでもなさそうだし……などと考えていると鴟蛇さんが帰ってきた。ライオンちゃんを挟んで並ぶ形になる。
着替えも済ませてきたようで、薄手の寝間着と羽織姿だった彼は藍色の着物を纏っていた。橙色の線が緩やかに走っていて、色の印象よりも明るく見える。
「はい、おかげさまで」
「それで、なんの用かな」
「急にすみません。連絡もなしに」
昨日気がついた事だが、なにせ電話番号など知らないのだ。
鴟蛇さんは構わないと首を横に振り、傍らに置いた私のトートバッグを見咎めた。
「そのバッグ見覚えがあるのだけれど、まさかまたぞろ何かに憑かれたんじゃないだろうね? 次はお金とるからね」
「昨日の今日でそんなことになっていたら、私は間違いなく疫病神に憑かれてますよ。そうじゃなくて、お礼をしに。やっぱり無料じゃ悪いですから」
「ふん? 律儀だね」
「いえいえ。恩にはきちんと報いなければいけませんからね」
勿論、こんなもので返せるとは思っていませんが。
中身を取り出す。彼の方に回ろうとしたが手で制された。命じられたライオンちゃんが咥えて渡す。
「ん。金目のものじゃないみたいだね」
確かに渡したものは値段がつけられるようなものではない。中の見えない袋で包装しているが、軽さから何が入っているかは想像出来るだろう。
「お心遣いを無下にするのもどうかと思ったので」
あとお金ないので。
「でも喜んでくれると思いますよ」
「服だよね? よくもまあこの僕にあげようと思えたものだね」
挑発的な物言いだが包装を丁寧に開けるその横顔は明るい。贈ることそのものを喜んでくれているらしい。
だがしかし、お金持ちな彼のこと、生半可なもので喜んでくれるなんて思っていない。何も伊達や酔狂で持ってきた訳じゃあないのだ。
「これは……!」
取り出されるは純白。穢れを拒み、遠ざけんとする、儚さよりも力強さを感じさせる白いワンピース。空色のリボンとセーラーカラーのラインがアクセントになっていて、厳格すぎる白を清廉なものに変えている。
「と、
そう。これこそは本来選ばれし者しか袖を通すことを許されない、名門十字学園の制服である。押し入れの奥にしまい込んでいたものを引っ張り出してきたのだ。
サイズ差はどうやらそんなに無さそうだったし、貧乏な私に用意できるもので鴟蛇さんが喜ぶものといえば、これくらいしか思いつかなかった。
「貰っていいの? ありがとう!」
異性に自分の着ていたものをあげることにいささかの抵抗こそ感じるが、こうまで喜んでくれるなら安いものだ。
鴟蛇さんに限って性別云々を考えるのも馬鹿馬鹿しいし。私より似合うのだろうし。悲しいことに。
「それ着て外に出たりしないで下さいね? 学園に迷惑かかりそうですし」
「え?」
「やめてくださいよほんと!」
「大丈夫だよバレないから」
「男だとバレなくとも不良娘だと思われますから!」
ちょっと制服をあげたのは失敗だったかもしれない。というか無責任だったかも。
「って、もうこんな時間ですか」
腕時計を見ればもうそろそろてっぺんを回る頃。
腰を浮かす。
「あれ、もう帰るの?」
「ええ。午後から講義があるので」
休むとレンちゃんがまた心配して家に来るかもしれない。嬉しいことだが、あの固いおかゆは二日連続で食べたくない。
ライオンちゃんの頭を撫で、会釈する。
「では、お邪魔しまし……」
踵を返そうとした時、鴟蛇さんの顔が陰っているように見えた。思わずその場で硬直する。
「……どうかしたの?」
見上げてくる鴟蛇さんの顔に憂いは見えない。
「早く行きなよ、遅刻するよ」
気のせいだったかと、昨日以前の私ならこのまま帰っていただろう。しかし、今の私は他人を疑える。
「もう!」
縁側にもう一度座る。今度はライオンちゃんを挟まずに、直接鴟蛇さんの隣に。
「え、な、なにさ」
「何はこっちの台詞ですよ。鴟蛇さん、何を誤魔化そうとしてるんですか」
「何も誤魔化してなんか」
言い切る前に、傍らの黒い犬を指した。
「この子は貴方のどんな感情を切り離して生み出したんですか」
言いたくない事もあるだろうと、昨日は見て見ぬふりをした。だけどそれが貴方を苦しめるのなら、もう遠慮はしない。
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