18

 惨憺たる結果から逃れるために目を閉じる。暗闇の向こうからバキバキと何かが折れる音が聞こえた。


 これは彼女の腕か? いや、腕は偽物なんだっけ。なら肋骨か? まあ、どうせそんなの気にならなくなるくらい、一瞬後には粉々に壊されるに決まっている。


 ゴトリという音。彼女の胴体がまた落ちたのか? ということはもう死んでしまったのか。式神である彼女の四肢は、術者を喪えば保てないだろうから。


 その音は、人形を落とした時のそれに良く似ていた。



「まぁ、骨董の体に痛覚なんて有るわけ無いよね」


「!」


 目を開ける。驚きに目を見開く。彼女は生きていた。不適に笑っていた。

 じゃあ、先程の骨の砕けるような音は。「ゴトリ」という音の正体は……


「あ」


 彼女の目の前に、化け物の腕が落ちていた。そして気付く。化け物の体から這い出る、黒い毛玉のような生き物に。


「ハムスター……」


 玄関の扉を食い破り、内側から鍵を開けるような賢いハムスターちゃんは、退魔の際は主に敵を内部から攻撃するのが仕事らしい。


 最初の一撃。あの時既に、彼女は彼を潜り込ませていた。


「強さは怖さを知ることだ。何が一番怖いか知っていれば、人は選択を間違えたりしない。油断だってしないし、手段だって選ばない」


 内側からって……悪魔か。いや、可愛いから小悪魔か。


 彼女の手の中の刀が、形を変えていく。懐から出でた札が、更なる武器を象っていく。

 湾曲した刃。長い柄。刃物だから……それ以上の理由で、恐怖を煽る独特のフォルム――――大鎌。



「ごめんね。怖がりだから、卑怯な真似くらい普通にするんだ」



 鏡が割れるような音を響かせて、退魔の鎌が突き刺さる。突き刺さったのは、人で言うなら心臓部。そこにちらりと、赤が見えた。


 赤い着物。人形。

 切っ先は、深々と人形を穿っていた。



 ゴトリ――――その音を皮切りに、崩れる。崩れ落ちていく。ヒトガタが……ただの骨董へと回帰する。


 バラバラと物達が落ちて、また部屋は散らかってしまった。


「……」



 静寂。もう何も聞こえない。私の心臓も呼吸も、最早随分と落ち着いていた。

 人形は無造作に転がっている。着物は擦り切れ、髪はちぎれ、硬質な体はひびだらけだった。


「終わった……んでしょうか」


「さて、どうかな」


 不穏なことを言いながら、彼女は白くたおやかな、綺麗すぎるだけで生身のそれと全く変わらない手で、人形を拾い上げて床の間に置いた。


「それで、思い出したの?」


「……何をですか?」


「全部」


 頷こうとして、やめた。

 ふるりと頭を振って、結界を構成する赤……人形を見つめる。

 空虚な瞳と目を合わせると、頭がズキズキと痛んだ。


 失った記憶は、未だに私を苦しめている。


「思い出したのは、この家で過ごしていたことと、それから、お手玉のお婆さん達と遊んだこと……たくさんの人に優しくされて、嬉しかったこと。でも」


 記憶が修復された今、失ったままのそれが異彩を放つ。思考の放棄をやめれば、ここまでの思い出の喪失が異常な事だと私にも分かる。


 だって、記憶の中の私は笑っていた。たくさんの祖母の友人達と笑っていた。


 そこに、祖母がいたことも今なら分かる。


 なのに。それなのに。



「思い出せないんです……! 私はなぜ祖母を嫌っていたのか。ねえ、鴟蛇さん……私は、本当に祖母を嫌っていたんですか? こんなに楽しい記憶の中にいる人を、私は本当に嫌ってしまったんですか……!?」


 自分の悪辣さに反吐が出る。ぐしゃりと顔が歪んだのが分かった。きっと今私の顔は、心に似つかわしく醜悪に違いない。


「かぐや」


 気遣わしげに伸ばされた手に、黒いモノが巻きついた。

 

「!」


「……そんなになってまで、まだ」


 それが何なのか、考えるまでもない。人形の髪だ。人形は、ボロボロの身体を引きずるようにして、床の間から徐々に近付いてくる。

 しかし、もうそこに先程までの力も、威圧感もなかった。髪はほつれ、たわみ、戒めとして全く機能していない。近付いてくる速度は牛歩に例えてもまだ早く、明らかに限界を迎えていた。


 あれほど恐ろしかった霊異なのに、今は酷く、哀れを誘う。


 鴟蛇さんは人形を拾い上げた。ぐるぐると巻き付く髪に構うことなく、彼女はそれを私の前に持ってくる。


「な、何を」


「キミが相対したのは、ただの付喪神なんかじゃない」


 どこか悲しげな目に、口を噤む。

 彼女はその目のまま、ぐるりと部屋を……そこに散らばる骨董たちを見渡した。つられて見れば、彼らは注視しないと分からないほど微かに、しかし確かに未だに動いている。


「思い出せないのなら、考えなくちゃ。キミにはその義務がある――想いに応える義務が」


「想い……?」


 彼女の行動や表情には、人形や骨董に対する慮りを感じる。深い因縁がある訳では無いとはいえ、つい先程まで命のやり取りをした相手に対する態度だとは思えない。

 彼女の言葉の意味も、その表情の真意もなにもかも、私には分からない。


「分からないのか」


 咎めるようなその言葉に、傷つくことも出来ない。


「この家に結界が張られていたこと、人形が霊的な知識を持っていたこと、その意味が」


 

 人形の手でも伸ばせば私の顔に届く……それほどの距離にまでそれが近付けられた瞬間、鴟蛇さんに巻き付いていた髪が私に伸びてきた。


 突然の事で驚いたが、鴟蛇さんがすぐそばにいるせいか、ゴミ同然のその姿に同情したからか、比較的落ち着いてそれを受け入れられた。


 髪はゆっくりと私の身体を這い回る。そこに害意は感じられず、気遣わしげにすら思えるほど優しい。それはまるで、何かを確かめているかのようだ。


「これで分かったかい?」


 いいえ、と言おうとして、彼女の目が私を見ていないことに気がついた。



「僕はかぐやを虐めていた訳じゃあないよ」


「え――」


 その時、人形が笑った。

 あの日。私が影のごときあの人と出会った夜と、全く同じ顔で、とでも言うように。


 鴟蛇さんの言葉を飲み込む前に、人形の髪に劇的な変化があった。毛先から根元に向かって、色が抜けていく。白く、変わっていく。


 まるで、老婆の如く。


 この乾いた白に、見覚えがあった。


 考える前に、口は動く。



「……おばあちゃんの色」



 瞬間、頭の中で何かが弾けた。

 まるで花火が咲くように、私の情報が、人生が、記憶が、解放されていく。



「キミの話を聞いていて、僕にはどうしても腑に落ちない点がいくつかあった」


 彼女の言葉が心に染み入っていく。じんわりと熱が広がっていく。

 心の奥底に全ての感情が、氷が溶けて川に流れ出るように、今更胸に殺到する。


「『祖母も母も家を空けることが多かった』……つまり、なんだ。『幼稚園にも通っていない幼い時分』だったキミは、この家に独りでいたというのかい? まさか」


 思い出したのは、のこと。


「いたんだよ。誰かが」


 そう、私が独りでいられるほど強かったんじゃない。


「いたんだよ、そこに。彼等は、いつもキミと共に在ったんだ」


 ざらついた木の感触。カビの匂い。身動ぎする度に鼓膜をくすぐった、あの硬い音。


 古ぼけた鏡。錆び付いた簪。直した痕だらけの桶……何年も使い込んだ道具達。


 独りで泣いてばかりいた私の涙を拭ってくれた、人ならざる者……否、モノ。


 付喪神。



 お手玉のお婆さんの言葉が蘇る。

 「古い物だから大変」とはどういう意味だ? あの時何気なく流した言葉と、私達より背丈の低いお婆さんの、絶対的な死角にあったあの鏡。


 あれも、そうだったのか。何年も使い込まれ、魂を宿した人ならざるモノだったのか。


 そうと分かっていて、あそこまで愛情を注いでいたのか、あの人は。


「人形が結界を構成する要素の一つなら、既に結界は解けていた筈なんだ。人形がキミを追った時点で……いや、恐らくキミは、幼い頃に人形を動かしただろう。幼い子供が、見るだけで気が済むとは思えないから。だからその時点で結界は解けていた筈。それなのに彼等がここに留まり続けた理由、それはキミなんだよ」


 

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