2
冷たい夜風が肌を撫でるが、そんなことでは熱された身体も頭も冷めはしない。脳が身体に命令を下す前に走っているように錯覚する程の、焦燥と恐怖が胸の内を支配している。走り続けているのはその感覚から逃れるためか、別の何かから逃れるためか、自分でも分からなくなっていく。
黒々とした空に居座る月はまるで目玉だ。その丸さとか、高みにいるところとか、なんだか監視されているようで。
「……っ」
足が更に逸る。いつの間にか履いていたスニーカーの音すら遠くに感じるのに、どこかで鳴くカラスの鳴き声だとか、誰かが誰かを怒鳴る声だとか、街灯が揺らいだ時の乾いた音だとか、そんな不安を煽るようなものばかりが鮮明に聞こえる。
理性の負けた現状では止まろうと思っても止まりきれないから、人の少ない辺境に住んでいたことを感謝すべきなのか、それが殊更に恐怖を煽るから呪うべきなのか。
疲れ果ててようやく足が止まったのは、自宅からそう遠くない公園だった。ふらふらとした足取りで背もたれのないベンチに腰掛け、精一杯に息を吸う。
酸欠でぼんやりとした視界で、公園の入口に目をやった。満月に照らされた湿り気を帯びた土に、影を落とす何かは無い。
誰かがついてきているようなあの感覚は、月のせいだったのだろうか。
そういえば、そういった何かが着いてきているような感覚は実のところ自分の足音の残響や、こすれた服の裾の音だったりするらしい。
今は、自分の呼吸音と、心臓の音しか聞こえない。
「気のせい、ですか」
ほっと息を吐いて、月より冷たく光る公園のライトを見やる。支柱は錆び付いていて、絶えず揺らいでいる。滑り台もブランコもジャングルジムも、経年劣化でガタが来ているように見えるのは、夜のせいじゃないと思う。
酔っ払いも色ボケたカップルもいないのは、きっとこの公園の不気味さのせいだろう。
「……帰りましょう」
ぶるりと身震いした。寝巻きは今や鉄のように冷たくなっているし、見る者がいないとはいえ、この格好は中々に恥ずかしい。
疲労を訴える両足に喝を入れ立ち上がった時、一瞬だけライトがバチンと弾けて、辺りが暗闇に染まった。
「ひっ」
ライトはすぐに復旧したが、それが幸運とは到底思えなかった。
地面に落ちる影。
その数が二つだったからだ。
また、脳裏に雨音が流れる。
認識した刹那、足に力を入れて走り出した。いや、走り出そうとした。
「あうっ!」
疲れ果てた足は意思に反抗した。身体を投げ出すようにして勢い良く転んだのだ。勝手に疲れておいて情けない――そんな叱咤をする余裕も無い。
何せここまで逃げてきた理由が、今そこにあるのだから。
土の味がする歯を食いしばり、必死に身体を持ち上げた。
また、脳裏に雨音が流れる。
「――――」
眼前に、人形の顔。
もう泣き叫ぶことしか出来なかった。逃げようという意思も体力も、目の前の市松人形に全て殺された。
私の膝下くらいまでしかない背丈のそれは、真っ白な感情の分からない顔のまま、小さなその手をこちらに伸ばしてきた。
血が出るほどに強く目を瞑り、夢としか思えない現実から、全力で目を背ける。
「どうして!!」
どうして人形がひとりでに動く。
どうして押し入れに閉まっておいたこれがここにある。
どうして私を付け狙う。
どうして、お母さんを殺した。
一度吐き出すと止まらない、疑問と確かな怨嗟。
どうして私の幸せを奪った。どうして私がこんな目に合わなければならない。
どうして、私はこうなんだ。
恐ろしくて、涙が溢れてきた。
悔しくて、涙が溢れてきた。
悲しくて、涙が溢れてきた。
好きでこうなったんじゃない。なりたくておかしくなったんじゃない。私だって普通が良かった。
見えなくてもいいモノまで、見えなくてよかった。
「あなたなんか! あなた達なんかだいっきらい!」
焼けるように熱いこの喉じゃあ、まともな言葉にはなっていなかっただろう。それでも尚言った。言葉にしなければ気が済まなかった。
これまでの人生で積み重ねてきた、必要のない経験を。誰にも聞かせることの出来なかった本音を。
この苦しみを。この恨みを。この呪いを。
吐き出し終えた時、閉ざした瞼に何か冷たいものが触れた。
驚いて目を開けると、すぐ目の前で人形は嗤っていた。
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