25


 なんだか眠れない。

 布団の中で何十分も呼吸だけする生き物になってはみたが、眠気はどうにも訪れなかった。


 どうせ眠れないのなら布団にいる意味もあるまい。起き上がり、身体が冷えないように羽織をまとって私室を出る。


死獅しし、おいで」


 一声かければ漆黒の巨獅子はすぐに起き上がって傍に侍る。限りなく現実のそれに近づけてはいるものの、結局は虚構が真似ているだけなのだから、眠りですら偽りなのだ。


 感情を元に作った式神達は、他の専門家のそれとは一線を画して現実リアルだが、突き詰めてしまえば、ただの僕の分身だ。意に沿わない行動を取るわけもない。


 縁側に座って一息つく。死獅の分厚い身体にもたれ、ぼうっと庭を眺める。

 夜風に揺れる桜。水面に映る月。恩人から頂いた屋敷から見るこの庭が、僕は好きだ。

 風流なんて分かるほど生きてもいないし、経験を積んだとも思っていないけど、綺麗な物は綺麗だと思う。


 今日は騒がしい一日だった。当初の想定よりも複雑に人の心が関連していた依頼に手こずり、久方ぶりの戦闘までした。


 人形を破壊すればそれで終わり……その通り。多くの専門家はそうするだろうし、かぐやもそれで文句は言わなかっただろう。

 あれは、その気になれば十数秒で終わっていたはずの怪奇譚。だから彼女の心を乱し、涙まで流させたのは僕の責任だ。


 知らなければそれで困らない真実を暴き、話を拗れさせる僕のやり方が絶対的に正しいとは思わない。しかし間違っていないと信じている。

 嘘を嘘のままにしておくことが許せない訳ではない。だが、その上に成り立つ幸せは脆い。いつか失ってしまう幸せなら、最初から無い方が良いに決まっている。


 今回の仕事は、その観点で言えば満点と言って良い出来だった。隠されていた真実は依頼人を傷付けたが、しかし同時に成長させた。彼女には叔母や友人といった、頼りになる隣人がいた事が理由だろう。虚構ではない幸せを、彼女は既に掴んでいたのだ。そしてこの先、虚構に怯えることもきっと無い。


 だが一方で失敗だったとも言える。

 彼女と深く関わるつもりはなかった。今回に限った話ではない。依頼人と……いや、人と不必要に関わることは、僕にとって不利益でしかないのだから。


「まったく、参ったな」


 生まれてしまったこの感情は、間違いなく僕のものだ。誰かの身代わりとしてのものではなく、八月一日鴟蛇本人のもの。


 それを切り離して式神として放つ。ほんの一時凪ぐ僕の心だが、また内から同じものが生じる。それを何度も繰り返す。


 身体から生まれる獣達をただぼんやりと眺めていると、かぐやと交わした会話が想起した。


 人とはなにか。人と獣と、その他との境は何か。


 僕は感情の有無だと答えた。「生きる」という最も原始的な欲……本能に付随する何らかの有無だと。


「そうでなければ……」


 そう、人としての形を持たずに生まれたこの僕は。

 幾度となく投げかけられたあの言葉こそが真実なのではないかと。彼が嘘だと断じてくれたあの日こそが虚構なのではないかと、思わずにはいられない。


『鴟蛇。フクロウとウワバミ』


 頭の中で声がする。忘れたくても忘れられず、切り離しても切り離しても際限なく負の感情を生じさせる、生物学上の親とか言う奴の声が。


『お前は』


 記憶を消したいと、記憶が無い故に彼女は願った。

 僕はそれをいけない事だと言ったが……忘れてしまえることは、羨ましい。


 僕は感情や傷、その他の苦しみを身代わり、切り離す事は出来るが、記憶は無理だ。

 そして記憶が有れば、人は感情を生じさせることが出来る。痛みを思い出すことが出来る。


 まるで無間地獄。終わらない苦しみ。なまじ傷を消せるから、僕はかぐやの母親のように狂えない。かぐやのように逃げられない。


 こんな事を思ってはいけないのは分かるけど、それでも僕は、そうせずにはいられない。


 僕は、かぐやが羨ましい。


『人間じゃない』


 記憶の声が振り上げた刃は、いとも容易く僕の心を穿つ。


 ――痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。



『どうして誰も僕を見てくれないの?』

『どうしてみんな無視するの?』

『僕はここにいるんだよ』

『僕だって人間なんだ。だって、右手と左手と右足と左足が無いだけじゃないか』

『ねえ、僕を見てよ。ここにいるんだよ。ちゃんと在るんだよ』

『お願いだから』

『歩けないんだよ。這うことも出来ないんだよ。見たらわかるでしょ』

『構ってよ。僕だってちゃんとお母さんのお腹から生まれたんだよ』

『楽だったでしょ?』


他人ひとより足りないから、楽だったでしょ?』



 ああ、頭の中で声がする。他でもない、僕の声が。

 漆黒の獣たちが際限なく生み出されては思い思いに駆けて行き、暗闇に呑まれる街に溶けていく。

 

 この僕を抱き締める腕も、震えの止まらない脚も偽物だ。本物なのは、半分だけ。


 半分霊異で出来たモノは、果たして人間と呼べるのか?



「——ああ」


 死獅の舌が顔に触れて正気に返る。ざらついたそれは人間のものと違って危険なものだが、それを理解しているのだろう、表面だけを撫でるような優しさだった。

 まん丸とした黒瞳が、心做し心配そうに月を映して揺れている。


「……はっ」


 心無し……ね。

 自分で自分を嘲笑う。獣に心が無いと断じた僕が、それに慰められるとは。

 いや、正しくは霊異か。僕の感情の一部の内、彼が担っているのが優しさだとか慈愛だとか、その辺りなんだろう。

 自分で自分を傷つけて、自分の分身に慰められて、一体僕は何をしているのやら。


 鬣に額をつけて、大きな鼻の頭を撫ぜる。


「ありがと。もしかして、僕泣いてた?」


 返事の代わりにまた目元を舐められる。

 からからに喉は乾いているし、服もベタベタだ。


「ねえ死獅」


 全身で死獅に抱き着く。

 彼の身体には温度がない。感触もその厚みも本物と寸分違わないはずだが、結局彼は偽物だ。


「僕の身体は、暖かい?」


 この腕も脚も偽物だ。中身がスカスカのハリボテのようなもの。常人のそれよりも頑丈で遥かに強力で、触れればそれなりに柔らかいが、その実肉は詰まってないし、加えて神経も通っていない。

 だから僕は、僕の温度を感じない。そこに確かにいるという、確証を得る術がない。人間じゃないという言葉を、真っ向から否定できない。


 頭も顔も腹部も胸部も腰も、どうやら人間であるらしい。果たしてそれは本当か?

 四肢が無いままに生まれたらしい。しかし生まれた時の記憶などない僕は、それを人伝に聞いただけだ。


 獣には心が無く、霊異は己が何か知っている。

 

 あの、人を信じすぎる依頼人は、これがなんの根拠もない僕の詭弁だと気付かなかった。

 しかし、なんの根拠もなかったとしても、これが僕にとっての真実。


 だってそうでなければ、全てが虚構である可能性……僕が霊異である可能性は、どう足掻いてもゼロにならない。


 なってくれないのだ。


「クモさん……」


 目を瞑り、今度は意図的に記憶の中の声を再生する。


『大丈夫。キミは人間だとも。僕が保証する』


 ああ、クモさん。嘘つきなあなた。


 一体今どこにいるの?

 僕は変わらずここにいるよ。ずっとあなたを待ってるんだ。

 あなたにもらったこの屋敷で、あなたにもらったこの力で、あなたの真似をして万能の専門家を気取っている。知っているだろうけど。


 何も言わずにあなたはいなくなったけれど、何かあったのかな。それとも僕の何かが悪かったのかな。


 お願いだから、もう一度だけ僕を人間と呼んで。10年前のあの日のように、ぎゅっと僕を抱きしめて。


 こんなに会えないと、疑いたくないのに、疑ってしまうよ。


 僕の存在も、嘘つきなあなたの言葉も。


「会いたいよ……!」


 僕は、誰かがいなければ己の実在も信じられないんだよ、クモさん……!

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