12
「キミのお祖母さんは、周囲の人達に慕われていたようだね」
他人の身内を褒めるというのに、鴟蛇さんの表情は少し暗かった。私が余り良く思っていないからだろう。事実、眉間に皺が寄った。
嫌いな人間が褒められるのが嫌なのではない。良い人間を好きになれない私自身が嫌なのだ。
どうしてこんなにも祖母の名を聞くと心がざわつくのだろう。
繰り返し考え、そして頭の痛みに遮られてきた思考をもう一度繰り返す。
どうしてこんなにも祖母を嫌うんだろう。
どうして昔のことを思い出すと頭が痛むんだろう。
どうして祖母の顔すらまともに思い出せないほど、私は記憶を失っているのだろう。
どうして、私は。
「かぐや」
呼びかけられて現実に引き戻される。
ハッとして鴟蛇さんを見ると、至極心配そうな顔をしてハンカチを私の額に押し付けた所だった。
額に手をやるとびっしょりと濡れていた。
「僕には、肉親への情なんて分からないけど……それでも、家族だからといって絶対的に信頼するものだとか、好くものだとか、そういう訳では無いと思う。きっとキミは普通だし、それにキミはそうやって他者を嫌う自分を疎んでいるじゃないか。だから、そんなに自分を責めなくたって良い」
そうだ、考えることは痛いこと。痛いことは悪いことで、悪いことはしてはいけないことだ。だから私は考えない。
そう決めたのも、一体いつの事だったやら。
「いっそのこと……」
自嘲気味に笑いながら言う。
「全部全部忘れてしまって、私が私でなくなったのなら、こんなに辛い思いもしなくて済むんでしょうか」
お母さんが死んだという事実も、祖母が嫌いだという事実も、人に優しくされた記憶も何もかも無くなってしまえば……過去が全て虚構になってくれたら、一体どれほど楽だろう。
失った記憶の欠片の小さな小さな一片まで消えて、思い出すとっかかりも無くなって、思い出そうとしなくなったらどれだけ楽だろう。
そうして考えないを極められたら、どんなに楽だろう。
「そんな事を言っちゃいけない」
しかし鴟蛇さんは、私の言葉を否定した。
幼子にそうするように、しっかりと私の腕を掴んで逃げられないようにしながら。
「どれだけ辛かろうと、過ごしてきた時は無くならない。どんなに呪われた記憶でも、それは今のキミを構成する一部だ。今のキミを愛する誰かがいる以上、過去を否定することは許されない」
私の腕を掴んだ手に力が篭もる。
「人は誰かに肯定されなくては、生きていけないんだから」
生きていては、いけないんだから。
そう言った彼女の手は、もう痛いくらいに私の腕を握っていたが、振り払う気にはなれなかった。
熱と、微かな湿り気を帯びた声が僅かに震えていた気がして、彼女の手に私のそれをそっと重ねた。
「弱い、ですね」
思わず漏れた言葉は、どういう意味だったのか。誰に向けられたものだったのか。
「人間だからね」
吐息と変わらないさり気なさで吐かれた癖に、何故だか酷く重たく感じたそれのせいで、思わず問う。
「……人間って、なんなんでしょう」
「面倒くさいことを聞くなあキミは」
別に深い意味は無かった。何となく口をついただけで。
こんな話題を無理に続ける事も無かったのだが、幸か不幸か良い話の着地点を見つけてしまった。
「人形とか霊異とか言いますけど、一体どこからが人間で、どこからがそうじゃないのかなって」
肩にかけたトートバッグに視線を落とす。
私は、生まれつき常人には見えないものを見てきた。
その事の異常性に気が付いたのは恥ずかしながらかなり遅く、中学校一年生の夏の日のこと。
私が愚鈍だったのもあるだろうけれど、
「良いじゃないですか、ちょっと付き合ってくださいよ。今センチメンタルな気分なんです」
唇を尖らせて拗ねる私に苦笑しながら、彼女は応じた。余り考えた様子は無かったから、多分幾度となく考えてきた事なのだろう。
彼女は私よりよっぽど、霊異について知っているのだ。
「生物学的に聞きたい? それとも哲学的に聞きたい?」
「では、哲学で」
「『殺してやる』と思うのが人間で、『食ってやる』と思うのがそれ以外だ」
「あー」
彼女は「思うというのが正確かどうかは別として」と続ける。
「動物でない僕からすれば事の真相は定かじゃないけれど、感情の有無ではないかと思う。他者、或いは己に本能以上の、即ち『生きる』以外の目的を持てるのが人間だろう。目的と言うよりオプションかな。例えば楽しんで生きるとか……『生きる』より先んじて何かを得ようとするのが、人間らしさじゃないかな」
「でも犬や猫を見る限り、この人には懐くけどこの人には全然、なんてこともあると思いますが。それは好き嫌いの感情なのでは?」
「そりゃあそうさ。何故動物は群れを成すと思う? 或いは成さないと思う? その方が都合が良いからさ。
何にって? だから『生きる』のにだよ。群れを成した方が効率的に餌を得られる。成さない方が取り分が増える。別に傍にいたいから、と仲良しこよしで一緒にいる訳じゃないんだよ。
動物の好意に見えるあらゆるモノは損得でしかない。知っているかい? 犬は飼い主とその家族を、自分含めて階級分けするという。群れの中でしっかりとヒエラルキーを構築するんだよ。餌をくれる者、自分より強い者には良く懐く……いや、媚びる。『生きる』ためにだ。
人間だってそうだと思うかい? 組織に属する人間は上に媚びると言うかい? 『生きる』ために? 違うね、人間は幸せに生きるために媚びるのさ。『生きる』だけなら刑務所にでも入れば良い」
「O・ヘンリーの『警官と賛美歌』ですか」
「彼は素晴らしいよね」
「私は『最後の一葉』が好きです」
「僕は『心と手』が好きさ」
それは……どんな話だったか。なんだか、とても人間らしい話だったように思うけど。
話を戻そう、と彼女は言った。
「人形は……非生物はもっと簡単。当たり前だね。『生きる』も、それ以前の何らかの感情もない。何もない」
「何も……」
「勿論、存在する以上そこに意味は付随するよ? 独楽は回る。鞠は蹴られる。お手玉は投げられる。縄跳びは跳ばれる。そして達磨は転ばない。それがアイデンティティ。だけどそれはそれ以外の何でもない。生きていないし、だから感情もない。人は七回転べば八回起きられるかもしれないけど、達磨は七回転べば七回起きるだけなのさ。それ以上は、霊異の領域だ」
「では、霊異とは?」
彼女は、殊更どうでも良いことのようにこれに答えた。
「霊異は霊異だよ。彼等は自分が何かを知っている。だから霊異以外の何者でもないし、それ以外では有り得ない。人間に限り無く近い形状をしていようと、限り無く近い精神を持とうと、それはあくまで人間のようなであって別の物だ。そういう霊異であるだけだ」
だから。
「人間とは、人間であることだ」
動物とは違って『生きる』こと以外に必死になれて、人形と違って何かを持ち、そして霊異と違って己を迷う。曖昧模糊として、だけど唯一無二。
人間であること。
「んー……分かるような、分からないような?」
人間として生まれれば無条件で人間ということ……だろうか。
一見当たり前の事のように思えるが、私は自分がなんなのかと悩んでいる人を幾度と無く見てきた。
自分をしかと持っている人間は、思うより少ない。
要するに人間は……そうに限らず、全てが全て、他者には成り得ないと言うことなのだろうが……いや。一つだけ、人間がなれるものがあるか。
霊異。霊異には、なれるか。
死ねば人間は霊異になれることを、私はそれこそ、
人のことより、知っている。
片道切符の一方通行ではあるけれど。現に、私は。
「痛っ……」
疼痛。唐突な頭の痛み。思考が遮られる。
今、何を考えようとしたのか。今、何を思い出そうとしたのか。
一切が痛みに崩されて、記憶の波に流されていく。再度覚えているところから思考を巡らせてみるが、それは痛みを助長するだけだった。
増す痛みに耐えかねて、結局私は、考えるのをやめた。
いつもの事。
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