7

「私がこの人形を初めて見たのは……いえ。人形と出会ったのは、祖母の家でした。ここよりずっと狭いですけど、同じ木造平屋の家です。人形はそこの一室にじっと佇んでいたんです」


 もうそこがどんな部屋だったかも覚えていないが。

 思い出せるのは、文字の羅列のような単なる事実のみだ。


「旧い家でしたからそうおかしな事ではないかもしれませんが、私自身は凄く珍しく思ってました。それまで見たことがありませんでしたから」


「珍しい? 初めからキミの生活に根差していたものではなかったのかい?」


「ああ、はい。元々は母とアパートで二人暮しで」


「二人?」


「まあ……父は物心着く前に、はい」


「……それは、ご愁傷さま」


 鴟蛇さんは軽く頭を下げたが、言葉とは裏腹に余り気にした様子はなかった。私も父の記憶など朧気にもないので咎めたりはしない。


「別に、寂しくもなかったんですよ。父はいませんでしたが、曽祖父が良く遊びに来てくれていましたから。それで曽祖父も亡くなって母と二人になって……半年後くらいでしょうか、暫くしてから祖母が保護するような形で、身を寄せることになったんです」


 多分、曽祖父から金銭的な援助を受けていたんじゃないかと思う。余りにタイミングが良すぎるし、そうじゃないならもっと早い段階で保護されても良いはずだ。


「ええと、それで」


 視線を上にやる。少し話がズレたが、話すべきは人形と関係することだ。

 穴あきのフィルムみたいな記憶を更に取捨選択する。


「祖母も母も家を空けることが多かったので、退屈だった私は何度も人形を見に行っていました。よく飽きないものだと呆れられたくらいで。まあ、今思えば本当に何が面白かったんでしょうね。何しろ幼稚園にも通っていない幼い時分だったもので、もう私にも分かりません。ただただ珍しかったんでしょうか」


「お祖母さんは、キミが人形を眺めていることについては何も言わなかったのかい?」


「え? ええ、確かに厳しい人だったと思いますが、その程度で叱ったりはしませんが……」


「ふむ、じゃあ元々曰く付きだった訳では無さそうだね」


 得たりと頷く。そこが私にとっても不可解な点。


「そうなんです。幼い頃はまるきり普通の人形でした。本当に、どうしてこうなったのか……」


 気分が沈む前に、続きを促される。



「お祖母さんもお母さんも、忙しくしていた人なんだね?」


「それはまあ、父がいませんから、母は大変だったと思います。いつも遅くまで家に帰ってきませんでしたから。顔を合わせることも余りないくらいで。ただ、祖母の方は仕事をしていた訳じゃないと思いますよ。祖母が家を空けていたのは基本的に夕方頃でしたから。その隙に私はお昼寝をしていました」


「その隙に?」


「私、祖母が苦手だったんです。いえ、言ってしまえば嫌いでした。だから、なるべく隙を見せないようにしてたんです」


 ハッキリと口にするが、バツが悪くて苦笑する。人を嫌うことは褒められたことではないし、身内となれば尚更だ。


「理由は?」


「覚えていません。多分、厳しい人だったからじゃないでしょうか」


 仕事で忙しかった母の代わりに、祖母が私の面倒を見ていた。私は祖母を避けていたから、実感こそないが。

 曖昧な記憶だが、「あれはダメ」「これはダメ」とよく言われていたような気がする。

 ものを知らない幼児だったのだから、仕方ないことなのだが。


「ああ、あとは、よく母と喧嘩をしていたからですかね。私が寝静まってからしていたようですが、母が声を荒らげるものですから、目が覚めてしまって。母の顔がいつも真っ青だったことは覚えています。幼心に、母が虐められているとでも思ったのでしょう」


 仲良くして欲しいとは不思議と思わなかった。身内とはいえ、家族だという実感が余り無かったのだろう。祖母が日常にいるようになったのは、物心ついたあとのことだ。


「決して仲の良い家族では無かったでしょう。そもそも、家族と呼べるようなものだったのでしょうか。母と私、それから祖母。家の中で二分されているような感覚でした」


「お母さんとは上手くやっていたのかい?」


「それはもちろん」


 即答する。考えるまでもない事なのに、鴟蛇さんは細い眉を上げて、驚いたような顔をした。


「余り顔を合わせないくらい、忙しくしていたのにかい?」


「関係ありますか?」


 首を傾げる。何故驚くのかも全く分からないし、何故そんなことを聞くのかも分からない。


 私の答えを聞いて、鴟蛇さんはすっと目を細めた。巨獅子にもたれていた身体を起こして、ずりずりとこちらに近付いてくる。


「な、なんですか?」


「失礼」


 短く言って、鴟蛇さんは私のブラウスに手をかけて思い切り捲りあげた。インナーも巻き込まれて、お腹が顕になる。


「きゃあ!?」


 振り払おうとするのだが、凄い力で持ち上げられていてビクともしない。部屋に引きずり込まれた時もそうだったが、一体この細腕のどこにそんな力があるというのか。

 抵抗も虚しくそのまま背中辺りまで観察され尽くしてしまった。「お嫁にいけない」と突っ伏す私を無視して、彼女はまた獅子に身体を預ける。


「な、なんだったんですか、もう」


「その傷、どうしたの?」


 彼女は、顎でしゃくるようにして私の身体を指した。弁解も何も無いのはどうかと思うのだが、目くじらを立てるような事でもないか。

 「ああ、これですか」と、お腹の辺りを擦りながら言う。私の身体は至る所に傷がある。幸い見える部分には無いのだが、衣服の下は中々悲惨なものだ。斑点のような火傷の跡、何かで切りつけられたような跡。今でこそ薄くなっているが、小中学校時代は結構な悩みの種だった。


「さあ、覚えてません」


「覚えてないって、キミ」


「本当に覚えてないんです」


 真実、なんの心当たりもない。物心ついた頃にはもうあったんじゃないだろうか。傷ではなく、こういう肌質なのだと言われれば信じられるくらいに、記憶がごっそり抜け落ちている。


 或いは、本当に生まれつきなのだろうか。


「ふむ」


 顎に手をやって何か考えていた彼女だが、一つ息を吐いてから真っ直ぐにこちらを見てきた。


「クモさんは」


「はい」


 その目をしっかりと見つめ返す。


「クモさんは、重要なことは余り喋らない人だ。この業界に生きる人間以外には特にね。だから、キミとも大したことは話していないはずだ」


 それが、私の傷と……或いは、人形の件となんの関係があるのだろう。鴟蛇さんは先程からなんら関係のなさそうなことばかり尋ねる。大して考えもせずに従っているが、意味はあるのだろうか。


「っ……」


 考えを巡らせると、じわじわと頭が痛む。

 痛みと考えを振り払うように頭を振った。

 考えることは、痛いこと。痛いことは悪いこと。悪いことは、してはいけないことだ。


 だから私は、考えない。


 黙って頷く。彼は初対面でも軽口を叩くくらいにフランクな人だったが、鴟蛇さんの事とか、この屋敷のこととか、或いは人形のこととか、必要なことは全くと言っていいほど口にしなかった。

 

「でもキミはここに来た。大した疑問も持たずに。動く人形を気のせいだとか、幻だとかで済ませようとはせず、実際にあるものと断じて、解決のために動こうとした。キミの置かれた状況を、正確に認識することが出来ていた。まあ、そうと捉えるしか無いほど大きな何かがあったからかもしれないけれど、それにしたって、キミからは霊異についての疑問や疑念を感じない。ねえかぐや? キミの日常に、霊異が根ざしたのはいつ?」


です」


 そう、最初から。

 生き生きとした死体。死に体な生体。生と死の狭間にあるもの。闇に巣食うモノ。人と共にありながら、それを認識することが出来ないモノ。私達とは違う何か。


 私は生まれつきそれを見ていた。


 だから暫く気が付かなかった。

 が私達とは違うモノだと。

 通常関わることの無いモノだと。

 それを見る私が、異常なのだと。


「じゃあ、キミが霊異を恐れ始めたのはいつ?」


「霊異だと、知ってからです」


 霊異の話をし始めてから、意思に反して身体がカタカタと震えていた。寒い訳じゃない。体調が悪いわけでも勿論ない。

 震えを止めようと自身の身体を抱き締めるが、震えているという事実を再確認するだけだった。


「何故霊異は恐ろしい?」


「危ないからです」


 私達とは違うから? 闇に巣食うモノだから? 異形だから? いや、違う。


「霊異は、人を殺します」


 心臓がドクンと跳ねた。

 内側から胸を殴打する命が、を思い出させることを止めようと躍起になっている。頭痛は益々酷い。体温が上昇していくのが肌でわかった。口の中は砂漠のように乾いているのに、全身から汗が噴き出す。


「キミは、それを見たのか」


 鴟蛇さんの声は最早遠い。加速され過ぎた血流が毒となって身体を蝕んでいるような感覚。深呼吸しようとするが無駄だった。


「その、人形、が」


 短く鋭い呼吸に乗せて言葉を吐く。


「母、を」


 額から流れた汗が目に入る。思わず瞼を閉じた瞬間、その裏に流れるの記憶。

 祖母が天寿を全うして、葬儀を上げて間もなくのことだった。

 

 この家とは比ぶべくもない、狭い庭で起きた


 ラジオのノイズに良く似た雨音。氷のように冷え切った身体。マグマのような胸の内。黒々とした滝。宙にぽつんと浮かんだ赤色。


「……っ!」


 言葉より先に、胃から朝食べたトーストが出てきた。いつの間にか傍にいた鴟蛇さんが差し出したビニール袋に顔を押し付けるようにして、喉が焼けるくらいに吐き続ける。


 胃が空っぽになってから、ようやく言った。


「こ、殺し、ました……っ!」


 言ってから、もう一度嘔吐した。吐き出すものが何も無くなった身体からは、胃液しか出てこない。

 鴟蛇さんが背を摩ってくれる。彼女の白い手に触れられると、辛さがすーっと消えていくような気がした。


「……なるほど」


「げほっ! げほっ!」


 鴟蛇さんは申し訳なさそうに目を伏せた。


「辛いことを話させてしまったね」


「いえ……必要な、ことですから。それより、すみません」


 彼女は部屋の片隅に置いてあった水差しで水を注いでくれた。温い水は今の私には酷く優しい。すぐに身体に溶け込んでいく感覚が心地よかった。

 私が落ち着くまで背を摩ってから、鴟蛇さんは古い時計に目をやって言った。


「余り遅くなると悪いし、今日は帰ると良い。人形は僕が預かっておくよ。また明日、同じ頃に来てくれ」


 時計を見ると15時頃を指していた。確かにこの辺りが頃合だろうか。

 立ち上がって頭を下げる。人形を預かってくれると言ってくれたからだろうか、嘔吐までしたというのに、身も心も来た時よりも軽いくらいだった。


「あ、そうだ。最後に一つだけ」


 辞そうとした私を、鴟蛇さんは呼び止める。その足元には、いつの間にやら黒い犬が侍っていた。


「キミ、人間は怖い?」


「いえ、生まれてこの方、人間を怖いと思ったことはありませんが」


 首を傾げるも、彼女は「そうかい」と呟くだけだった。

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