3

「――ああ。本当に、あなた達なんか」



「その先は、言葉にしちゃ駄目だ」


 ドガッ――と。

 誰かが人形を蹴り飛ばした。


 そう分かったのは、人形の顔の代わりに男性用のブーツが眼前に現れたからだ。

 人形の真っ黒な髪が私の鼻を掠めていく。何度かバウンドしてようやく止まったそれが再度動き出そうとする気配はない。真っ白な顔も真っ赤な着物も、遠目からでも土にまみれていて、まるでただの人形のように見えた。


 暫し呆然とする。

 恐怖も焦燥も怨嗟も、人形と同時に吹き飛ばされたかのように綺麗さっぱり消え去って、今はひたすらに混乱するしか無かった。


「言葉は呪いだよ。安易に吐くものじゃあない」


 再度声をかけられて、ようやく我に返った。


「あ、あの」


 慌ててお礼を言おうとその男性を認めた時、思わず口を閉ざしてしまった。

 余りにもその姿が……いや、上手く言えないが、そう。そのが、影に似すぎていたからだ。

 中肉中背で、顔立ちも際立って整っている訳では無い。一言二言交わした程度では顔を忘れてしまいそうな、そんな目立たない一般人のような風貌。

 それなのに。黒いコートを纏い、ポケットに手を入れてただ立っているだけなのに、異質なような……鮮やかな水彩画に一滴垂らされた墨汁のような、そんな黒さ。

 それは、彼の余りにも厭世的な目がそう思わせているのかもしれない。


「これ、あげるよ」


「え……わっ」


 益体もないことを考える私を見かねてか、男性は纏っていたコートを投げ渡した。

 コートの下のシャツもまた、黒だった。


「寒いでしょ」


 辞そうとする前に、彼が言う。その厭世的な目は私の身体に……汗と土に塗れた寝巻きに向けられていた。

 かっと熱くなる頬とは裏腹に、確かに身体は冷えていた。申し訳なさと羞恥心等を天秤にかけた結果、私はありがたくコートをお借りすることにした。


「ありがとう、ございます」


 コートのことも。助けてくれたことも。

 借りたコートを纏うと、なんだか落ち着く気がした。

 ちらりと人形の方を見やる。動き出す気配は全く無い。脳裏にこびりついて離れない雨音も、自分の心臓の音も、呼吸音も聞こえなくなっている。


「それにしても」


 ゆったりとベンチに腰掛けながら、男性が言う。


「事情は知らないけれど、女の子がこんな時間にそんな格好で出歩くなんて感心しないな」


「う」


 痛いところをつかれた。

 確かに、今更ながらに己を省みると、中々危ない現状だと思う。時刻は深夜と言っても良い時間。周りには人気がなく、寂れたこの公園には頼りないライトがひとつ。加えて身にまとっているのは薄手の寝巻き。下着の類は……お察しということで。


 無意識に自分を抱くように腕を交差させた私を見て、男性は少し笑ったようだった。唇の端をほんのり持ち上げて空気を逃がすだけの、下手くそな笑みだった。


「まあ、ぼくは怪しい男だけれど、君に何かをする気は無いさ」


「それはそれでちょっと乙女としては複雑なんですが?」


「下着の色とか聞いた方が良い?」


「絶対やめてください」


 震えた声で言う私に、また男性は下手くそに笑った。海外の人みたいなオーバーアクションで両手を上げてニヒルにだ。見た目よりも結構気さくな人らしい。

 羞恥心から睨むようになった視線を気にせず、男性は「ところで」と話を振った。


「あの人形、君の?」


「っ……はい」


 不意をつかれた心が跳ねる。

 指された方向を見なくとも、なんのことかは当然わかった。弛緩された空気と、男性のなんでもないような口調で忘れかけていたが、根本的な問題は何も解決していない。


 そもそも、この男性はどこまで見たのだろう。どこから見ていたのだろう。


 もし、人形が動いているところを見たというのなら、一体どこまで理解しているのだろう。


 私が今どんな面持ちで男性を見ているかは分からない。それでも、尋常ではないことだけは分かる。私はどうしたって普通じゃないから。そして、普通じゃないものは、受け入れ難いと知っているから。

 しかし男性は、やはりなんでもないように「そうか」と呟くだけだった。


「うん。とりあえず、家に帰りなよ。夜も遅い」


「へ?」


 ぽかんとする私の脇をすり抜けて、男性は公園の出口へと歩いていく。


「え、そんな……ま、待ってください!」


 そんな声が出たことに自分で驚く。

 引き止めてどうする? 呼び止めてなんになる?

 当たり前の疑問が湧き上がるが、それに対する答えを私は持ち合わせていなかった。


 男性は結局私の声に振り向くことなく、夜の闇に溶け込むようにして去っていった。

 それを見送ってからようやく、伸ばしていた手がだらんと落ちる。


「助けて、くれないんですか」


 無意識に漏れた声が、引き止めた理由の答えだった。

 自覚すると一気に心が重くなった。へたりこんでしまいたくなるのは、身体の疲れのせいだけじゃないだろう。


「……帰りましょう」


 まさか本当にここでへたりこんで、そのまま夜を明かす訳にもいくまい。

 いくら絶望しようとも。泣こうとも。それで何かが変わる訳では無いのだから。

 我ながら諦めが良くなったと自嘲する。絶望も泣くこともしないが、だからといって何かが出来るという訳でもないくせに。


 末端から冷えていく体温を逃すまいとしてコートのポケットに手を入れた時、チクリと何かが指を刺した。


「いたっ……もう。なんですか一体」


 それは、名刺だった。

 なんの意味もないゴミだと言われれば、そうだと信じてしまいそうな程に飾り気のないそれには、職業と名前だけが印字してあった。




『 霊媒師

       四月一日わたぬき 出雲いずも    』



「わたぬきいずも」


 名刺の名前をそのまま読み上げる。自分のことを棚上げして、珍しい名前だと思った。


「霊媒師」


 自分のことを棚上げして、珍しい職業だと思った。


「ん」


 ポケットにその名刺をしまおうとして、また何かが入っていることに気が付いた。

 几帳面に折り畳まれたメモ用紙だ。開いてみると、手書きの地図が書かれている。


「助けて、くれるんですか?」


 さっきとは反対の言葉が口をつく。返してくれる声はない。


 1つ深呼吸をした。冷たい空気が肺に満ちると、怠さが消えていく気がした。地図を丁寧に折り畳んで、無くさないようにコートのポケットに戻す。

 そしてゆっくりと歩き出す。もちろん、家に向かって。


 歩きながら、色々なことを考えた。

 本当に霊媒師なのかとか。本当にどうにか出来るのかだとか。法外な値段を吹っかけられるんじゃないかだとか。そもそもこの地図の場所に行っても大丈夫なのかだとか。まあ要は、疑ってばかりいたということなのだが。


 しかし結局そんな疑念も、私の大嫌いな、自宅の冷たいドアノブを回した時に消え去ってしまった。


「縋るしか、ないですもんね」


 溜息混じりの言葉は、自分で思っていたよりも力強かった。


 スニーカーを脱ぎ、借りたコートをロッカーにかけ、の土を、少しだけ乱暴に払った。

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