20

 ああ、そうだった。

 目の前で友達と同じモノが、見たことも無い顔の祖母に惨殺されたあの瞬間。


「人は、耐えきれないほどのショックを覚えた時、無意識に記憶を手放すことがあるらしい」


 私は、壊れたのだ。


「母と、祖母と、それから霊異。頼るものが無くなった幼いキミは、生きていくために記憶に封をした。辛い記憶に、無意識に蓋をした」


 それは当たり前のような生存本能。武器を持たない弱者の防衛機構。


「失ったのは、虐待の記憶。霊異の記憶。鬼のような顔の祖母の記憶。残ったのは、祖母に引き取られた事実と、それから、異常に怖がりになっていた自分だけ。虫食いだらけの記憶を無理矢理に補完した結果、キミは祖母が嫌いになった。挙句の果てに、人間だけを絶対的に信じる、狂人となった」


 人を恐れた事がない。

 記憶の片隅にも引っかからない初対面も同然の人間を、害されたことが無いから優しいと信用した。狂信した。


 彼女からすれば……生まれた時から人の狂気に浸りに浸ってきた彼女からすれば、私の姿はそれこそ恐怖だっただろう。


 『怖いよ、君』


 冗談でもなんでも、無かったのだ。


「記憶のない恐怖を、キミの心は許さなかった。それを嫌いという言葉で説明づけた。嫌いだから、近付かない。嫌いだから、関わらない。それでも羽衣さんは、孫を護り続けた。今になって尚。


 驚きに顔を上げると同時、変に納得もしていた。

 霊異の専門家だった祖母。それと同等の知識を有している人形は、記憶の中では一度も動いたことがなかった。


 祖母と人形が、等号で結ばれる。


「ずっと心配していたんだ。魂の器としてキミが好きだった人形を選び、祓われようとも、結界に遮られようとも抗い、キミの一番近くにいて、孫を見守り続けた。実の娘を殺してまで、誰よりキミを護りたかったんだ」


 人形の、白い髪をもう一度撫ぜる。弱々しく巻きついてくるその乾いた感触が好きだったことを、今更に思い出す。


「こんなに、なってまで……? こんな、人形になってまで? 霊異になってまで? ボロボロに、なってまで、本当に、私を……」


「恐怖越しにじゃなく、もっと素直に見てごらん。人形の……キミの祖母が、してきたことを」


 ぐっと瞼を閉じて、自分の記憶に問いかける。


 人形のしてきたこと。

 私を追いかけてきた。私の裾を掴んでにたりと嗤った。どこに置いてきても帰ってきた。鴟蛇さんを殺そうとした。


 お母さんを、殺した。


 それだけ。それだけだ。

 何度だって繰り返されてきた、思い出すまでもない苦い記憶。なのに、それなのに。その記憶に、優しい声が混じる。


 私を追いかけてきた。悪夢にうなされ、よく飛び起きては出歩く私の後を、音もなく。


『こんな夜中に何処に行く気だい?』



 私の裾を掴んでにたりと嗤った。もう逃がさないと、不気味な顔で。


『やっと追いついた。良かった。年頃の女の子がこんな時間に出歩くんじゃないよ』


 どこに置いても帰ってきた。お祓いをしても。結界の内側にいてさえも。


『もう独りにはさせないからね』


 鴟蛇さんを殺そうとした。私を救おうとしてくれた、桜のように美しい人を。


『かぐやを泣かせるんじゃないよ!』



 お母さんを、殺した。


『娘でもね……許せないことがあるよ』


「……っ……!」


 言葉に出来ない気持ちが、溢れてきて止まらない。

 胸に生まれた熱い何かは喉を伝って登っていって、綺麗な物になって外に出ていく。涙と共にこぼれたのは、胸に閉じこめておくには大きすぎる愛情だった。


『かぐやを、傷付けるんじゃないよ!!』


「おばあちゃんっ……!!」



 視界が海に沈む。

 ぐにゃぐにゃと不細工に人形の顔が崩れていく。目の回りが火傷しそうに熱くなったかと思えば、透明な物がそれを冷ましていく。引きつった声が、私の喉を灼いていく。


「ごめんなさいおばあちゃん、酷いことたくさん言ってごめんなさい……ごめん、なさい……っ」


 膝の上の人形を……おばあちゃんを、抱き締める。

 今と昔じゃ立場が逆だけど、こうしておばあちゃんと抱き合った記憶は、確かに私の中に息づいている。


「違うよかぐや」


 鴟蛇さんが、私の目の前で笑っていた。桜のように綺麗でやさしいそれが、おばあちゃんの笑顔と被る。


「キミの言うべき言葉は、それじゃない」


 そうだ。私が口にするべきことは謝罪よりも簡単だ。

 昔のように、おばあちゃんを見つめて笑った。涙でぐしゃぐしゃで、我ながら酷い顔だと思うけれど。

 誰かのために誰かを害することが正しいかどうかなんて、やっぱり私には分からないけれど。


 それでも、こう言える。


「ありがとう、おばあちゃん……! 護ってくれて、ありがとう!」



 瞬間、ふっと人形から力が抜けた。

 いや、そんな訳がない。元が人形なのだから、力が抜けるも何も有るわけがない。しかし、そうとしか形容できないほどに、人形から何かが喪失した。


 人形の髪は、白から黒へと変色していた。いや、元に戻ったと言うべきなのか。


「僕の力は少し特殊で」


 困惑する私から、鴟蛇さんはそっと人形を取り上げた。


「他者、或いは己の傷や感情に形を与えて切り離すというものだ。その力で、あなたをこの世に縛り付ける未練を切り離し、『向こう』に送る」


 涙で歪んだ視界の先で、おばあちゃんが頷いた気がした。

 お別れだ。それに気付いた私は何かを言おうとおばあちゃんの影に手を伸ばして、やめた。言うべきことは、全て言ったのだ。


 私がすべきことは、おばあちゃんが安心していけるように、強く在ること。


「おばあちゃん。私はもう大丈夫。大丈夫だから……」


 今できる、最高の笑顔を向けること。


「またね」


 もう何も言わずとも分かってくれたんだろう、鴟蛇さんはひとつ頷くと、うたうように言った。



「あなたの心配と懸念は、全て僕が引き受けよう。だからどうか――」


『良い友達を見つけたみたいだね』


 鴟蛇さんの声に溶け入るようにして、二度と聞けないと覚悟していた声が聞こえた。


「――安らかに」


 眩しい程の光の奔流が天へと昇っていく。

 細めた瞳には多分、未だに涙が溜まっていたんだろうけど、それすら分からないほどの輝きだった。

 ぼんやりとした視界の中で、おばあちゃんが笑った気がした。



「次に会う時は、私もおばあさんになっているんでしょうか」


 誰に向けるわけでもなく、言う。だからこれは独り言だ。この先もしっかりと前を向いて生きていくという、自分への誓い。


「一件落着」


 小さく鴟蛇さんが言った。その傍らにはいつの間にやら黒い犬が侍っている。

 感情に形を与えて切り離す……つまり、こういうことか。彼女に触れられて気持ちが楽になるのは、ただの錯覚ではなかったということだ。



「で、これから先のキミは、救われたかな? 霊異嫌いのかぐやさん」


 一瞬どういう意味かを悩んで、それから笑う。


「ふふっ。なるほどです……優しいですね、鴟蛇さん」


「さて、どうだか」


 今まで持ち続けていたささやかな疑問が氷解した。


 私の依頼を解決するだけなら単純に人形を破壊してしまえば良かったのに……現に彼女は、専門家の暗黙のルールを教える際に、その例を出していたのに、そうしなかったのは、こういう理由か。

 わざわざあたしをこの家まで連れてきて、記憶を取り戻させたのは、霊異の何たるかを……悪いモノだけではないことを、伝えるためか。



「ええ。もう二度と、恐れるモノを違えませんとも」



 それから私は、酷く泣いた。泣いて泣いて、泣きまくった。

 声も涙も涸れるくらい、赤ん坊もかくやというくらい、泣いた。古い木造の家じゃきっと、防音も何もあったもんじゃなかったろうけど、そんなのお構いなしに、泣いた。


 鴟蛇さんはずっと私の肩を抱いてくれていたけれど、涙を止めようとはしなかった。


 止めないで、いてくれた。

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