14


 十字女学園を横切り、長い坂を登ってしばらく、庭月野家……旧、私の家が見えてきた。

 特段栄えている訳でもない地方都市の、更に郊外であるこの辺りは現代化の波に乗り遅れているらしく、古めかしい住宅がぽつぽつとあるばかりで特徴がない。

 今思えば、鴟蛇さんの屋敷があった、かのクラシカルな町は私には恐ろしいばかりだったが、見る人が見れば侘び寂びというものを感じられてある種楽しい場だったのだろう。

 庭月野家の低い門の前で立ち止まって辺りを見回すと、ほど近くにバス停があった。駅からの巡回バスらしい。一時間に一本程度しか走っていないようだが、それなりに遅くまでやっている。タイミングが合えば、帰りはバスにしよう。


 何の変哲もない日本家屋を見上げる。記憶していたよりも随分と大きく感じる。幼い時分に大きいと思っていたものを小さく感じることはままあるが、逆はそうあることでは無いように思う。まあ、私の記憶が頼りないなんて、今更だ。


 ここから離れて約10年。その間に一度も訪れなかったのは、用がなかったからでも億劫だったからでもない。ここで母が死んだからだ。

 自分の暮らしていた家をこうまで呪う人間はそう多くないだろう。懐かしさも美しい思い出に対する感動も、何も込み上げてこない。

 生じるのは無視出来る程度のいつもの頭痛と、母の死に対する悼みだけ。



「その憂愁も今日までだ。さ、かぐや」


 促されて歩を進める。

 鴟蛇さんに背中を叩かれると、頭痛も哀しみも消えて、前を向く勇気が湧いてくる気がした。


 簡単にしか整えられていない地面には小石が散らばっていて、一歩毎にざらついた音がする。玄関の引き戸に手をかけた瞬間、ラジオのノイズのようなあの雨音が脳裏に蘇ったが、ここまで来て逃げてたまるものかと奥歯を噛んだ。

 細く息を吐いて、脳をクリアにする。

 

「開けます」


「うん」


 がしゃん!

 引き戸の鳴る音。しかし景色は先程と変わらない。


「……開けます」


「うん」


 がしゃん! がしゃん! 景色に変わりはない。何度瞬きをしようと目を擦ろうと、そこには古びた引き戸があるだけだ。

 振り向いて言う。多分顔は赤い。


「……鍵、かかってます」


「そのようだね」


 私達の間に微妙な沈黙が横たわる。

 いやしかし、考えてみれば当たり前の事だ。何故今まで気が付かなかったかと不思議に思うほど。

 今は誰も使っていないとはいえ、いや、だからこそ戸締りはしっかりとするだろう。


「多分、鍵はみやこおばさんの所でしょうね……」


「おばさんと言うと、つまりキミが今身を寄せている?」


「ええ、はい」


 アパートのある方を見やる。高台にあるこの家からだと見えそうなものだが、それらしき建物は見当たらない。単に見つからないのか、或いは見えないほどに遠いのか。

 ともあれ一度、みやこおばさんに会わなければならないのは間違いない。何も無ければアパートの管理人室にいるはず。手間と自主休講を知られることを考えると憂鬱だが仕方ない。



「あの、私取ってくるので待っててもらえ」


 ますか、と言い切る前に鴟蛇さんは鉢植えを持ち上げた。その下には虫が湧いていた。ってひぃ。暖かくなりましたもんね。


「何してるんですか?」


 私の気分を害する作戦なら大成功ですが?


「スペアキーとか無いかと思ってね。ええい、面倒だ。こんな時こそ」


 ぽんぽんと鴟蛇さんの身体から生じる漆黒の獣たち。先刻のハムスターを筆頭に、犬やら猫やら狸やら鼬やら、その種類は千差万別。烏なんか出しても空には何も無いだろうに。


「うわあ」


「なんだいその反応は」


「いえ別に……」


 ざあっと家に殺到する獣の大軍。普通に怖い。何せ全部が全部黒いものだから、不吉すぎて。

 遠目だと蟻の大群が押し寄せているようにも見える。白蟻じゃないだけマシか。


 普通の動物にしか見えない彼らが器用に前足や嘴を駆使して探し物をするのは、まるでファンタジーだ。いや、オカルトなのか。

 ……だから、石なんかひっくり返したところで、見つかるのはダンゴムシくらいでしょうに。


「ん」


 やがて鴟蛇さんが声をあげた。それと同時にカシャンと錠の落ちる音。そして鴟蛇さんの元に殺到する黒き獣達。

 彼女の身体に還る様は、やっぱり捕食シーンみたいだ。


「見つけたんですか?」


「いや、綻びから入った奴が内側から開けたみたいだ」


 なるほど、霊異だけあって賢い。

 引き戸に手をかけると、いとも容易く開いた。


 花なんか飾ってある土間。古びた下駄箱。真っ直ぐに伸びる廊下の脇にはいくつか襖がある。多分正面に進むと居間につくのだろう。未だに電気など通っているわけもないからか、昼間だというのに酷く薄暗い。長らく人の気配のなかったこの無機質さは、見ないふりができない程度には不気味だ。


 それにしても、綻びですか。そういうところから虫や鼠が入り込むんですかね、なんて何気なく当たりを見回した時、今正に私達が入ってきた引き戸に穴が空いているのに気が付いた。


 ははあ、ここから入った訳ですね。

 よくよく観察してみれば随分と新しい傷のようだ。まるで今さっき出来たばかりのような。


「……」


 そういえばあのハムスターちゃん、霊異の皮膚を食い破って中に侵入するのが得意なんでしたっけ。


「先ずは居間からかな」


 私の咎めるような視線を涼しい顔で受け流し、ずんずんと鴟蛇さんは進む。多分先程の式神達から家の情報をある程度得ているのだろう、全く迷いのない足取りだった。


 すらりと綺麗な音を立てて襖が開く。

 目に飛び込んできた光景が、私の頼りない記憶といくつか一致した。実感こそないが、やはり私はここにいたのだ。


 当然だが、物は殆どない。描写できるのは床の間の掛け軸と、それから棚くらいのもの。八畳程の空間だが、そのせいでやたらと広く感じる。


 きょろきょろと辺りを見回す鴟蛇さんに倣うが、何も目につくことはない。或いは注意力のない私が気が付かないだけで、見る人が見れば何かが分かるのかもしれない。少なくとも私に限って、何かがということは無いわけだし。



「あ、茶器がいくつか残っていますね。まあ見覚えはやっぱり無いんですが」


 なんとはなしに棚を開くと、移動し忘れたのか意図的なものなのか、まあ一日程度生活する分には困らないか、程度に食器が詰まっていた。もしかしたら叔母は、突発的にここを使うことを考慮していたのかもしれない。


「動くから触っちゃダメだよ」


「いやいや、殺人現場じゃないんですから」


 では、ありますが。


 そう、ここは殺人現場では有り得ない。

 人ではない何かが人を殺したのなら、それは殺人ではなく事故なのだ。どれだけそれが人を模していようとも。どれだけ私がこれは殺人だと主張しようとも。


「だからこの家も売れないんですよね。私達の手を離れてくれれば心の荷も下りるってものですが」


 ひとりごちると、またあの記憶が想起した。


 ラジオのノイズのような雨音。マグマのような胸の内。青黒く染まっていく大事な人の顔。夜の帳のように広がる人形の髪。そしてそこにぽつんと浮かぶ赤。


 泣き、喚き、怒りながら真実を人に語り、そして絶望した10年前のあの日。この家について唯一はっきりと記憶に残っている母の死因が不明のままに放り捨てられ、調査中とだけ報じられたあの瞬間、私は、人にとって目に見える物だけが真実なのだと悟ったのだ。


 世界こそが、現実だと知ったのだ。



「……ああ、はいはい分かってますよ」


 ズキリと痛んだ頭に苛立ち、それを棚を乱暴に閉めることで発散しようと試みるも、それくらいでは心は晴れなかった。

 触るなと言われたのでこれ以上物に当たるのは諦め、手持ち無沙汰に壁にもたれる。長く吐いた息が低い天井に溜まっていくような錯覚。これが本当の溜め息ですか、なんちゃって。



「あはは。くっだらな」


 自嘲気味に笑って、衝動のままに壁を叩いた。

 ばん! と思いの外大きな音が鳴って驚く。自分の暴力性が恥ずかしい。ああ、ほら。鴟蛇さんもあんなに目を見開いてこちらを見ている。


「す、すみません。うるさかったですよね」


「そうか、中に入れてるんだ」


「はい?」


 首を傾げて疑問を示すも、彼女は応えずにただ庭に出て再度鴉を放った。空気を叩いて舞う鴉は、家の上空をぐるぐると回っている。

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