余計な話 肆
結局のところ、これが虐待の理由。
愛の過剰な欠乏。かぐやがいる以上、美濃は庭月野家から見放されていた訳では無いはず。金銭の問題であれば、頼れば庭月野は援助を惜しまなかっただろう。頼りたくないという心理を度外視すればの話だが。
だから、かぐやを虐待するほどのストレスを抱え込んだ理由は、彼女が既に病んでいたからに他ならない。
唯一愛を向けてくれていた存在が死に、忘れていたはずの孤独の味を思い出した彼女は、実の娘を愛する心と、庭月野の血を憎む心に翻弄され、やがて壊れた。
「……きっと、そうなのでしょうね」
それ以上スイちゃんは何も言わない。何事か考えているのだろう、難しい顔をするだけだ。
「酷い話だね」と締め、肩をすくめる。肉まんの入ったコンビニの袋をくるりと回した。
そのまま歩くこと数分。仮宿の最寄りのコンビニが遠くに見えてきた辺りで彼女は足を止めた。
「お兄様」
呼び掛けに応じて振り向くと、未だに顔を顰めている。
反論は甘んじて受けるつもりだった。何せ過去に戻れない以上、ここまでの話はやっぱり推測の域を出ない。
しかし、どうも彼女は怒っている訳では無いらしい。ただ、まだ分からないことがあるのだと言う。
「かぐやは、心因性の健忘症を患っていたようですわね」
「そうだね。記憶は連鎖的に記憶を呼び覚ますから、彼女の中でどんどん辛い記憶は消えていく。楽しかった思い出すらも残っていなかったのは、そのせいだろう。覚えていれば、辛いことを思い出す。だから分類としてはそれらも辛い記憶になった」
「ええ。かぐやのそれは連鎖的なものでしたわね。死に瀕した際に感じた霊異への恐怖と、友人だと思っていた存在を余りに苛烈に殺した祖母への恐怖が合わさった結果、彼女はそれらへの愛情を失いました。そうして頼るものの無くなった彼女は、祖母以外の人間の狂信者となった、というお話でしたわ。霊異と祖母への恐怖……嫌悪を残して」
「うん、そうだった」
彼女は白杖をカツカツと鳴らす。
「では、なぜかぐやは、母親を愛していると錯覚したのですか?」
「それは、虐待の記憶を失っていたからだよ。子が親を愛するなんて当たり前の話だろう」
「いいえ違います。それは嘘ですわ、お兄様」
強い言葉で、彼女はぼくの往生際の悪さを咎めた。いつまでとぼける気なのかと。いつまで真実を語ることを渋るのかと。
「なぜなら、かぐやには母親を頼った記憶が無いからですわ。かぐやが記憶を失い、自身に恐怖を覚えていても、羽衣は孫を護り続けた……美濃に、かぐやとの接触を許しはしなかったはずです」
スイちゃんは捲し立てる。もうぼくの顔を見ていない。だから、そのほとんどは自問だ。
「記憶を失うきっかけが、羽衣が霊異を殺したことであるならば、虐待の記憶は未だに残っていたはずです。これらの記憶と虐待の記憶には関連性がありませんから。忘却の連鎖はそこまで至っていないはず……美濃はこの時点では明確な敵。頼りがいなかったからこそ、かぐやは他人に救いを求めたのです。百歩譲って同時に虐待の記憶を失っていたとしても、愛情が生まれることは有り得ません。無から有は生まれません」
疑問が疑問を生じさせ、仮説を作り出しては却下していく。
そうして果てに残るのは、いつだって残酷な真実だ。
「つまり、かぐやには記憶を失うほどに虐待に関する辛い何かがあったということ。虐待そのものではない、何か。同時に、母親に対する愛情を生じさせるような、何か」
そこまで言って、スイちゃんは黙った。カツカツと白杖を鳴らし、俯き、指で髪を弄ぶ。
「これ以上何があるというのです……? 虐待そのものより辛いこと? 自分を害する存在に親子の情を生じさせること? そんなことが本当に……」
考え方は合っている。それなのに行き詰まるのは、未だに考えていない何かがあるからだ。矛盾を見逃しているからだ。
だけどそれは枕に「基本的に」がつく。
今回の件に限って真実に辿り着けないのは、善人だからだと思う。
だから誇っていい。分からないことに胸を張っていい。
知恵熱でも出しそうなスイちゃんの頭を撫ぜる。心からの賞賛を示すために。
「かぐやはね、良い子なんだよ」
「はい?」
「でもね、同時にとても普通の子なんだ」
汝の敵を愛せよと誰かは言った。
これが出来る人間は、果たして普通だろうか。
「ねえスイちゃん。かぐやは母親が死んだ時に辛いと感じたらしいよ。ぼくにはこれが酷く不思議に思えるんだけれど、それはぼくがとんでもない極悪人だからかな?」
「常人は自分を害した存在が消えた時、本当に心の底から悲しめるのかな」
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