5

『はい、どちら様でしょうか?』


 数秒足らずで上品な女性の声が聞こえてきた。優しく響くそれにほっとしながら、事情を話そうとして、はたと困る。


 猫を追いかけてるんです。市松人形をとられてしまって。


 馬鹿みたいな台詞だ。実際猫にものを取られてしまうなんて間抜けでしかないのだが、さておき。


『……あの?』


「あ、えっと、その」


 意味もないのに手をわたわたと彷徨わせて言葉を探していると、インターホンの向こうの女性は「ああ」と呟いた。


『もしかして、についてのご相談ですか?』


「え……」


 その言葉に。

 の一言に。無意識に、握りしめていた地図を見る。

 来た道は覚えていないが、赤く印をつけられたそこは、良く見れば酷く大きい。つまり、ここがそうなのだ。

 ここが、四月一日出雲わたぬき いずもの示した……きっと、私を救ってくれる場所なのだ。


 呆然と「はい」とだけ返す。女性は微かに笑った。


『そうですか。でしたら、そのまま門をくぐって左手のお庭にどうぞ。主人もそこにいるはずですから』


「ありがとう、ございます」


 ふわふわとした不思議な心地のまま門をくぐる。綺麗に整備された庭はやっぱり異世界みたいだ。

 石と芝のコントラストが見事な地面。鯉の泳いでいる池。それを見下ろすようにしている桜の木。

 キョロキョロと辺りを見渡すと、縁側に何かの影が見えた。


「うわ」


 美しい人形がそこにあった。

 淡い藤色の着物を纏った細い体躯。簪で纏められた、艶美な輝きを放つ黒髪。陽の光のようにクリアな白い肌。すっと通った鼻筋と、長いまつ毛に細い眉。薄く整えられた桃色の唇。

 生命すらも感じさせるほど精巧な、等身大の人形。

 余りの美しさに呼吸を忘れ、思わず近寄ってまじまじと見てしまう。


「っはー……」


 見れば見るほど人にしか見えない。四月一日さんの所有するものだと思うと狂気すら感じるのだが、この美しさの前では嫌悪感など持てはしない。


「あ、目元に黒子。凄すぎてなんか最早えっちですね」


 一体いくらするのだろう。素晴らしいものを見て金額を気にする辺り浅ましいこと限りないのだが、思ってしまうことは仕方がない。5桁や6桁では足りなさそうだ。やはり尋常ではないお金持ちなのだろう。

 それにしても、四月一日さんは人形マニアか何かなのだろうか。さぞかしこの子はお気に入りなことだろう……あ。


「これが噂のダッチワイ」


「失礼だね、キミ」


「ひゃっ」


 何処かから声が聞こえた。急いで辺りを見回すも声の主は見当たらない。気のせいかと内心で首を傾げていると、正面の人形が口元に手をやって上品に笑った。


「こっちだよ。こっち」


「……えっと」


 目を白黒させる私を見て、人形――否、そうと見まごう程の美貌を持った少女は、益々笑みを深めた。

 人形が喋った! なんてベタなことを言いはしないが(それに、動くこともあるのだから喋るくらいおかしくはあるまい)、本当にそんな気分だった。人間は神様が作ったのだ、だなんて心から信じられるほど信心深くないが、この人を作ったのは神様だと言われれば信じられる。そうとしか思えないほど、笑う彼女は可憐だったのだ。

 少しの間その笑みに見とれていたが、唐突に先程の自分の失言を思い出す。



「す、すみません。失礼なことを」


「本当だよ。不躾に見てくるし、挙句の果てに性玩具と間違えるし」


「あああ」


 後悔先に立たず。放った言葉は帰って来ないし、時間は巻き戻らない。穴があったら是非とも入りたいのだが、綺麗に整地された庭は、穴は愚かちょっとした窪みも見当たらない。

 幸いなことに、仮称人形さんはくすくすと楽しそうに笑っていて怒った様子はないが、乙女にあるまじき連想ゲームをした私の心の穢れは、隠しようもなく浮き彫りになってしまった。


 しばらく笑っていた人形さんは、大きく呼吸をしてから「それで」と居住まいを正した。


「道に迷った、という感じでもないよね。僕に会いに来たと思ってもいいのかな?」


「へ?」


「あれ、違うの? じゃあ僕はキミを不法侵入者とみなして警察に通報するけれど」


「ま、待ってください。私はちゃんと許可をいただいて、ここに」


「うーん? じゃあ何か霊異の相談があってここに来たってことだよね? それは僕に会いに来たってことだと思うんだけれど、違う?」


 そこまで言われて、ようやく自分の勘違いに気が付いた。

 あの市松人形から解放されるかもしれない……その期待から思考を半ば放棄していたが、昨日出会った影のごとき男性――四月一日出雲わたぬき いずもさん――は、私を救うとは全く言っていないのだ。地図は(多分)正確だったし、実際霊異に関わっている方と出会うことは出来たが、それが彼自身であるとは限らない。


 つまり。


「あなたが、この屋敷の主人ということでしょうか」


 にこりと人形さんは笑った。優しく、艶やかで、まるで桜が花開くような、魅力的な笑顔だった。


「うん、相違ないよ。僕は八月一日ほそみち 鴟蛇しじゃという。この屋敷の主で、霊異の専門家だ」


 ほそみち しじゃ。霊異の専門家……耳慣れない言葉を、口の中で繰り返す。慣れないけれど、すっと心に入ってくるような感じが、とても不思議だった。多分、この屋敷や鴟蛇さんの美しさが、未だ現実のように思えないからだろう。


「珍しい名前でしょ?」


 苦笑しながら彼女は言う。何度も名前を聞き返されてきたのだろう、含みのある言い方だった。


「素敵な、名前だと思います」


「そう? 僕は大嫌いなんだけどね」


 目を伏せる彼女の傍らに、いつの間にか黒い中型犬が侍っていた。彼ないし彼女は、細くて綺麗な指先で撫でられて、気持ちよさそうに目を細めている。


「それで、キミはどこの誰さん?」


「私は、かぐやです」


「え?」


 今度は私が苦笑する番だった。そう、私の名前も、少しばかり珍しいのだ。私なんかには勿体ない、可愛らしくて綺麗な名前。


庭月野にわつきの かぐや。それが私の名前です」


 良い名前でしょう? そう言って笑ってみせると、彼女も優しく笑ってくれた。


「似合っているかは別としてね」


「失礼じゃありません?」


「人を性玩具と間違えるかぐや姫なんてねえ」


「失礼じゃありませんでした」


 その節は本当に……ぷるぷる震えながら謝る私に、彼女はまた上品に笑う。本当に魅力的な笑顔。ちっぽけな自尊心と引き換えに、これが見られるのなら安いものだ。

 頭の中で、レンちゃんがまた笑い転げているが、何故彼女の笑い方はこうも神経を逆撫でしてくるのだろう。この場にいない人間に怒りを覚えるのも理不尽な気がするが、本当にここにいたとしたら一生これをネタに虐められるに違いないので、罪悪感も湧かない。


「さて。じゃあ、かぐや」


「はい」


 頭を上げる。


「キミは一体誰の紹介でここに? なにせ霊異の専門家なんて胡散臭いものだから、この時代にホームページもない古臭い職業なんだ。一応紹介制でやらせてもらってるんだけども、キミにここを教えた誰かは、ちゃんと名乗ってくれたかい?」


「ああ、はい。四月一日出雲という方で」


四月一日わたぬきぃ?」


 えっ、何ですかその怖い顔。

 何か悪いことを言っただろうか。不安に思いながらいただいた名刺を差し出すと、彼女は日に透かしたりしてそれを観察し始めた。


「なんでわざわざ四月一日の人間が僕に……」


「な、仲がよろしくないんですか?」


「よろしくないも何も、天敵みたいなも――って、ああ」


 綺麗な眉を寄せていた彼女だったが、唐突にふわりと笑った。


「クモさんか」


「クモさん?」


「うん。キミにこれくれた人、すっごくひねくれた目してたでしょ」


 頷きながら、彼の姿を思い出す。すぐに忘れそうな風貌なのに、絶対に忘れることの出来ないあの在り方。目は特に、世の全てを諦めたかのような暗さを湛えていた。


「偽名だね、これ」


「へっ?」


「僕達は霊媒師なんて言葉で自分を指さないし、四月一日わたぬき家の出雲なんて知らないし……うん。こんな誰も得しない嘘つくのはあの人しかいないよ。全く、相変わらず嘘つきなんだから」


「ええええ」


 偽名。偽名て。

 あれだけ悩んで、不安になって、それでも、って縋ってきたあの名前が偽物だなんて。

 確かに霊異の専門家には出会えたのだが、なんだか釈然としない。


「許してあげて。彼、嘘つかないと息が出来ない体質なんだ」


 そう言いながら、彼女は今日一番の笑みを見せた。彼と彼女がどんな関係かは知らないが、大切な人なのは間違いないだろう。


「まあ、信用しても良い人だよ。この業界じゃあ有名だ」


「へえ。因みに本当の名前はなんていうんですか?」


「知らない」


「へっ?」


「本名も住まいも今何をしているかも知らない」


「胡散臭っ」


 凄い睨まれた。


「そういう人なんだよ。なんだよ、謎の人って格好いいじゃないか」


 どうやら結構な地雷を踏んだらしい。唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。そんな姿も可愛らしいのだから、美人というのは得だ。


「全く、これだから何も知らない素人は。数々の大霊異を下した業界の重鎮だぞ」


「……」


 この人ただのファンなんじゃ?

 全く関係性が見えてこないが、クモさんなる彼が彼女を紹介したのだから、少なくとも一方的なものではないのだろう。

 まあ、どの道私には、それこそ関係の無い話。


「あのう。そろそろ本題に入りたいのですが」


 恐る恐る言うと、彼女は未だにむくれたまま小さく私を手招いた。

 音を立てずに屋敷の中へ歩いていく彼女の背中を追いかける。長くて綺麗な廊下の脇には、数え切れないくらいの襖が並んでいる。


「凄く広いんですね」


「部屋が余って困ってるんだ」


 それはまあ、そうでしょうね。

 嫌味ったらしくなりそうだったので口を噤む。庶民には分からない、贅沢な悩みだ。


 それから会話もないまま数分は歩いただろうか(個人宅をそんなに長く歩いた経験は無論ない)、通常のものとは明らかに雰囲気の違う、臙脂色の襖に行き当たった。廊下の薄暗さも相まって不気味なそれを、鴟蛇さんは迷いなく開け放つ。


「ひゅっ」


 瞬間言葉を失った。意識も失っていたかもしれない。

 真っ黒な畳だとか、妖しい光を湛えた行灯だとか、部屋を取り囲む臙脂色の壁や襖だとか、乱雑に散らばる漆黒の手足の模型だとかの、部屋の異様さのためではない。


 部屋の中央で光る、黄金の眼光に射すくめられたからだ。


 獅子だ。獅子がいる。英語でいえばライオンだ。漆黒の雄獅子が首をもたげてこちらを見ている。

 余りにも身近な死の予感に、全身の血が逆流したかのような錯覚をした。動く人形とはまた別種の恐怖。命の危機が、全力で生存本能を刺激している。


 オーケー。良く叫びませんでしたね、私。

 内心で自分を褒める。獣は刺激してはいけないのだ。背を向けて全力で逃げたり、激しく動いたりすることはご法度なのである。


 ゆっくり。そう、ゆっくりと、獅子から目をそらさずに部屋から離れ……


「どこに行くの」


 がっし。鴟蛇さんのたおやかな指が私の手首を掴んだ。


「まだ死にたくないです!」


「大丈夫だよ、大人しいから」


 にっこりと笑う鴟蛇さん。素敵な笑みではあるが、多分安心させるためとかではなく、狼狽える私を見るのが楽しいのだと思う。

 結構本気で抵抗したのだが、一切拮抗することもなく(力強っ)、容易く獅子の目の前に座らされてしまった。

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