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◇
とーおりゃんせーとおりゃんせー……何処かから、いつか聴いた懐かしい童謡が聞こえてきた。
自宅の最寄りの駅から電車に揺られて数十分。駅周辺を抜けるのに更に十分。そろそろ賑わいもナリをひそめ、静寂が多数を占めるようになってきて更に数分。振り返るとビルが天を衝くように乱立している。あの中で暮らしているはずなのに、ここに至ってあれが異質なように感じるのだから、視点というのは至極不思議だ。
顔を前に戻して顎を上げると、あの摩天楼よりも高い空と、疎らに浮かぶ雲がはっきり見えた。意識してこなかったけれど、空に思いを馳せなくなって久しいらしい。周囲にはセピア色の写真を切り取ったみたいな、古めかしい建物ばかりが並んでいる。
家屋間の塀に挟まれた暗がり。時折横切る黒猫(不吉!)。道の脇に平気で現れるお寺&墓地。
余り悪し様に言いたくは無いのだが、常人より臆病な私からすれば決して進んで歩きたくはない場所だ。少なくとも日が暮れてからでは訪れられないだろう。
太陽も昇りきっていないこの時間に行って、彼に会えるかは分からない。何せ待ち合わせも予約も、約束もしていないのだ。そもそも、本当に招かれたのかどうかも分からない上、信用も未だ出来ていない。
「まあ。他に選択肢が無いんですけど……んっしょ」
右手に携えた二つの紙袋を持ち直す。男性用のコートは中々に重い。市松人形もだ。
このまま人形だけでも投げ捨てられたら幾分楽かと思うのだが、それが意味の無いことだというのは誰より私が知っている。
「いきはよいよい、かえりはこわい……」
歩を進めるごとに遠ざかる童謡の後を引き継ぐように口ずさむ。しんとしたこの場でも私以外には届かない声量で歌いながら、昨日いただいた手書きの地図に目を落とした。
それからゆっくりと首を傾げる。
「うーん」
何処なんでしょう、ここ。
ため息混じりにひとりごちる。
ここまで目印の無い場所だとは思わなかった。地図自体は結構上手く描かれているのだが、なにぶん初めて来る場所だし、細かく描かれすぎていて却って分かりづらい。
スマートフォンで調べてみたのだが、流石に住所も入れずに個人宅を出すことは難しそうだった。
まさかこの年で迷子になるとは。
直視したくない現実と、諸々の不安から逃れるために、再び小声で童謡を歌いながらとりあえず歩き出す。
そうして数秒も立たないうちに、何かにぐいと引っ張られた。
「ひゃっ」
えっ、何が起きたんですか。
余りの混乱にくわんと視界が歪む。鈍臭い私でも、すぐ側に人がいれば流石に気が付く。全くなんの気配も姿も無かったし、随分低い位置から力が加えられた気がした。
姿が無く、気配もない。そして常人では有り得ない背丈。それはつまり――
「――って、猫ちゃん?」
最悪の想像をしようとした私の脳に、「にゃあ」ととぼけた声が響く。足元に目をやると、黒猫が紙袋に小さな前脚を引っ掛けていた。
「はぁ……」
いやいや、臆病にも程があるでしょう、私。
顔に手を当てて息を吐く。手のひらで確かめるまでもなく顔が熱い。まさか猫にここまで心乱されるなんて。レンちゃんに知られたら大笑いされるに違いない。
背を反らしながら笑う親友の顔が思い浮かんで、更に顔が熱を持ってしまった。慌てて頭を振り、勝手な想像にしては余りに鮮明なそれを振り払う。
その間にも猫は紙袋を引っ掻き続けている。一体何に興味を持ったのか。
「こらこら、駄目ですよ。そんなにしたら破けて」
びりっ。ごとん!
「ひぃっ!?」
紙袋から生首が転がり出た。いや違う、これは人形だ。猫が興味を示していたのはコートではなく人形の方だったのだ。
驚いて後ずさった隙をつくように、猫は目まぐるしい勢いで紙袋を解体すると、人形の髪を咥えて何処かへと駆けて行った。自分の体長と同じくらいあるものを攫う様は、猫というよりも獅子や豹のようだった。
「まっ、待ってください!」
益体もないことを考えている暇はない。何せあれが無ければ今日私がここにいる意味が無いのだ。
最悪このまま帰ってしまっても人形は戻ってくると思うが(本当に最悪)、二度も三度もこんな恐ろしい場所に来られる勇気は多分無い。
「なんなんですか、もうっ!」
泣きたくなるような気分になりながら、破けた紙袋を乱暴に掴んで走り出す。
動きやすい服装で来て本当に良かった。人形が強烈な赤色をしていて本当に良かった。
「って、こんなことで幸せなんて感じたくないですー!」
叫んだところで不幸な現実が好転する訳もないのだが、誰が私を責められようか。運動自体は苦手でも嫌いでもないが、平凡な一大学生が望まぬ形で全力疾走させられて楽しいと思うものか。溜息をつきたくとも、走りながらじゃ不可能だ。
ああ、本当に最近溜め息が増えたなあ。
人形を引きずるくらいの大きさなのに、あの猫本当に足が早いなあ。
そんな風に現実逃避をしつつ追いかけ続けること体感で数分、遂に息も絶え絶えになって立ち止まった折、大きな日本屋敷が遠目に見えた。
高くて広い塀に囲まれた屋敷の門は大きく開かれている。
点のように小さくなってしまった黒と赤が、我が物顔でその門をくぐって行った。
「ちょっと、嘘でしょう?」
思わず漏れた声はかなりの疲れを滲ませていた。
身体的にも精神的にも、ここまで私を追い詰めてくれますか、あの猫は。
遠目でも、いや遠目だからこそあの屋敷の大きさがわかる。明らかに私とは関わりのなさそうな世界だ。多分何か現代日本でも通ずる権力をお持ちの方が住んでいるのだろう。
庭に踏み入った瞬間に日本刀を持った怖い顔の人達が出てきそうだ、なんて思うのは私だけじゃないはずだ。
とはいえここで二の足を踏んでいても何も解決しない。ひとつ深呼吸をして、重い足を引きずって門の前に立つ。
近くで見ると殊更に圧倒される。唾を飲み込みながら、日本屋敷には不似合いなデジタルなインターホンを押した。
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