17

 ぶつん、と。

 アナログテレビのスイッチを切ったみたいな音がした。何が起きたのか、答えは考えるまでもなく目の前にあったが、私は気付きたくなくて目を伏せた。


 しかしそれは、既に焼き付いてしまった光景を鮮明にさせるだけだった。


 どう、という音と共に落ちた胴体。髪の拘束は解かれていないのに。

 それは紛れもなく、鴟蛇さんの四肢がもがれた瞬間だった。


「鴟蛇さん!!」


 空間が悲痛な叫びに蹂躙される。

 直視せざるを得ない現実が容赦無く私の心を煮立たせる。冷静な思考が一瞬で焼き尽くされ、守ってくれる者もいなくなった私はしかし、震えたままに鴟蛇さんの身体を抱えて蹲った。


 そう、四肢の無くなった、余りに軽く小さな身体を。


「鴟蛇さんっ、鴟蛇さん、鴟蛇さん……!」


 何を思ってそうしたのか、自分でも分からない。彼女を守ろうとでもしたのか、こうなってまで尚彼女を頼ったのか、それとも共に死のうとしたのか。


 合理的な判断などとうに無く、今存在するのは文字通り手も足も出ない小さな少女と、無力で馬鹿な女が一人だけ。待っているのは、最早死だけ。


 そのはずだった。



亡蛇もうじゃ、お食べ」



 壊れた玩具のように彼女の名前を繰り返す私の鼓膜を震わせたのは、もう二度と聞くことが無いと覚悟した、凛と咲く桜のような声だった。


 瞬間、視界の端で人形が吹き飛ぶ。


「あー驚いた」


 ガシャン! と、彼女の時のそれとは比べ物にならない軽さで、壁にぶつけられた人形が音を立てる。


 一体何が起きたのか。一体何が人形を害したのか。私はそれを確認することも出来ず、ただ呆然として腕の中の彼女の顔を見ていた。


「まさかこうまで荒事になるとはね。これは、帰ったらゆっくりお風呂にでも浸からないとなあ」


 喋っている。動いている。四肢を失い、誇張でもなんでもなく死に体だったはずの彼女が、先刻までと何ら変わらない綺麗な顔で、相も変わらず気取った台詞を吐いている。

 思わず、彼女から距離をとった。霊異をよく知る私でも受け止めきれない現実を前にして、あれほど強く感じていた悲しみは雲散霧消し、心に残ったのは困惑と畏れ。


 また、ガシャン! と硬質な音がして、ようやく人形に目をやった。

 何か黒く細長いものが人形を振り回している。あれは大蛇だ。全身が墨汁で出来ているかのような漆黒の蛇が、鋭い牙で以て人形を穿っている。


「達磨女って、知っているかい」


 そう問いかけられた瞬間、戒めから解放された彼女の手足が弾け飛んだ。いや、そうと見間違えるほどの早さで、それが変貌した。


 彼女の右脚が猪になった。彼女の左脚が鹿になった。彼女の右腕が梟になった。


 それらは彼女の元へと参じ、またそれぞれ右脚に、左脚に、右腕に変化して、彼女の身体に収まった。


 そして、四肢を失ったはずの彼女は、何事も無かったかのように立ち上がる。


「聞いたことくらいはあると思うよ」


 私は、問いに答えようともせず、ただ彼女と出会ってから今までの記憶を思い返していた。



「都市伝説で語られる話。あるカップルが服屋にいた時の話。

 試着室に入った恋人がいつまで経っても出てこない。返事もない。不審に思った男が中を覗くと、そこには誰もいなかった。

 実は試着室の壁が隠し扉になっていて、女は人身売買の商品にされて、手足を切り落とされて某国の山小屋で見せ物にされていたという話。これが一つ」


 屋敷に初めて通された時、漆黒の獅子にばかり気を取られていたが、あの奇怪な部屋においても尚不気味だった、散乱していた手足。


「そしてもう一つ」


 彼女の身体から生み出される漆黒の式神達。彼らはいつも現実にいる動物を模していた。


「中国唯一の女帝、則天武后が亡夫高宗の寵愛を争った王氏と簫氏の四肢を切り落として……そう、処刑した。その際女帝は、憎き恋敵の名を無理矢理に改名して辱めたという」



 不自然に黒ずんでいた四肢。もがれたにしては軽すぎた音。血で汚れた様子もない桜色の着物。そして何より、目の前で起きた現実。失われた手脚が、動物になって彼女の元へと集まり、それに変化したこと。


 いや、違う。


 


 それを証明するかのように、彼女の左腕は未だに空白だった。そこに収まるのだろう大蛇は、未だに人形を蹂躙している。


 つまり。


「あなたは、元々、手足が」


 その事実に思い至った瞬間、私は彼女の問の意味を理解した。

 心臓を鷲掴みにされたような感覚。有り得ない、有ってはならないと心が叫ぶが、有り得ないことなんて無いと、皮肉にも私は知っていた。



「その名が、フクロウウワバミ


「鴟蛇、さん――!!」


 その先を言わせてはならないと、今この時、彼女の名前を呼んだことを、きっと生涯忘れない。


 こんな悲しい笑みを見ることは、この先無いだろうから。



「僕の名だ」



 さらりと口にされた筈の言葉の重みと、マグマのように脳を焼き尽くす情報に耐えきれなくなって、私は畳に向かって嘔吐した。

 

 なんだ、それは。そんなことが有っていいものか。


フクロウじゃウワバミ。僕は生まれたその瞬間、普通賜るべき愛とかその他諸々の感情の代わりに、嫌悪と憎悪を両親に貰ったのさ」


 頭の中を熱い何かがいつまでも巡っている。それは圧倒的な拒否感だとか憐憫だとか、とにかくどうしようもない気持ちの悪さだ。



「だから人は僕のことを、侮蔑を込めて『達磨だるま』と呼ぶ」



 鴟蛇さんがそう締めた時、今まで人形に対して破壊の限りを尽くしていた蛇が、畳に叩きつけられた。

 何事かと人形の方を向いた瞬間、私の中に生まれた感情はやっぱり驚きだった。


 人形は最早人形ではなかった。いや、それもまた正確ではないか。人形を中心に様々な道具が連なって、巨大な人の形を成していたのだった。

 人の形ではあったが、人形というよりは骨董の化け物とでも呼んだ方が的を射ているだろう。


 人形ではなく、ヒトガタ。


 そのヒトガタが、ゆるりと1歩を踏み出す。不細工に繋がった骨董が擦り合わさって不快な音を立てた。

 2mは優に超えるだろう巨体。歪な形も相まって、引力のような威圧感を覚える。


 彼女はただ、凛としてそれの前に立った。

 蛇が空白の左腕に還っていく。力強く開かれたその掌に、何が書かれているか分からない御札が集まっていき、やがてひと振りの刀の形に固まっていく。


「さあ、いくよ」


 鴟蛇さんが骨董の化け物に向かって駆けた。古びた畳が彼女の踏み込みに耐えきれずに軋む。

 人形の髪が放射線状に広がって彼女に襲いかかった。


 まるで、蛇のように。大蛇の群れのように。

 そしてそれが、一斉に口を開いた。四方八方、あらゆる方向から彼女を食らおうと迫る。


 川や滝はしばしば龍や蛇に例えられるが、なるほど確かにそれも頷ける。

 激しく、絶え間なく、隙間なく、とぐろを巻いて、何よりこれは、畏ろしい。


 黒い大蛇。否、黒の滝。

 この音が、この暗さが、この押し寄せる絶望が、あの日を私に想起させる。私を芯から震わせる。


 何度も何度も限界を迎えていた心が、砕けてしまいそうに叫ぶ。


 嫌だ。もう嫌だ。こんなに怖いのはもうたくさんだ。怖い事はもう考えたくない。考えないことは、だからとても楽だ。頭の中が真っ白になれば、いつか怖いモノも全部忘れられる。



「思考をやめてはいけないよ」



 暗雲に呑まれかけた私に光が射す。鴟蛇さんの振るう御札の刀が、迫り来る大蛇を斬り伏せた。


「考えない人間はただの獣だ。ゆっくり悩むが良いさ。話の通じない奴の相手は僕がしよう」


 辺りに重厚な扉の開くような、骨董の軋む独特の音が響き渡る。

 髪じゃ足りないと悟ったのか、骨董の化け物は歪で巨大なその腕を掲げていた。その先が、刃のように象られていく。


 それでも彼女は怯まなかった。太い木の枝のような腕が振り下ろされてもいなし、懐に入り込んで斬りつける。


 しかし骨董ばかりに目を向ければ、髪があらゆる方向から襲い掛かる。手が何本も有るような物だった。


 手数も力も劣っているのに、どうして彼女は前に進める?


 鴟蛇さん、あなたに怖いモノは無いんですか?


「怖いよ。怖いに決まってる。僕は常に怖がっている。ただ僕は、怖さに負けて思考を捨てることの愚かさを知っているだけなんだ」


 熾烈なまでの黒髪の攻撃は、雨となんら変わりなかった。彼女はそれを人間離れした動きで避け続ける。

 壁を走り、天井を蹴り、直角に曲がりながら一歩でも先へと。

 彼女の足には獣が宿っている。猪のように力強く、鹿のように軽やかに。


 彼女は止まらない。



「足を止めて髪に殺されるのが怖い。少しでも退いて隙を作るのが怖い。攻撃するタイミングを逃して、また機会を待ち続けるのが怖い―――霊異と向き合うのをやめて、と二度と会えなくなるのが、怖い」


「彼……?」


「だから僕は前を向くんだ」



 その時、道が拓けた。

 絶え間なく降り続けた黒き雨の間隙。彼女の振るった刀が作り出した一筋の光が、私にも見えた。

 細く細く、そして一瞬のそれ。これが彼女の言う攻撃のタイミングならば、そうだ、こんなチャンスは二度と無い。


 だけど、それだけじゃ駄目だ。


「逃げてっ!」


 化け物の武器は髪だけじゃない。幾らチャンスだからってこのまま突っ込めば、正面衝突は免れない。彼女は、力ではアレに適わないのに。


 案の定、化け物はその醜悪な腕を掲げた。単純に腕を上げるのではなく、少しずつ引き絞るように。

 突きの構え。直線的に突っ込む鴟蛇さんの体をいとも容易く貫き、心臓を射抜くであろう、この世ならざるモノの暴力――――その切っ先を、彼女はその細腕で。薄っぺらな刀で受け止めた。


 だから、それが駄目だと言っているのに。

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