余計な話 壱
時刻は大体夜中の零時——かつて魑魅魍魎の跋扈していた真なる闇は、今や人工の光に駆逐されて久しい。それは、物理的な話に限らない。
容易く人の姿や声を届けることの出来る技術は人を寂しさから解放し、選びきれない娯楽は人に怒りを忘れさせ、捨てるほどある食は人を苦しみから解放した。
人類の発展によって得たあらゆる豊かさは、人の心に安寧をもたらしたのだ。
しかしそれは見かけの話。
寂しさを失った人々は優しさを忘れ、怒りを忘れた人々は弱くなり、苦しみを知らない人々は驕り高ぶり、安寧を得た心は、恐怖と危機感を失った。
過ぎた技術は人間を腐らせる。光が強ければ強いほど影も濃くなる……余りによく出来た因果応報。偶然とは思えないこの当たり前は、創造主と言う奴が人間に罰を与えるためにいるんじゃないかとすら思わせる。
これはまた、霊異も同じ。
かまいたちは
これらのあたかも真実のように見える嘘は人々を暗闇の恐怖から解放し、かつて霊異が優勢だったはずの、人と霊異の力関係は逆転した。
人類史が始まって以降、長らく続いていた人類と霊異の戦いは、人類の勝利でもって幕を閉じたのだ。
そう、表面上は。
確かに力の弱い霊異は、人とその作り出した光に怯え、住処を追われ、最早開拓されるのを待つだけの地に逃げ込んだ。
一方で、人は霊異に対抗する術を失った。
霊異の存在を信じなくなった人々が増え、術師の存在も同時に忘れられた。
しかしぼく達はここにいる。
一部の信心深い人間や見えるだけの人間、そして歴史の真実を知る権力者たちに重用され、世界の裏側の治安を守り続けている。
そう、霊異は今も虎視眈々と狙っている。濃くなった影に隠れ、人に紛れ、発展した技術すらも利用し、無知に……そして無力になった人類の首元に牙と爪をかけている。
「——つまるところ人間は馬鹿なんだよ。とことんまで利己的に発展し、必要以上の贅を尽くし、その事に漠然とした不安を抱きながらも気づかない振りをして、そしてやがて罰を受ける。それだけの生き物だ」
人類の歴史なんてそれの繰り返しとも言える。何度も何度も同じ失敗を繰り返し、反省をし、そして失敗ごと反省も忘れてしまう。
薄っぺらな歴史の堆積はまるで腐ったミルクレープ。誰かがどうにかしなきゃいけないと分かっているのに、視界に入れることすら誰もが厭う。
結局はハリボテの幸せ、砂上の楼閣。
蜃気楼よりはハッキリとした夢だが、うっすらと向こう側に
「ぼく達の仕事は、そんな虚構の幸せを護ることってわけ。分かった?」
ご清聴ありがとうございました、とおどけてみるも、反応がないので軽く頭を蹴りつける。26センチある僕の足の、10倍はありそうな巨大な頭部を。
「要するに君みたいなのが出てくると、こうやってそれなりの対処をしなきゃいけないってことさ。事故物件に好んで住み着いたり、廃病院に無許可で入り込んだり、路傍の地蔵に蹴りを入れられるような世の中のためにね」
腰を曲げてそれを覗き込む。
獣の爪跡のような古傷が無数に走った赤ら顔。鼻は低く、唇はびろびろで、ぼくが身体を丸めればすっぽりと収まってしまいそうな目玉は、片方失われてしまっている。
千年生きた大樹のように分厚く長い胴体。そこから伸びる手足。しわくちゃの手は人1人を握り潰すには余りあり、力強さと乱暴さを伺わせる無骨で太い足は、ゾウも虫のように踏みつぶせてしまいそう。全身が毛むくじゃらで苔蒸して、まるで長い年月を経た石みたいだ。
その姿は正に、人間が思い描く猿の化け物そのもの。
「こうしてボコボコにしておいてなんだけど、住処を奪われ、世界を汚され、誰にも顧みられなくなった君たちにとっては、人間を恨むのも憎むのも当たり前の心の動きで、全く正当なものだよ。それはまあ、手近な街くらい襲ってやろうと思うだろうね」
身体ごと振り返り、近代化の波に乗り遅れた街を見下ろす。昼間はセピア色の写真を切り取ったような風景も、夜になれば人工の光に覆われ、月光を拒絶せんと輝いている。
ともすれば昼間の方が人は恐ろしいと思うのかもしれない……いや、こんな山の中腹から見ているからそう思うだけかな。
闇を恐れるのは人の本能だ。それは多分永遠に変わらない。その恐怖こそ、人類が発展してきた理由なのだから。
『ぐ、ぬ、ぐ……』
背後から地鳴りのような声。
掠れたそれは息も絶え絶えで苦しそうだ。まあ僕が二度と向かって来れないように叩きのめしたからなんだけれども、そんなもの向かってくる方が悪い。
「やあ、元気そうで何より」
向き直ってしゃがみこむ。ギョロリと巨大な目玉がぼくを見つめるが、幸い反骨心は無さそうだ。
『どの口が……!』
「降りかかる火の粉を払うことが悪いだなんて知らなかったな」
『ぬう……』
「人語を解せる程に長く人間に寄り添ってきた君なら分かるだろうけど、あんな街襲ったところでやがては君の方が退治されておしまいだよ。歴史が証明しているだろ?」
都を落とさんとした白面金毛九尾の狐、朝廷に反旗を翻した土蜘蛛の群れ、暴虐の限りを尽くした酒呑童子を初めとした鬼達……全て人の手によって退治されてきた。
数々の大霊異が人類を滅ぼさんと欲し、その手前まで辿り着くも、最後まで成し遂げた霊異はひとつもない。
「最も新しいものとしては十年前の
或いは一瞬の暗闇だった。
「あれに便乗しておけばこの街くらいはやれたかもしれないのに、なんで今更。十年の間に人間は一体君に何をした?」
『何も』
「何も無いってことは無いでしょ」
『知ったような口を……!』
「知っているとも。有名人は有名だって自覚を持たなきゃね。山神様」
ふるりと巨大な目玉が震える。
「かつてこの近辺の村の守護を一手に担ってきた隻眼の猿。この街の地誌によれば、驚くことにその姿は、安土桃山時代から見られていたという。毎年の豊作と村の安全を護る代わりに、少しの作物を頂戴していたらしいね」
善も悪も、神も魔も、人が勝手に決めるもの。霊異にとってはどちらもどうでもいいことで、当たり前のようにそう在るだけ。
人智を超えた存在が優しくあるなら、人にとってそれは神だ。そう、どんなに恐ろしい大猿であっても。
「随分良心的な神様じゃないか。人そのものを求めないなんて珍しい。食い物にしろ嫁にしろ、対価に人間を要求する例は全国にいくらでもあるよ」
ぼくの言葉に訂正するところは無いのだろう。返答は素直なものだった。
『人よりは芋の方が美味い。嫁は、とらん。儂は永く生きるからな、子も要らん』
「だからこそ長く君は祭り上げられているんだろうね。人を対価に要求した霊異は、遅かれ早かれ術師に滅ぼされるから。人間にとって君はとても良い神様だ」
山の頂上付近を見やる。闇に沈んで見えはしないが、そこには大きな赤い鳥居と古びた社があるはずだ。
未だにそれなりの権威を誇るこの山神は、ささやかながら毎年作物を捧げられ、祭りを催されている。
だからこそ分からない。
「もう供物をくれなくなったから。人に忘れ去られたから……ただの化け物に堕ちた神が人を襲う理由としては、この辺りがメジャーなんだけど、君はどうもこれに当てはまらないんだよね」
世渡り上手なことで。羨ましいよ。
「ねえ、本当に何も無かったの?」
大猿は数秒黙ってから、諦めたように目を伏せた。洞窟みたいな鼻の穴から大きく息を吐き出し、憎々しげに牙を剥く。
『忘れられる事の辛さが、分かるか』
「ふん?」
忘れ去られていないから、未だに祀られているんだろう?
そう言う前に大猿は続ける。
『在り方を歪められる事の嘆かわしさが……誰にも届かぬ慟哭を上げることのもどかしさが、人間のお前に分かるか!』
ビリビリと大気が震えるほどの叫び。しかしこれが知覚できることの方が異常だと、ぼくは知っている。
虫と風の声しか聞こえない静寂にあって、爆弾を投下したような悲鳴は、現実にある何にも影響しない。
霊異とはそういうものだ。比喩でもなんでもなく、存在している次元が違う。
『儂はこの地を護り続けてきた。儂の力を貸す代わりに人は心ばかりの対価を支払う。当たり前の人と化生の在り方だ』
黙って頷く。
『やがて人は儂が見えなくなったが、感謝の心は忘れなかった。不作の時は供物を捧げることも無かったが、儂は構わなかった。必要なものでは無いからな』
その言葉に嘘は無いだろう。生きているか死んでいるかも曖昧な彼らにとっては、人の世のものは何もかもが嗜好品以上にはなり得ない。
『だが、恩を忘れることだけは、我慢ならんのだ……!』
先程の問いを繰り返す。
「人は君に何をした?」
血走った目がギョロリと虚空を睨む。多分、その視線の先は、彼自身の記憶の中。
『あろう事か奴ら、儂をただの化生に堕とそうとしおった』
「何を今更。霊異は霊異であって他の何者でも無いだろ。神と祭り上げられて、その心地良さに酔ったのかい?」
『そうではない』
苛立ち紛れの声がぶつけられる。
『昨年の祭りの折、人間どもが話しておったのを聞いた。この地を護っていた隻眼の猿……それは、さる高名な術師の式だと』
「……なるほど」
『儂だ!!』
思わず笑ってしまった。なんて、なんて馬鹿な霊異。
人に寄り添い過ぎた霊異は、こんなにも愚かになるか。
『この地を護ってきたのは儂だ! 何処の馬の骨とも分からぬ人間ではない! 誰に命じられたわけでもなく! 儂が、儂自身の意思で護ってきたのだ!!』
考えてみれば当たり前の話。
誰にも顧みられることなく、ここまで傷だらけになりながら、孤独に人の驚異と戦い続けることの苦しみは、きっと誰にも分からない。
『穢させぬ……!』
よっぽどのお人好しじゃなきゃ有り得ない。
『かつて、この化生に……恐ろしきこの大猿に! 村の平穏の為なら命も要らぬと、震えながら懇願してきた人の覚悟を、誰にも穢させてなるものか!!』
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