13

「そろそろ落ち着いた?」


 離れ際、彼女は指で私のまつ毛の辺りの雫を拭った。

 一つ。二つ。ゆっくりと深呼吸をすると、頭の痛みと共に汗もすうっと引いていった。

 空気は乾いている。見上げた太陽は頂点にさしかかろうというところで、そろそろお腹も空いてきた。

 未だに成長期を期待する(因みに今年で20歳)私はそれなりに食欲が旺盛なのだ。


 鴟蛇さんは私の安い腕時計を覗き見た。腕時計などの機械の類は持っていないらしい。もしかしたら携帯電話も持っていないかもしれない。アクセサリーの類も見る限りでは身に付けていないようだし、アナログ主義なのかもしれない。いや、着物だからか?


「十一時と少しか。そうだね、遅めの昼食が取れるくらいには終わらせたいかな」


 鴟蛇さんは二本指を立てる。

 訳が分からなかったのでパーを出しておいた。


 ……何故そんな残念なものを見る目を。


「そこで負ける辺りキミだよね」


「それはどういう意味です? 私が純然たる敗北者だとでも? それとも奥ゆかしいヤマトナデシコガールだと? 後者なら漏れなく私の笑顔が見られますが」


「二時間」


 無視ですか。


 無視されたこと自体は悲しかったが、「そうそう、今度私の好きなドラマが二時間スペシャルなんですよー」とか意味の無いことを言うのはやめておいた。

 そんな風に鬱陶しく絡んだところで多分また無視されるのだろうし、彼女の言わんとするところに気が付いたから。


「あと二時間でキミの問題を解決しよう」


 鴟蛇さんの目は自信に溢れていた。

 これまでの私との会話で何かを掴み、それを元に大凡の事の顛末を予測し、かかる時間を逆算したのだ。

 正直なところ、言葉だけで信じられることではない。彼女の掴んだ何かは、私には全く見当もつかないし、それに、10年近く悩まされてきた人形との関係が、こんなに簡単に終わらせられるものなのか分からないから。

 しかし、私は決めたのだ。彼女を信じると決めたのだ。


「……本当ですか」


 それは問いだったが、確かな期待でもあった。

 彼女は私の瞳を見据えたまま、ニヒルに笑う。


「断言はしない」


 こけそうになった。

 いや、そこはしましょうよ。


「何故なら、違えた時に格好悪いからだ」


「かっこ悪っ!」


「既に大口を叩いたことを後悔したりなんかしていない」


「(かっこわらい)っ!」


 しかも失笑である。苦笑でも可。

 調子の狂う人ですね。


「笑えるならなんだって良いだろうさ。人間、笑えなくなっちゃおしまいだ」


 悟ったようなことを言う。急に滑稽なことを言い出したのは私を気遣っての事なのだろうが、そんなことを言えるほど歳を取ってないだろうに。


 そういえば、鴟蛇さんは学校はどうしているのだろう。

 健全な女子大学生こと私は、やんごとなき事情により本日自主休講を敢行した訳だが、通常平日の昼間にこうして出歩くのは褒められることではない。

 雰囲気こそ大人びているが、顔はあどけなさを残しているし、私より年下に見えるのだが。


 ああ、そうだ。


「この先に十字とおあざ女学園がありますね。私の母校なんですよ」


 自慢じゃないが、我が母校、十字女学園は名門校だ。それはもう、観光名所も何も無いこの地方都市が全国に対して唯一誇れると言っていいほど。

 入試倍率はざっと六倍。勉学の優秀さもさることながら、運動部文化部共に輝かしい経歴を持ち、極めつけに、歩行一つとっても指導が入る正真正銘のお嬢様学校。

 私はそこの特待生だった。お金が無かったから、必死に勉強をするしか無かったのだ。


 大学入試よりも苦労したものだ……しみじみしながら振り向くと、彼女は「うげ」とでも言いそうな顔でくしゃっと顔を顰めた。


「うげ」


 言った。


「しまったな。そうか、この道の先なのか。十字には余り近寄りたくなかったんだけど」


「もしかして鴟蛇さんの学校でしたか? ダメですよ、サボっちゃ」


「いやいや。僕は学校には行ってないよ」


 今度は私が顔を顰める番だった。

 色々と事情があるのかもしれない。余り踏み込むべき話題ではなかった。


「違う違う。別に不登校とかそういうんじゃないよ。本当の意味で行ってないんだ。どこにも所属してないって意味」


 彼女はなんでもないように苦笑したが、私はむしろ先程よりも憂鬱な気分になってしまった。

 別に誰もが高校に行くべきとも思っていないし、それが法律で定められている訳でもない。しかし現在、それがスタンダードであることは確かだ。

 彼女がどこの高校にも行けないほど学力が足りていないとも、健康上問題があるとも思えない。なら、高校に通えないのは……通わないのは、彼女が霊異の専門家だからに違いない。


 鴟蛇さんは、自分を訪ねてきた私に対して「ここは紹介制だ」と言った。客を選んでも十分にやっていけるだけの地位を……それも、あんな屋敷を維持できるだけの尋常ではない信頼を、その世界で得ているということだ。


 それはきっと、一朝一夕でどうにかなるものではない。ならば、彼女は一体いつから霊異の世界に生きているのだろう。


 それを不幸だと判ずるのも、普通じゃないと思うことも、一義的で主観的で、それに偏見であるという事は分かっているけれど、それでも同情は、禁じ得ない。


 たぶん、失礼な感傷なのだろうけど。


「ちょっとね、会いたくない子が通ってるんだよね」


 そうなんですか、と適当に相槌を打つ。

 道の脇に白亜の壁が見えてきた。陽光を照り返すそれは清廉ではあるが、重厚な門と合わさって必要以上に外部の干渉を拒んでいる。

 言葉とは裏腹に、彼女は楽しそうな顔で背伸びをして中を覗き見ようとした。届くわけもないのに。


「鴟蛇さん……」


「いやあ、女子高生は良いねえ」


「鴟蛇さん?」


 いたたまれずに思わず声をかけた私を振り返り、彼女はあの桜のような笑みで、そんなスケベなおじさんみたいなことを言い放った。


 私の感傷を返せ。


「もしかして鴟蛇さんって、女の子が好きな人だったりします? それともどっちもイけるクチで?」


 否定はしませんけども。


「ふふ、どうだろうね。あえて否定はしないけれど」


 否定してください。


「そんなのほとんど肯定してるみたいなもんじゃないですか」


 無意識に距離をとる。そんなことを聞かされて冷静でなんていられない。それだと今までの行動も意味合いが変わってくる。


 結構ディープにボディタッチしたりされたりしたんですが?


「否定はしないけれど、誤解だと言っておこう。誤解というか、言い方が悪かった」


「はあ」


「女子高生がいいものだ、と言った訳ではなく、女子高生が羨ましいと言ったのさ」


 また、胸が締め付けられる。



「あんな可愛い服着て良いなあ!」


「……」


 女性的な視点ではあったが、おじさん発言と大差ない変態マニア具合だった。私の同情を返せ。


「良いよねえ、制服。シンプルな造りなのに、纏うだけで非現実の仲間入りだよ。いや、あれは空想かどうかではなく、次元の話なんだろうか。ともあれ、あのプレミア感は筆舌に尽くし難い」


 着られれば良いとは言わないが、そこまでファッションに入れ込む気のない私には分からない境地だ。


「特に十字の制服は可愛い。流石は私立だよね。僕の知り合いが通っていると言っただろ? その子によく見せてもらおうと頼んだんだけど、僕は蛇蝎のごとく嫌われているからね。取り付く島もなかったよ」


 僕はヘビとサソリじゃなく、ヘビとフクロウなのにね……と彼女は言った。

 そこで初めて、私は彼女の名前をどう書くか知った。


 鴟蛇しじゃ。フクロウとヘビ。


「あとは体操服とか、学年ごとに決まった色のジャージとかも憧れるよね。セーラーカラーのラインの色とか、スカーフの色とかリボンの色とかさ。こう、規律があるものって良いよね。ビシッとしててさ」


 憧れを口にする鴟蛇さんは、霊異の話や哲学じみた話をしている時よりも幼く見えた。


「ま、そんな話はどうでもいいか。そろそろ行こう。彼女と遭遇する心配も無さそうだ。そりゃ健全な女子高生なら、授業中だもんね」


 まるで自分が健全ではないと……普通ではないと言っているように聞こえるのは、気のせいだろうか。私の柔軟性のない頭のせいだろうか。

 明るい声色とは裏腹に、その笑みが悲しげに映るのも、私の目が悪いのだろうか。

 連帯感を覚えるものにばかり憧れているのも、ただの偶然なのだろうか。


「あ……はい」


 本当に、どうでもいいんですか?


 口から出かけた言葉を飲み込む。この感傷もやっぱり一義的で主観的で、失礼な干渉なのだろうから。

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