8
◇
翌日。私は初めてレンちゃんに嘘をついた。
「けほっ……はい。風邪を引いちゃったみたいで。大学はお休みします」
『大丈夫なの?』
少し低くてハスキーな声が電話口から届く。若干寝惚けたような声だ。今日は一限からあったはずだが、そんな調子で間に合うのだろうか。
「ええ。大したことは無いので。ちょっと熱っぽくて咳と鼻水が出て怠いくらいです」
『あっそ。ちゃんと病院行きなさいよ』
「あまり酷いようだったらそうします。レンちゃんも大学サボっちゃダメですよ」
『はいはい』
「寝ちゃダメですよ」
『うーい』
向こうから切られた。この調子だと行きはするものの、遅刻はするし寝もするといったところだろうか。休んだ講義の内容は諦めるしか無さそうだ。
そっと溜息を吐く。風が私のくせっ毛と庭先の桜の木を揺らした。花弁が遠慮もなく散っていく様に、春の終わりを感じる。
「親しいんだね」
隣に腰掛けた鴟蛇さんが呟くように言う。庭を眺める横顔は、長い黒髪が邪魔して良く見えない。
「はい。ちょっと変わってますけど、良い子なんですよ」
「本当にごめん」
応えることなく、彼女はただ頭を下げた。
綺麗に磨かれた縁側に、艶やかな黒髪が落ちてとぐろを巻く。
もう一度、春の朝の少し冷たい風が吹いた。彼女の髪が柔らかく舞う。その流れはまるで川のよう、或いは滝のようだ。
「預かると言っておきながらこの体たらくだ。信じてくれたキミにも、この件を僕に預けてくれたクモさんにも申し訳が立たない」
「いえ」
頭を振る。そうまで悲痛な顔をされると文句を言う気も起きない。
鴟蛇さんとは逆隣に置いたトートバッグの中を見る。中身は、昨日確かにここに置いてきた市松人形だ。
朝、目覚めた私の部屋は何も変わっていなかった。一切合切、クモさんに出会う前とも、出会った後とも、鴟蛇さんと出会った昨日とも、寸分違わぬ日常だった。
また、戻ってきてしまったのだ。
霊異の専門家に預けて尚、人形は私の元に帰ってきたのだ。
「油断した。いや、油断と言うより慢心だった。専門家としてあるまじきミスだ。僕は、キミの信頼を裏切った」
もう一度頭を振った。はっきりと、大袈裟なくらいに。
「それでも、私はあなたを信じると決めたんです」
鴟蛇さんの細くて小さな手を握る。私を映す黒瞳は、少し潤んでいた。
「捨てたって、焼いたって、お祓いをしたって、この人形は戻ってきたんです。今更専門家さんの所から帰ってきたって驚きません」
いや、本当は驚いた。泣きたくなった。どうしてと叫びたかった。裏切られたと感じなかったと言えば嘘になる。
専門家というのも嘘かもしれない。それっぽいことを言って、騙そうとしているだけなのかもしれない。適当に話を合わせていただけなのかもしれない。そんな疑念が湧いて出た。
しかし、鴟蛇さんが私に寄り添ってくれたのは事実なのだ。
優しく背中を摩ってくれたのは、事実なのだ。
「それでも、助けてくれるんでしょう?」
縋る先がここしか無いというのも無論あるが、何よりも私は、この美しい人を信じたいと思ったのだ。
「……勿論だ」
鴟蛇さんはぐっと唇を引き結んだ。桜色の着物の袖で目元を擦る。強い瞳が私を真っ直ぐに見つめ返していた。
「絶対にキミを助ける。万能の専門家、
「それ、偽名じゃないですか」
茶化して言う私に「それを言わないでよ」と笑みを向けて、彼女は庭に降り立った。小さく私を手招いて、桜の木に視線をやる。
それに倣って、花ではなく幹の方を見れば、何か紙が乱暴に剥がされたような痕がある。
「お札……ですか?」
「うん。結界だよ」
鴟蛇さんは着物の広い袖から、多分剥がされたものと全く同じお札を取り出して見せてくれた。
流麗な文字で書かれているそれがどんな意味を持つかなんて、当然私には分からない。何か有難いことが書かれているんだろう。
飾りのように添えられた五芒星だけ、馴染みがあって妙な感じだった。
「これと同じものが屋敷の至る所に貼ってあるんだけど、剥がされていたのはここだけだった」
「ですか」
そんな深刻そうに言われても、良く分からないんですが。
「つまり、それで十分だということを知っていたんだ」
鴟蛇さんは、そっとお札の痕から何かを摘んだ。
よく目を凝らして見ると、細くて白いものが彼女の指に絡みついている。
「これは、糸……ですか?」
「髪だ」
身体中に悪寒が走った。知らずの内に縁側を振り向いてしまう。
その髪が誰のものなのか、否、何のものなのか、頭より先に本能が理解したのだ。
「外から入ってくるモノを拒み、そして内から出ようとするモノを阻む……これはそういう代物なんだ。僕の言う慢心とは、何も一晩預けておいてくれれば解決しておける、というものじゃない。この結界の内側に在れば、キミの元へ行くことは出来ないと決めつけていたということだ」
「人形が、やったんですか」
分かっていることを敢えて聞いた。声は多分震えていたと思う。
鴟蛇さんもそれを分かったのだろう、質問に応えることはなかった。
「この一枚を剥がせば結界全てが消えてなくなる、なんて欠陥のある代物じゃないんだよこれは。ただ、どこかに綻びが出来るのは確かなんだ。それでも、ほんの少しの間だけ、本当に小さな穴が開くだけだよ。他がカバーして自己修復するように出来ているんだ。術師達の歴史は長い。その中で培われてきた技術だ。伊達じゃないんだ」
木の幹に新しいお札を貼り付けながら、彼女は続ける。
「大きく結界が揺らげば、すぐに僕だって気が付く。結界そのものに攻撃を加えられたら、或いは沢山の符を剥がそうとすれば、絶対に気が付く。でも、この一枚だけなら気が付かないかもしれない。現にすぐには僕だって気が付けなかった。その一瞬の隙をついて、ほんの一瞬のチャンスを活かして、ギリギリ自分が通れるくらいの隙間から、あれは出ていったんだ。これは結界の『破壊』じゃない。『解術』だ」
振り返って、彼女は縁側を睨みつけた。正確には、そこにある私のトートバッグを。その中にある市松人形を。
「そもそも、霊異が簡単に剥せるようなモノじゃ無いんだ」
苦々しく彼女は言う。
「余りにも理知的。そして強力な霊異だ。いや、それだけじゃない」
じっと鴟蛇さんは私を見る。澄んだ瞳に映る私は、怯えていた。
「彼女には、霊異の専門家としての知識がある」
「……」
普通じゃないことは、分かっていた。分かっているつもりだった。
生まれつき霊異を見てきた私だ。専門的な知識がなくとも、なんとなくそれがどんなものなのかは知っている。
ただそこに在るだけのモノ。ほんの少し人に不調を来たす程度に害があるモノ。悪戯が好きなモノ。科学的に解明したと人が勘違いしているモノ。
見えないだけで、霊異は私達と生活を共にする、愛されざる隣人だ。
だから、人を殺す霊異が、普通じゃないことなんて、分かっていたはずなのに。
「なんなんですか本当……もう、霊異なんてだいっきらい……!」
今私は、こんなにも霊異が怖い。
「大丈夫だ、かぐや。僕がいる限り、決してあの人形に手は出させな」
「人形以外は?」
震える身体を自分で抱き締める。どれだけ強く自分に触れても、心を慰めることなど出来ないと知っているのに。
「あなたがあの人形を破壊したとして、その先は? 霊異は、いつだってそこにいるじゃないですか。誰にも見えないからって我が物顔で歩き回っているじゃ無いですか。路傍の石のように溢れかえっているじゃないですか。私の目は、それを一生見続けるじゃありませんか」
くつくつと胸の内が茹だっていくような気がした。
理不尽な現実に対する悔しさと怒りと悲しみが、綯い交ぜになってじわじわと全身を支配していく。
「これまでずっと苦しかったんです。ずっと怖かったんです。暗がりに怯えない日は一日だってありません。光に助けを求めて、それを裏切られた回数は千じゃ足りないでしょう。これからもずっと苦しいでしょう。ずっと怖いでしょう。科学が発展して、人工の太陽が一人一つ配布されたって、それは私に平穏をくれはしないでしょう。安心ってなんですか? 安寧ってどこにあるんですか? 一体いつになったら、霊異のいな」
「かぐや!!」
暗く冷たく沈んでいた意識が、唐突に引き上げられた。
ふわりと鼻腔が花の香りに満たされる。開けた視界いっぱいに、桜色が広がっていた。
ぽろりと一雫、涙が零れてからようやく、鴟蛇さんに抱き締められているのだと理解した。
「大丈夫。大丈夫だよ」
赤ん坊にするように背を一定の感覚で叩かれる。彼女と触れている部分がじんわりと熱かった。身体はもう震えていない。
軽く鼻をすする。目元を擦ると、涙はすぐに引っ込んでくれた。
「……ごめんなさい、私ったら、愚痴を」
「気にしないで」
最後に一際強く抱き締めてから、鴟蛇さんは離れた。「落ち着いた?」と聞く顔は変わらず朗らかだ。本当に気にしていないみたいでほっとする。
足元には、いつやってきたのか黒い犬が侍っている。
「まずは、目の前のことから片付けよう」
「……はい」
そうだ。先のことなんて考えても仕方がない。だって、どうにもならないのだから。
過去を振り返っても良い事なんてない。だって、思い出そうとすると、こんなに頭が痛むのだから。
痛いことは悪いこと。
悪いことは、してはいけないことだ。
だから私は。
「考えない、です」
誰にも聞こえないように呟く。だからこれは独り言だ。自分に向けた言葉……自戒なのだ。
「ほら、かぐや」
「へ? わ、たっ!?」
唐突にトートバッグが飛んできた。
どうやら鴟蛇さんが投げてきたらしい。残念ながら超人的な反射神経を持っていない私はそれに反応することが出来ず、中の人形に強烈なヘッドバッドをかまされる羽目となった。
別に人形はどれだけ乱暴に扱っても構いませんが、私の方は気遣って頂けませんかね?
「いったあ…っ 、なんなんですか、もうっ!」
「行くよ」
抗議の声を上げる私を無視して、鴟蛇さんは屋敷の外へと歩を進める。
痛む頭を抑えながら何処へと問えば、彼女は首だけで振り返った。
「キミの家。キミの全てが始まった場所。そこで全て終わらせよう」
一際強い風が吹く。
垂れた桜がまた花を散らした。春の陽光に照り映える桜色の着物は、花弁に紛れて一瞬だけ姿を消した。
幻想のようなそれに見とれた瞬間、頭上を大量の鴉が飛んで行った。黒い翼が陽光を覆い隠して、彼女の進む道を闇に染める。
翼の間から漏れた光が、細く細く延びていた。
「かぐや?」
「あ、は、はいっ!」
呼び掛けられて、足を早めた。
太陽も頂点に届かない、早い時間だった。
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