25
◇
なんだか眠れない。
布団の中で何十分も呼吸だけする生き物になってはみたが、眠気はどうにも訪れなかった。
どうせ眠れないのなら布団にいる意味もあるまい。起き上がり、身体が冷えないように羽織をまとって私室を出る。
「
一声かければ漆黒の巨獅子はすぐに起き上がって傍に侍る。限りなく現実のそれに近づけてはいるものの、結局は虚構が真似ているだけなのだから、眠りですら偽りなのだ。
感情を元に作った式神達は、他の専門家のそれとは一線を画して
縁側に座って一息つく。死獅の分厚い身体にもたれ、ぼうっと庭を眺める。
夜風に揺れる桜。水面に映る月。恩人から頂いた屋敷から見るこの庭が、僕は好きだ。
風流なんて分かるほど生きてもいないし、経験を積んだとも思っていないけど、綺麗な物は綺麗だと思う。
今日は騒がしい一日だった。当初の想定よりも複雑に人の心が関連していた依頼に手こずり、久方ぶりの戦闘までした。
人形を破壊すればそれで終わり……その通り。多くの専門家はそうするだろうし、かぐやもそれで文句は言わなかっただろう。
あれは、その気になれば十数秒で終わっていたはずの怪奇譚。だから彼女の心を乱し、涙まで流させたのは僕の責任だ。
知らなければそれで困らない真実を暴き、話を拗れさせる僕のやり方が絶対的に正しいとは思わない。しかし間違っていないと信じている。
嘘を嘘のままにしておくことが許せない訳ではない。だが、その上に成り立つ幸せは脆い。いつか失ってしまう幸せなら、最初から無い方が良いに決まっている。
今回の仕事は、その観点で言えば満点と言って良い出来だった。隠されていた真実は依頼人を傷付けたが、しかし同時に成長させた。彼女には叔母や友人といった、頼りになる隣人がいた事が理由だろう。虚構ではない幸せを、彼女は既に掴んでいたのだ。そしてこの先、虚構に怯えることもきっと無い。
だが一方で失敗だったとも言える。
彼女と深く関わるつもりはなかった。今回に限った話ではない。依頼人と……いや、人と不必要に関わることは、僕にとって不利益でしかないのだから。
「まったく、参ったな」
生まれてしまったこの感情は、間違いなく僕のものだ。誰かの身代わりとしてのものではなく、八月一日鴟蛇本人のもの。
それを切り離して式神として放つ。ほんの一時凪ぐ僕の心だが、また内から同じものが生じる。それを何度も繰り返す。
身体から生まれる獣達をただぼんやりと眺めていると、かぐやと交わした会話が想起した。
人とはなにか。人と獣と、その他との境は何か。
僕は感情の有無だと答えた。「生きる」という最も原始的な欲……本能に付随する何らかの有無だと。
「そうでなければ……」
そう思い込まなければ、人としての形を持たずに生まれたこの僕は。
幾度となく投げかけられたあの言葉こそが真実なのではないかと。彼が嘘だと断じてくれたあの日こそが虚構なのではないかと、思わずにはいられない。
『鴟蛇。フクロウとウワバミ』
頭の中で声がする。忘れたくても忘れられず、切り離しても切り離しても際限なく負の感情を生じさせる、生物学上の親とか言う奴の声が。
『お前は』
記憶を消したいと、記憶が無い故に彼女は願った。
僕はそれをいけない事だと言ったが……忘れてしまえることは、羨ましい。
僕は感情や傷、その他の苦しみを身代わり、切り離す事は出来るが、記憶は無理だ。
そして記憶が有れば、人は感情を生じさせることが出来る。痛みを思い出すことが出来る。
まるで無間地獄。終わらない苦しみ。なまじ傷を消せるから、僕はかぐやの母親のように狂えない。かぐやのように逃げられない。
こんな事を思ってはいけないのは分かるけど、それでも僕は、そうせずにはいられない。
僕は、かぐやが羨ましい。
『人間じゃない』
記憶の声が振り上げた刃は、いとも容易く僕の心を穿つ。
――痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
『どうして誰も僕を見てくれないの?』
『どうしてみんな無視するの?』
『僕はここにいるんだよ』
『僕だって人間なんだ。だって、右手と左手と右足と左足が無いだけじゃないか』
『ねえ、僕を見てよ。ここにいるんだよ。ちゃんと在るんだよ』
『お願いだから』
『歩けないんだよ。這うことも出来ないんだよ。見たらわかるでしょ』
『構ってよ。僕だってちゃんとお母さんのお腹から生まれたんだよ』
『楽だったでしょ?』
『
ああ、頭の中で声がする。他でもない、僕の声が。
漆黒の獣たちが際限なく生み出されては思い思いに駆けて行き、暗闇に呑まれる街に溶けていく。
この僕を抱き締める腕も、震えの止まらない脚も偽物だ。本物なのは、半分だけ。
半分霊異で出来たモノは、果たして人間と呼べるのか?
「——ああ」
死獅の舌が顔に触れて正気に返る。ざらついたそれは人間のものと違って危険なものだが、それを理解しているのだろう、表面だけを撫でるような優しさだった。
まん丸とした黒瞳が、心做し心配そうに月を映して揺れている。
「……はっ」
心無し……ね。
自分で自分を嘲笑う。獣に心が無いと断じた僕が、それに慰められるとは。
いや、正しくは霊異か。僕の感情の一部の内、彼が担っているのが優しさだとか慈愛だとか、その辺りなんだろう。
自分で自分を傷つけて、自分の分身に慰められて、一体僕は何をしているのやら。
鬣に額をつけて、大きな鼻の頭を撫ぜる。
「ありがと。もしかして、僕泣いてた?」
返事の代わりにまた目元を舐められる。
からからに喉は乾いているし、服もベタベタだ。
「ねえ死獅」
全身で死獅に抱き着く。
彼の身体には温度がない。感触もその厚みも本物と寸分違わないはずだが、結局彼は偽物だ。
「僕の身体は、暖かい?」
この腕も脚も偽物だ。中身がスカスカのハリボテのようなもの。常人のそれよりも頑丈で遥かに強力で、触れればそれなりに柔らかいが、その実肉は詰まってないし、加えて神経も通っていない。
だから僕は、僕の温度を感じない。そこに確かにいるという、確証を得る術がない。人間じゃないという言葉を、真っ向から否定できない。
頭も顔も腹部も胸部も腰も、どうやら人間であるらしい。果たしてそれは本当か?
四肢が無いままに生まれたらしい。しかし生まれた時の記憶などない僕は、それを人伝に聞いただけだ。
獣には心が無く、霊異は己が何か知っている。
あの、人を信じすぎる依頼人は、これがなんの根拠もない僕の詭弁だと気付かなかった。
しかし、なんの根拠もなかったとしても、これが僕にとっての真実。
だってそうでなければ、全てが虚構である可能性……僕がそういう霊異である可能性は、どう足掻いてもゼロにならない。
なってくれないのだ。
「クモさん……」
目を瞑り、今度は意図的に記憶の中の声を再生する。
『大丈夫。キミは人間だとも。僕が保証する』
ああ、クモさん。嘘つきなあなた。
一体今どこにいるの?
僕は変わらずここにいるよ。ずっとあなたを待ってるんだ。
あなたにもらったこの屋敷で、あなたにもらったこの力で、あなたの真似をして万能の専門家を気取っている。知っているだろうけど。
何も言わずにあなたはいなくなったけれど、何かあったのかな。それとも僕の何かが悪かったのかな。
お願いだから、もう一度だけ僕を人間と呼んで。10年前のあの日のように、ぎゅっと僕を抱きしめて。
こんなに会えないと、疑いたくないのに、疑ってしまうよ。
僕の存在も、嘘つきなあなたの言葉も。
「会いたいよ……!」
僕は、誰かがいなければ己の実在も信じられないんだよ、クモさん……!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます